「俺はおまえの腕を買っている。本当なら福原がランキング二位でもおかしくない」
「ランキング二位?」
「ブルーアイは天才だからな。それに、福原は詰めに甘いところがある。敵に同情しないで冷酷にプレイができれば、ナンバーワンも夢じゃない……と、思うが」
「そんな感情持ち込まないさ」
「早速参加の登録と準備をしておく。ベスト4以外は予選からだからちょっと面倒だがな」
速水が福原の肩に手を置いた。
「勝てばランキングが相当に上がる。俺とトップを目指そうぜ。俺が引き抜いたプレイヤーが一位を取れば……」
「金が入るんだろ」
「ああ、そうさ」
速水はにやりと笑い、軽く手を上げ屋上の出入り口へ歩いていった。
福原は速水を見送ったあとも、しばらく屋上にいた。
屋上にはベンチが並んでいる他、古い机などが積み重ねてあったりと乱雑だ。中央の円形ベンチの屋根は、緑色の蔦で覆われ小さな山のように見えた。棄てられたリゾート地のような寂しさを感じる風景だった。
校舎のこの屋上は、立ち入り禁止で使われておらず、ゴミ置き場のようになっている。人もほとんど入ってこない。ただ、福原や速水は屋上の複製キーを持っているので、自由に出入りをしている。この場所は妙に落ちつける。
福原は校舎に戻る前に、蔦で覆われた屋根付きベンチへと向かった。裏手に回って福原は、はっと立ち止まる。そこにはコンクリートの流し場があり、ひとりの女子生徒が寄りかかっていた。
視線を空に向けて立っているのは立花飛鳥だった。
彼女は身動ぎせずに視線だけを向けた。影で表情はよく見えないが、瞳は冷たく光っている。陶器のような額に濡れた髪が張りついていた。
よく見ると、飛鳥のセーラー服は濡れていた。濡れたセーラー服が飛鳥の体のラインを露出させている。マネキンというより、彫像のように均衡の取れた上半身だった。服を乾かすように立っている無防備な飛鳥を見て、福原はどきりとした。
「なに?」
じっと見つめている福原に、飛鳥が冷たく言った。
「顔を洗おうと思ってさ」
福原は、飛鳥の体に見とれてしまったことを後悔し、目を逸らした。
「悪かったわね、ここにいて」
飛鳥はそう言い、水道から離れた。
「よくここに入れたな。鍵持ってるのは俺らぐらいのはずだけどな」
福原は立ち去りかけた飛鳥に言った。言い返してこないと思っていたが、飛鳥は立ち止まった。
「お姉さんがいなくなって、お金を稼がなきゃいけない?」
振り向いた飛鳥は無表情に言った。
「……なんだと」
福原は啞然と顔を上げた。
「なんで知ってる」
福原は飛鳥の手首をつかんだ。飛鳥は過敏に反応して腕を引っ込めようとした。
「私に触らないで」
福原は離さなかった。飛鳥の腕は意外に華奢で冷たかった。手首から、とくんと血流の鼓動が伝わった。
「あなた、やっぱり……」
飛鳥がじっとこちらを見ている。
「なんだよ」
福原が睨むと、飛鳥は目を逸らした。
「別に。離して」
「……誰から聞いた?」
「彼女と知り合いだっただけ」
福原は小さく息を吐いた。
「あれは世話焼きだからな」
「どこにいるかは知らない。離して」
突き飛ばすように手を離すと、飛鳥はつかまれた右手を胸に添えこちらを向いた。
「どこにいたっていいさ。まあ逃げたんだろうけど、うるさいのがいなくなって、よかったくらいだよ」
福原は笑ってみせた。
福原は、借金で両親が蒸発してからずっと姉とふたり暮らしだった。姉はただ、自分に学校の成績や社会的な成功を望んでいた。福原もそれに応えているつもりだった。
姉は前々から妙なところはあった。残された借金をどう返したのか、どのような仕事をしていたのか、福原には何も喋らなかった。
そんな姉を何回も問いつめたことを覚えている。しかし、彼女は黙って首を振るだけだった。そんな姉との距離は徐々に開いていった。そして、突如姿を消した。
福原は水道で顔を洗った。姉を思いだした。例えるなら人形のような姉だった。可愛いだけの意思のない人形。ただ座って微笑んでいるだけの存在。汗を洗い流したい気分になり、頭から水をかぶった。
濡れた髪を絞ってから顔を上げると、背後にまだ飛鳥が立っていた。
「なんだよ」
「……逃げているのはあなたよ」
飛鳥の抑揚のない口調は非難めいて聞こえた。
「なに言ってるんだ? クラスにも馴染めないおまえが言うセリフじゃないよな」
「…………」
飛鳥の冷たい表情を見て、何故か福原は姉を思いだした。表情も顔の造形も全く違うのだが、共通する匂いのようなものを感じた。
「なんでおまえは学校に来てるんだよ」
福原は流し場に手をついて言った。
飛鳥は屋上の出入り口へと歩いていく。しかし、扉をくぐる前に、ためらった様子で振りかえった。
「……気をつけた方がいいわ」
飛鳥は妙なことを言い残すと、校舎へと戻っていった。
福原はフェンスまで歩き凭れかかった。変な気分だった。屋上からの景色が、いつもと違って見えるような気がした。
ぽっかりと空いた胸の中に、何か別のものが入っているような、そんな感覚があり、息苦しかった。心臓が異常に高鳴っている。
福原は歯を食いしばり、フェンスにしがみついた。
活動する運動部の姿が見えた。木々の濃い緑。屋上の灰色のコンクリート。湿っぽい風の感覚。真っ白な積乱雲。チャイムの音。校庭のトラックを走る陸上部の姿。
最後の明瞭な記憶はここまでだった。
その後、記憶はクラッシュした。継ぎ接ぎの記憶と思考。時系列と映像がパズルのピースのようにばらばらになっている。
そのピースは徐々に細かく砕かれ、混ぜられ、再び形を形成した時には──
──こうなっていた。