1 日常a ④

「俺はおまえの腕を買っている。本当なら福原がランキング二位でもおかしくない」

「ランキング二位?」

「ブルーアイは天才だからな。それに、福原は詰めにあまいところがある。敵に同情しないでれいこくにプレイができれば、ナンバーワンも夢じゃない……と、思うが」

「そんな感情持ち込まないさ」

さつそく参加の登録と準備をしておく。ベストフオー以外は予選からだからちょっとめんどうだがな」


 速水が福原の肩に手を置いた。


「勝てばランキングが相当に上がる。俺とトップをそうぜ。俺が引き抜いたプレイヤーが一位を取れば……」

「金が入るんだろ」

「ああ、そうさ」


 速水はにやりと笑い、軽く手を上げ屋上の出入り口へ歩いていった。

 福原は速水を見送ったあとも、しばらく屋上にいた。

 屋上にはベンチが並んでいるほか、古い机などが積み重ねてあったりと乱雑だ。中央の円形ベンチの屋根は、緑色のつたおおわれ小さな山のように見えた。てられたリゾート地のようなさびしさを感じる風景だった。

 校舎のこの屋上は、立ち入り禁止で使われておらず、ゴミ置き場のようになっている。人もほとんど入ってこない。ただ、ふくはらはやは屋上の複製キーを持っているので、自由に出入りをしている。この場所は妙に落ちつける。

 福原は校舎に戻る前に、蔦で覆われた屋根付きベンチへと向かった。裏手に回って福原は、はっと立ち止まる。そこにはコンクリートの流し場があり、ひとりの女子生徒が寄りかかっていた。

 視線を空に向けて立っているのはたちばな飛鳥あすかだった。

 彼女は身動みじろぎせずに視線だけを向けた。影で表情はよく見えないが、ひとみは冷たく光っている。とうのような額にれた髪が張りついていた。

 よく見ると、飛鳥のセーラー服は濡れていた。濡れたセーラー服が飛鳥の体のラインをしゆつさせている。マネキンというより、ちようぞうのようにきんこうの取れた上半身だった。服を乾かすように立っている無防備な飛鳥を見て、福原はどきりとした。


「なに?」


 じっと見つめている福原に、飛鳥が冷たく言った。


「顔を洗おうと思ってさ」


 福原は、飛鳥の体に見とれてしまったことをこうかいし、目をらした。


「悪かったわね、ここにいて」


 飛鳥はそう言い、水道から離れた。


「よくここに入れたな。かぎ持ってるのはおれらぐらいのはずだけどな」


 福原は立ち去りかけた飛鳥に言った。言い返してこないと思っていたが、飛鳥は立ち止まった。


「お姉さんがいなくなって、お金をかせがなきゃいけない?」


 振り向いた飛鳥は無表情に言った。


「……なんだと」


 福原はぜんと顔を上げた。


「なんで知ってる」


 福原は飛鳥の手首をつかんだ。飛鳥はびんに反応して腕を引っ込めようとした。


「私にさわらないで」


 福原は離さなかった。飛鳥の腕は意外にきやしやで冷たかった。手首から、とくんと血流のどうが伝わった。


「あなた、やっぱり……」


 飛鳥あすかがじっとこちらを見ている。


「なんだよ」


 ふくはらにらむと、飛鳥は目をらした。


「別に。離して」

「……だれから聞いた?」

「彼女と知り合いだっただけ」


 福原は小さく息を吐いた。


「あれは世話焼きだからな」

「どこにいるかは知らない。離して」


 突き飛ばすように手を離すと、飛鳥はつかまれた右手を胸にえこちらを向いた。


「どこにいたっていいさ。まあ逃げたんだろうけど、うるさいのがいなくなって、よかったくらいだよ」


 福原は笑ってみせた。

 福原は、借金で両親がじようはつしてからずっと姉とふたり暮らしだった。姉はただ、自分に学校の成績や社会的な成功を望んでいた。福原もそれにこたえているつもりだった。

 姉は前々から妙なところはあった。残された借金をどう返したのか、どのような仕事をしていたのか、福原には何もしやべらなかった。

 そんな姉を何回も問いつめたことを覚えている。しかし、彼女は黙って首を振るだけだった。そんな姉との距離はじよじよに開いていった。そして、とつじよ姿を消した。

 福原は水道で顔を洗った。姉を思いだした。例えるなら人形のような姉だった。可愛かわいいだけの意思のない人形。ただ座って微笑ほほえんでいるだけの存在。汗を洗い流したい気分になり、頭から水をかぶった。

 れた髪をしぼってから顔を上げると、背後にまだ飛鳥が立っていた。


「なんだよ」

「……逃げているのはあなたよ」


 飛鳥のよくようのない口調は非難めいて聞こえた。


「なに言ってるんだ? クラスにもめないおまえが言うセリフじゃないよな」

「…………」


 飛鳥の冷たい表情を見て、何故なぜか福原は姉を思いだした。表情も顔のぞうけいも全く違うのだが、共通するにおいのようなものを感じた。


「なんでおまえは学校に来てるんだよ」


 福原は流し場に手をついて言った。

 飛鳥は屋上の出入り口へと歩いていく。しかし、とびらをくぐる前に、ためらった様子で振りかえった。


「……気をつけた方がいいわ」


 飛鳥あすかは妙なことを言い残すと、校舎へと戻っていった。

 ふくはらはフェンスまで歩きもたれかかった。変な気分だった。屋上からの景色が、いつもと違って見えるような気がした。

 ぽっかりといた胸の中に、何か別のものが入っているような、そんな感覚があり、息苦しかった。心臓が異常に高鳴っている。

 福原は歯を食いしばり、フェンスにしがみついた。

 活動する運動部の姿が見えた。木々の濃い緑。屋上の灰色のコンクリート。湿しめっぽい風の感覚。真っ白なせきらんうん。チャイムの音。校庭のトラックを走る陸上部の姿。


 最後のめいりような記憶はここまでだった。

 その後、記憶はクラッシュした。ぎの記憶とこう。時系列と映像がパズルのピースのようにばらばらになっている。

 そのピースはじよじよこまかく砕かれ、ぜられ、再び形を形成した時には──

 ──こうなっていた。

刊行シリーズ

ツァラトゥストラへの階段3の書影
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ツァラトゥストラへの階段の書影