第一章 保父になりたい男 ⑤

「俺の名前だよ」

「朝香……さん」

「呼び捨てにしろよ。がないんだよ。鈴雄には」

「朝香……」

「一回呼んでみれば勇気が出るもんなんだよ。分かったか?」


 朝香はニヤッと微笑ほほえんでみせた。


「特別だぜ。いちおうお前はこの町で最初に出来た知り合いだからな」


 朝香は肩をいからせながら家路についた。


「あばよ。鈴雄」


 軽く手をあげて。

 なんて男らしいの、と母性本能に目覚めたワルガキ専の男子学生が目にハートを浮かべてしまうほどかつこうよかった。

 朝香が保父母採用試験に合格したならば将来どのような保母になるんだろう?

 想像しただけですえおそろしいものを感じる鈴雄だった。


     4


 電車に揺られて三十分。

 駅から歩いて十五分。

 くずれかけた学生寮へと向かっているのである。

 もっとも学生寮とは名ばかり、実際そこに生息しているやつらは社会人ばかりだった。

 食堂は一応あるのだが利用者が少ないため最後に食事が作られたのは数年前という状況だ。

 玄関で靴を脱ぐ鈴雄はパタパタ音をたててやってきた管理人の老人に不思議そうな目で見られた。


さくらざきさん。忘れ物ですか?」

「忘れ物?」

「荷物はとっくの昔に業者の人が運んで行きましたよ」

「はぁ?」


 こんわく気味にそう返す。


「確か部屋はカラッポだったはずだけどなぁ」

「ちょと待ってください」


 不可解な老人の言葉の連続に、すずは待ったをかけた。


「何を言ってるんですか?」

「何って、引っ越しですよ引っ越し」

だれの」

さくらざきさんのですよ」


 鈴雄はしばしぼうぜんとした。

 それからき出した。


「何言ってるんですか管理人さん」

「あぁかぎはいいですよ。この機会に部屋の鍵はえたから。最新式のタイプのえ~となんていったかな。鍵の形がこう四角くて」

「僕が引っ越し? じようだんは止めてくださいよ」


 老人の深く刻まれたシワに冗談という文字はまってなかった。


「もしかしてどこかで頭でも打ちました?」


 心配そうにたずねる鈴雄。


「まぁ、何か忘れ物があるんだったらもう一度部屋を見てってくださいよ。もう明日には次の入居者が来るんですから」


 老人はスタスタと歩き始めた。


「ちょっとちょっと」


 鈴雄は老人の後を追って二階の自室へと向かう。


「何もなかったはずですがね」


 老人はぼそぼそとつぶやきながら鈴雄の部屋の鍵を開けた。

 やっぱり病院へ連れていった方がいいんだろうか?

 鈴雄はしんけんにそんなことを考えた。


「さあ、確かめてください」


 開かれた自室を見た時、鈴雄の目の玉が軽く一メートルほど飛び出した。

 何もなかったのだ。

 見事に何もなかったのだ。

 ベッドも、使っていない机も、知り合いから安く買ったテレビも、バイトしてめた金で買ったビデオデッキも。

 鈴雄はすかさずあたりを確認した。

 階段を上った左。

 間違いなく自分の部屋だった。


「今日、妹さんが来てね。最後のちんとかは払っていってくれましたよ」


 妹だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!

 すずは不自然にピクピクするぶたを老人に向けた。


「い、妹って」

可愛かわいらしい妹さんでしたよ。なんでも新しいアパートでお兄ちゃんといつしよに住むんだとか。とても楽しそうでした」

「その妹が、僕の荷物を」

「ええ」


 老人はうなずいた。

 自分が何か変なこと言いましたかって表情だ。

 さらに質問を浴びせかけようとする鈴雄を、突き出された二本の大根が制した。


「聞いたよ。鈴雄ク~~ン。とつぜん引っ越すなんてはくじようじゃないか。あ、これおせんべつ


 で働いてるマサさんだった。

 それから入れ代わり立ち代わり魚やら果物やらが鈴雄の前に突き出される。


「それじゃ鈴雄君。元気でね~~~~~~~~~」


 皆の熱い見送りを鈴雄はぼうぜんと見つめていた。


     5


 あの想像を超える出来事から一時間が過ぎていた。

 うす暗い中、鈴雄は真新しい六世帯入居のアパートを前に立ち尽くしていた。

 管理人の老人から渡された新住居の住所をたどって来たのである。

 不自然なくらい真新しいそのアパートの入り口にはこう書かれていた。


『コスモス荘』


 餞別の詰まった袋をそうされた細い道へ置くと鈴雄はごくりとつばを飲み干した。

 いままでのうがカオス状態でフラフラしていたがやはりおかしなものはおかしい。

 居もしない妹の存在。

 知らない間に引っ越し。

 不自然だった。

 とてつもなくおかしかった。

 鈴雄はコスモス荘のちょうど真向かいに公衆電話があるのに気がついた。

 鈴雄は電話に駆け寄ると、最後の望みをかけてその受話器を取った。

 落第の際、何度か電話で相談したことがあったためその番号を覚えていた。

 なが県の姉である。

 プルルルルルル。プルルルルルルル。

 すずは息苦しさを感じながら待った。

 え切れないかいさに押しつぶされそうになるのを持ちこらえながら。


『もしもし』


 わりとれいな声が受話器の向こうから響く。


「ああ、姉ちゃん」


 鈴雄はき込んで言った。


『鈴雄? どうしたの?』


 鈴雄の実の姉、さくらざきすずはいつもと変わらないのほほんとした口調で答える。


『保父母採用試験のこと?』


 鈴雄は受話器の前にもかかわらず首を振った。


『違うんだ姉ちゃん』


 鈴雄はそこで深呼吸をすると決意をかましたかのように表情を固くした。

 そして便べんをひねくり出すように一言一言。


「僕達に、妹って…………いたっけ?」

『何鹿なこと言ってるのよ』

「そ、そうだよな。はは。馬鹿なことだよな」


 鈴雄はこぶしにぎり締めるとヨッシャァってポーズをかました。

 そうだよ。僕はおかしくなかった。僕はおかしくなかった。おかしくなかったんだ。

 しかし続いて受話器から響いた姉の声は鈴雄をごくへと突き落とすものだった。


すずのことでしょ』


 鈴雄は地獄へ落ちた。

 不可解という地獄のオニ達が鈴雄を針の山へと急き立てる。


『そういえば小鈴あんたといつしよに住むんだって。昔からお兄ちゃん子だったからね。小鈴は』

「はは、ありがとう。それから最後に聞くんだけど、姉ちゃんここ数時間以内に台所でこけて頭を打ったとかないよね」

『ないよ』


 絶望的だった。


「ありがとう」

『どういたしまして。ちゃんとピアノの練習しなさいよ』


 姉の声援を受け、鈴雄は受話器を置いた。

 どうやらこの異変は自分の想像を超える範囲でしんとうしているらしい。

 考えられる可能性は二つ。


 ①僕がおかしいのか?

 ②僕以外のすべてがおかしいのか?


 まよわず②をマークしたいところだがどうにも鉛筆をにぎった手がふるえる。

 すずはここ数十時間に自分が頭を打ったかどうかを思い出した。

 結論はNOと出た。

 自分は頭など打ってはいない。

 自分はなはずだ。

 自分は正常なはずだ。

 鈴雄は頭の中で自問しつつかんまんとした動作でコスモス荘へ近寄った。

 新築したばかりでまだ入居者が決まってないのだろう。

 一階はからっぽだった。

 鈴雄は真新しい階段をとばとぼと上った。

 鈴雄はとぼとぼとき出しの二階通路部分を歩いた。

 はしまで到着した鈴雄は思わず涙した。

 発見してしまったのだ。


さくらざき』というプレートを。

 五号室だった。

 四と六は、空っぽだった。

 鈴雄は引き返すと五号室のドアの前に立った。

 手の中の紙にもコスモス荘、五号室と書かれている。

 これが未知とのそうぐうってやつだ。

刊行シリーズ

住めば都のコスモス荘SSP お久しぶりにドッコイの書影
住めば都のコスモス荘SP 夏休みでドッコイの書影
住めば都のコスモス荘(4) 最後のドッコイの書影
住めば都のコスモス荘(3) 灰かぶり姫がドッコイの書影
住めば都のコスモス荘(2) ゆ~えんちでどっこいの書影
住めば都のコスモス荘の書影