誰も奴に勝つことはできないと誰もが言う。
焰が息をしていてはいけないのだと誰もが言っている。
集中しろ。歯車の音があと十も鳴れば、自分はあの奈落の底めがけて撃ち出される。向こうがカタパルトのゼンマイと歯車をどうプログラムしているかにもよるが、会敵する瞬間は早ければ撃ち出されて三秒後、どんなに遅くとも五秒後にはやってくる。
本当に自分は息をするにも値しないのか。それがもうすぐわかる。
斑がそれを決めてくれる。
こちらは楽なものだ。全力で抗う以外のことは何もしなくていい。
日光と月光が、射出の衝撃に備えて固く身体を丸める。
鐘が、鳴った。
◇
焰が見た。
焰がこっちを見た。
焰がこっちを見て笑った。
真っ暗な通路の中を、楽はびょんびょん跳ね回っている。喜んでいるのか怖がっているのか、自分でもよくわからない。とにかくじっとしていられなくて、楽は弾丸のような勢いで無重力の通路を飛び回っている。
闇の中に隠れていた柱にけつまずいた。
べしょんと天井にぶつかる。
それでも楽はぱっと起き上がり、その場で喜びの踊りを踊った。喜びの踊りを踊るくらいなのだから、自分はやっぱり喜んでいるのだと思う。楽の喜びの踊りは左回りである。ということはつまり楽は牝である。身体の大きさからすれば一歳になるかならないかくらいだろうが、目まぐるしい勢いで尻尾を振り回し、威勢よく耳を立てて、実に気の強そうな踊り方をする。
焰はかっこいい、と楽は思う。
焰のこれまでのダイブはぜんぶ見ている。
焰の戦いには華がないとみんなは言う。技もへったくれもない、あんまりにも戦いがすぐに終わってしまってつまらないと言う。けれど、そのへんがかっこいいと楽は思うのだ。そんな焰の戦いは確かに、血なまぐさい結果に終わることが多いし、楽にはそれが恐ろしくて目をつぶってうずくまってしまうこともある。でも、スパイラルダイブとは最初からそういうものなのだ。一番強い猫を決める、その勝者は大変な尊敬を勝ち得る、生死を懸けた真剣な戦いだ。そんな真剣な戦いに、華とか何とかいう話を持ち込む方が筋違いだと楽は思うのだった。相手を倒し、白い身体をその返り血に染めた焰の姿は、とても自分と同じ猫だとは思えない。その姿が楽には、恐ろしい悪魔のようにも、厳しい修行に耐える僧侶のようにも見える。
だから、楽は驚かなかった。今日という日がくることが、楽にはわかっていた。
楽は急に踊りを止めた。自分の尻尾の先をがじがじと嚙んでしょんぼりとする。
斑を相手に焰が十三回目のダイブに挑む──そう、いつかこういうときがくると楽にはわかっていたのだ。強い相手を際限なく求め続けていれば、いつか必ず、到底勝つことなどできないような相手にぶつかることになる。
それでも焰はその相手に挑戦するだろうと楽は思っていたし、焰はその通りにした。
周囲の大人たちは、斑がどれほど恐ろしい怪物であるかを噂し、ついに焰も最期だと噂した。そうした噂のひとつひとつを聞くたびに、楽は絶望的な気持ちになっていった。にらむだけで子猫を殺し、口から炎の息を吐き、頭と尻尾で天気が違うほど巨大な怪物を相手に、どうやって戦えというのだろうか。いくらなんでもそんなのはズルだと思った。
焰はきっと、その怪物にひと飲みにされてしまうに違いない。
それでも楽は、その戦いを見にいくことにした。
それがどんなにあっけない幕切れになろうとも、焰の最期を見届ける者がひとりくらいはいてもいいと思ったからである。
案の定、あまりにも馬鹿馬鹿しい挑戦であると誰もが思ったのか、螺旋階段の洞には自分以外の一匹の猫の姿もなかった。楽だけが見守るうちに焰の葬式が始まり、その葬式が終わって、焰はお坊さんと何か話し込み始めた。何を話しているのか聞きたいと楽は思った。階段を上がってもっと近くの洞に行けば話を聞けるかもしれない。しかし、見物客は自分しかいないので目立ってしまうし、自分が近くに行ったら二人は話をやめてしまうかもしれないし、お前みたいなちっぽけな子猫はあっちへ行けと追っ払われてしまうかもしれない。ぐずぐずと躊躇っていたそのとき、焰がいきなり楽を見て、にたりと笑ったのだ。その瞬間からわけがわからなくなって、通路を無茶苦茶に走り回って、気がついたらここにいた。
落ち込んでしまう。自分はやっぱり子供なのだと思う。
戦いはもう始まってしまったろうに、焰はもう怪物にひと飲みにされてしまっているかもしれないというのに、焰に笑いかけられたことが嬉しくて、自分はここでのん気に喜びの踊りを踊っていたのだ。
ぴくんと顔を上げる。
──震電は?
自分のロボットの置き去りにしてきてしまったことに、楽はようやく気づいた。震電はのろまだから、きっと自分を捜して見当違いのところをうろうろしているに違いない。
周囲の闇をきょろきょろと見回す。
なー、なー、と声を出して呼んでみる。
返事はなかった。完全にはぐれてしまったらしい。震電はばかだから、道順というものをちっとも憶えられない。きっとどこかの回廊に迷い込んで途方に暮れているに決まっていた。楽はこちらから捜しに行くことにする。天井を蹴って、力なく通路の闇に漂い出す。
焰が怪物に飲まれてしまうところなど、見届ける勇気はもうなくなっていたのだ。
通路の壁から壁へ跳ね回りながら、あちこちの回廊を巡り、震電の姿を捜した。このあたりに住んでいる猫などいないから、回廊はどこもまったくの荒れ放題で、中には黴に埋もれて通れなくなっているようなところもあった。楽はいくつものハッチをくぐり抜け、ダクトの中をのぞき込み、空気の匂いを嗅いで、途方に暮れた震電が隠れていそうなところを捜した。それでも震電は見つからない。ふと思いつく。震電はなまけものだから、楽を追いかけることを途中であきらめてしまって、螺旋階段の洞に戻って自分を待っているのかもしれない。
ありそうなことに思えた。
そう考えた途端、震電をさがすのが馬鹿らしくなった。
震電が困っていると思うから、せっかくこっちから捜してやろうと思ったのに。横着をしてただ待っているだけなんて。
震電のばか。
迎えに行ってなんかやらないんだから。
楽はひとりで勝手に腹を立て、螺旋階段とは反対の方向へと進み始めた。ねじ曲がったハッチの隙間をするりとくぐり抜けると不意に行く手が開け、大きな広場のような回廊に出た。
西架坑の市場だ。
トルクをさすらうトレーダーの群れはいくつもあるが、その中の「天神一家」という連中が、大昔にこの西架坑でダイブの見物客を当て込んだ物売りを始めた。たいそう実入りがよかったのか、天神一家は以来この場所に居着いてしまい、そこに他の物売りたちが合流して市場ができた。螺旋階段の周囲には似たような経緯で出来上がった市場がいくつもあるけれど、この西架坑は楽にとってはおなじみの場所である。
が、その西架坑の市場も今日に限っては閑古鳥が鳴いている。ドーム状の広い空間は、ビニールシートと鋼鉄のパイプでこしらえた浮き露店で埋まっている。露店と露店は太い鎖でつなぎ止められており、猫もロボットもその鎖を足場にして、どの方向にも自由に動き回れるようになっている。しかし、客足が極端に少ないのは楽の目にも明らかだった。よく見れば、行き交う猫はみなトレーダーばかりである。骨のかけらで作ったビーズの飾りをじゃらじゃらさせているのですぐわかる。
楽は床を蹴って、露店の間をゆっくりと漂っていく。