断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル
序章 夢と断章の神話
僕たち人間とこの世界は、〈神の悪夢〉によって常に脅かされている。
神は実在する。全ての人の意識の
この概念上『神』と呼ばれるものに最も近い絶対存在は、僕らの意識の奥底で有史以来眠り続けている。眠っているから僕ら人間には全くの無関心で、それゆえ無慈悲で公平だ。
ある時、神は悪夢を見た。
神は全知なので、この世に存在するありとあらゆる恐怖を一度に夢に見てしまった。
そして神は全能なので、眠りの邪魔になる、この人間の意識では見ることすらできないほどの巨大な悪夢を切り離して捨ててしまった。捨てられた悪夢は集合無意識の海の底から、泡となって、いくつもの小さな泡に分かれながら、上へ上へと浮かび上がっていった。
上へ────僕たちの、意識に向かって。
僕らの意識に浮かび上がった〈悪夢の泡〉は、その『全知』と称される普遍性ゆえに僕らの意識に溶け出して、個人の抱える固有の恐怖と混じりあう。そして〈泡〉が僕らの意識よりも大きかった時、悪夢はあふれて現実へと漏れ出すのだ。
かくして神の悪夢と混じりあった僕らの悪夢は、現実のモノとなる。
†
「じゃ、行ってくる。母さん」
「
「ない……と思う」
高校生男子としては線の細い顔を下に向けたまま、キッチンにいる母親とやり取りしつつ靴紐を結び終えると、蒼衣は少しだけ急いだ動作で立ち上がり、傍らの学生
別に遅刻しかかっているわけではない。普通に学校に
「ごめん、
「……」
少女の姿を認め、蒼衣が声をかける。
雪乃と呼ばれたその少女は、明らかに目を引く整った容姿に不機嫌な色を浮かべて、蒼衣を
彼女の名は
抜けるように白い肌と、少し目つきの強い美貌。ポニーテール風にまとめた黒髪は、古風なセーラー服によく似合っていたが、その髪を束ねるのは黒いレースのついたリボンで、それが少女の硬い印象を別のものに変えていた。
いわゆる、ゴシックロリータのアイテム。
次に何と声をかけようか迷っている蒼衣の前で、雪乃は寄りかかっていた自販機から無言で背を離し、下げていた黒いスポーツバッグを、肩にかけ直した。
「……い、行こうか。雪乃さん」
「ええ」
雪乃はそっけなくそれだけ答えて、さっさと先に立って歩いてゆく。蒼衣はその反応に、
今日は金曜日だ。
ここ三日間、雪乃は毎朝、ここで蒼衣を待っていた。
初めは蒼衣の家の前で待っていたのだが、すっかり家族に彼女か何かだと誤解されて、両親によって家の中に招かれかけてから、待ち合わせはここになった。蒼衣の目の高さで、雪乃の黒いリボンが不機嫌に揺れる。同じ市内にあるとはいえ、学校の違う二人での登校は、このようにして始まり、蒼衣の学校の近くまで続く。
「いつも、ごめん」
とりあえず雪乃の背中を見ながら、蒼衣は迎えに来てくれた事への感謝を述べた。
「別に。役目だから気にしなくていいわ」
振り向きもせずに答える雪乃。最初のうちは嫌われているのではないかと不安だった。
だが、ここ数日の付き合いで、誰にでも同じような態度を取るのだと知ったので、その辺りの屈託がない蒼衣は、もうほとんど気にしていない。嫌われていないと
だが雪乃に関しては、ただ気が強いというのとは、少し違っている。
「役目……大変だね」
「別に」
話しかける蒼衣。雪乃の返事は素っ気ない。
「何かあったら学校、抜け出したりするんだよね?」
「そうよ」
「学校、大丈夫? 休みがちだって聞いたけど」
「どうでもいいわ。伯父さんの手前、行ってるだけだもの」
「伯父さん? 保護者だっけ? いやでも、やっぱり学校は行った方がいいと思うよ」
「いまさら普通に生きる気はないわ。私は怪物になるの。化け物にならなきゃ────あいつらとは、戦えない」
雪乃の声が低くなる。もっと近くに寄れば、ぎりっ、と奥歯のきしる音が聞こえそうだ。
朝の町を歩く、日常を拒絶するような雪乃の背中。左肩にかけたスポーツバッグ。そのストラップにかけられた手の袖口からは、手首に巻いた白い包帯が
見る者が見れば、一目で連想するのはリストカットだろう。そしてその包帯の中にあるものが、その連想を裏切ることなく、まさに目盛のように刻まれた傷であることも、蒼衣はその目で見て知っている。
だが蒼衣は、そういうものに慣れている。
拒否感がないわけではない。だがそういう行為自体はともかく、そういう行為に及ぶ女の子を、蒼衣はどうにも放っておけないのだ。
それはきっと、今はもういない
幼い頃にずっと二人きりで遊んでいた、自傷行為をしていた幼馴染。
幼い頃の────たぶん蒼衣の、初恋の記憶。
だから蒼衣は、雪乃のことを、どれだけ邪険に扱われたとしても、放っておくことができないのだ。
「化け物だって、普通に生きてる時の方が多いと思うよ」
前を歩く雪乃の背中に向かって、蒼衣は言う。
「だから
蒼衣は普通でない女の子を放っておけない気質だが、当人は〝普通〟を愛していた。
「学校休んでるから、成績も危ないって聞いたよ」
「……」
雪乃は答えない。
「でさ、もし良かったら……一緒に勉強でもしない?
蒼衣の通う私立は、一応進学校だ。
「どうかな?」
「……なんであなたと勉強なんかしなきゃいけないわけ?」
雪乃は立ち止まると、蒼衣を冷たい目で振り返り、言った。
怒りのせいか、それとも目の錯覚か、ほんの微かにだが、頰を紅潮させている。
「いやさ……それで成績が普通になったら、雪乃さんも、先生から面倒なこと言われたりしないで済むかもと思って」
「大きなお世話よ」
にべもない雪乃。
「でも、そんなことで目立つのは、雪乃さんも面倒だよね」
「……うるさいわね」
一応は図星なのだろう、一瞬沈黙し、それから雪乃は突っぱねる。
「それにさ」
蒼衣は、にこりと笑った。
「雪乃さんが幸せな方が、僕も
「──────うるさい。殺すわよ」
雪乃の声が底冷えした。さっ、と黙る蒼衣。
「……」
雪乃はそれを確認すると、そのまま元の方向を向き、さっさと歩き始めた。
蒼衣はそれを小走りに追って、隣に並ぶ。雪乃は、ちら、とそんな蒼衣を鬱陶しそうに横目で見たが、特に拒絶するようなことは言わなかった。
……こんな二人の登校は、もう三日続いていた。
二人は付き合っているわけではない。かといって親友や、幼馴染というわけでもない。
蒼衣が雪乃に出会ったのは、つい四日前のこと。この蒼衣と同い年の、
†
神の悪夢の泡による異常現象、それを
蒼衣は四日前の夕刻に〝それ〟と遭遇し、雪乃の手によって助けられた。
時に〈
雪乃は、その悪夢の〈
彼女もまた、かつて〈泡禍〉に巻き込まれ、そこから生還した。
世界には、そんな〈悪夢の泡〉からの生還者が、多数存在している。
そしてその中でも、特に恐るべきトラウマと共に悪夢の欠片を精神に宿してしまった者たちが、生きるために助け合い、新たな被害者を救おうと活動している集まりがある。
イギリスで発祥し、日本に伝わって、いつしか〈ロッジ〉と呼ばれる小さな活動拠点を、日本中に散らしている互助会的結社。
彼らは
名を〈
雪乃は、その〈
かくして僕は、人間と神の悪夢、そして〈童話〉との戦いを知る。
世界は、〈神の悪夢〉によって



