断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル

一章 終わりと始まり ①

 見よ。見よ。この世界を。世界はほうまつなり。

 地の底より膨れ上がる見えない何かによって崩れ落ちる塔。

 反転する家。投げ出され空へと落下する哀れな家族。

 墓場より湧き出す人面のいなごが人間の目玉を群がってらう。

 悪臭を立てて泡立つ雲。

 金切り声を上げる猿の首。

 燃え盛るおうの雨が、たった一人の子供の世界を徹底して焼き溶かす。

 いくつも連なった虹色の泡が、まるで一個の生命体のように振る舞う。

 幻視する詩人は夢の中に無数の細かな泡を見て、目覚めたのちに白目をいて死んだ。脳が海綿のようになっていた。


私家訳版『マリシャス・テイル』第一章




 月曜日。週の始まり。

 そんな日に二人はい、白野蒼衣の信じていた〝普通の世界〟は、終わった。


 その日、下校の途中。蒼衣は地図の上では家から近いと言えなくもない、しかし明らかに遠回りな場所の、とあるマンションを訪ねていた。担任の佐藤先生から頼まれて、このところ学校を休みがちにしている、まだ一度もまともに話をしたことのないクラスメイトの女子のために、まっているプリント類を届けるためだった。

 高校一年生の、五月。

 ようやく制服にも学校にもクラスにも慣れてきていたが、入学早々休みがちにしている女子とは、さすがに蒼衣も親交はない。

 しかし蒼衣は、どうにも人の言うことを拒否したり見捨てたりするのが苦手な性質で、そんな見ず知らず同然の女の子の家を訪ねろという担任の頼みを断ることができなかった。それにしたところで、他にもっと適任がいそうなものだが、それでも蒼衣に白羽の矢が立ったのは単に蒼衣が暇そうな帰宅部だったというのが最大の理由で、それは事実ではあるし、まあ分からなくもない理由だったので、蒼衣は初対面に近いクラスメイトの家を訪ねて、こうしてやって来たというわけだった。

 学校の最寄り駅まで歩いて、電車で二駅。蒼衣の家の最寄り駅。

 最寄り駅こそ同じだが、そのもりづかというクラスメイトの家は、蒼衣の家とは向かう方向からして違う、ほぼみのない場所にあった。

 駅前の商店街やゲームセンターを冷やかすように歩いて、そこからほとんど来た事のない道を通って、しばし。蒼衣がメモを片手に、そのマンションに辿り着いた時には、もう日が落ちかけて、やや季節を外した夕焼けがきつく照らす、そんな時間になっていた。


みやぞのマンション、三階……」


 マンションの前でメモを見ながら、蒼衣はつぶやいた。

 エントランスもなければ管理人もいない、各戸の前までが素通しになっているこのマンションは、コンクリートの壁面の状態はもちろん造りからして見るからに古く、蒼衣の印象としてはマンションというよりも団地に近かった。

 そんな、まるで人気のないマンションの中に蒼衣が入り、階段を見つけて上り始めた、その時だった。

 たまたま丁度六時になって、自治体のスピーカーから音割れのひどい『夕焼け小焼け』が流れ始め、それが空気に満ちるのを聞きながら二階への踊り場にさしかかったその時────不意にそこに現れた光景は、思わず目を疑う、まさに〝悪夢〟の産物としか言いようのない、異常なものだった。


 


「えっ」


 夕闇の降りかけた、けぶるように色彩のぼけた景色。その階段の踊り場から見上げる、階段の上に、夕闇にみ出すようにして、その若い女性は立っていた。

 乱れた髪。

 ゆっくりとした、宙を踏むような足取り。

 そして、そうやって階段を降りてくる女性の目は、えぐられたようにぽっかりと赤黒い空洞をさらしていて、そこにかかる乱れた前髪の奥から、粘質の血液が、血の気のせた頰を涙のように伝っていた。


 こつ、


 と靴が。

 階段を降りる。


 どろ、


 と血が。

 空っぽになったがんから、あふれて流れる。


「──────────え?」


 その光景を見上げた蒼衣の口から漏れたのは、たったそれだけの声だった。

 しかしたったそれだけの声が、この現実感のない停止したような異常な光景に、あまりにも致命的なくさびを打ち込んで、この光景の秩序を破壊してしまった。


 女性が、蒼衣の存在に気がついた。


 女性は階段を降りようとしていた足を止めると、その眼球が刳り抜かれた凄惨な顔を蒼衣の方へ向けて、残った口元に、柔らかな微笑を浮かべた。



 軽く、会釈をする女性。

 そして女性は、ゆっくりとそのままの姿勢で前へかしぐと──────そのまま大きく階段に身を投げるようにして、蒼衣のいる踊り場へと向けて、真っ逆さまになって、頭から落ちて来たのだった。


「うわああああ!!」


 ごっ! ごっ! ごっ! と階段に頭を打ち付けながら落下して、悲鳴を上げる蒼衣の足元に、女性のからだたたきつけられた。重く鈍い音を立てて、女性はコンクリートの踊り場に投げ出され、壊れた人形のように、いびつな形で転がった。

 あってはならない方向に、首が向いていた。くびの皮膚が、ゴムを延ばしたような異常な曲がり方をして、うつ伏せの身体からだつながった首が天井を向いて、血で汚れた白いかおを、ごろりと蒼衣の方へ向けていた。


「………………っ!」


 顔にかかった前髪の奥から、空っぽの眼窩が、うつろに蒼衣を見ていた。

 頭蓋の中身が激しく壊れたのか、鼻と半開きの口から、恐ろしい量の血液がどろどろと流れ出して、床に染みを作り始めていた。

 夕闇の中に、赤く、黒く、女性の頭部を浸して、まりが広がってゆく。

 スピーカーから流れていた『夕焼け小焼け』はすでに終わり、やはり音の割れた余韻のノイズが、耳障りに空気の中に満ちて、鼓膜と肌とを圧迫している。

 まるで異次元にでも、いるかのようだった。

 あまりにも現実感を失った、この光景。この世界。

 しかし、


「…………………う………っ!!」


 むっ、と激しい血の匂いが立ち昇り、途端に感覚が、おぞましい現実に引き戻された。

 生臭い、てつさびじみた匂いの混じった、つんとする空気。それを思い切り吸い込んで、が引っくり返るような感覚に襲われて、もはや悲鳴すら上げることもできずに、ただただ口を押さえて後ずさった。

 どん、と背中がコンクリートのすりにぶつかり、両足の力が抜けた。

 重い衝撃が胴の中に響いて、胃の中身が揺れて、一気におう感がこみ上げて、たったいま上ってきた階段を踏み外しかけ、必死で手摺にしがみついた。

 何が起こったのか、全く理解できなかった。

 ただ目の前に転がった惨殺死体を前に、頭の中が真っ白になった。

 夕闇に沈むようにしてそこに在る、なまぐさい光景と匂いに、意識が遠ざかる。

 頭の中はパニック状態で、目の前のモノから目をらすこともできず、そのため蒼衣は階段の上に一人の人影が立った事に、全く気がついていなかった。


「────?」


 突如、少女の声が、頭の上から投げかけられた。


「!?」


 ぎょっ、となって蒼衣は顔を上げた。もちろん自分がやったわけではなかったが、それでもこの光景を見られた事にひどく慌てて、心臓が大きく跳ね上がった。

 そしてかけられた言葉の内容が飲み込めた途端、そのとんでもないえんざいに、蒼衣はほとんど恐怖に近い感情を感じた。


「ち、違……!」


 自分ではない、と抗弁しようと、慌てて顔を上げた蒼衣。しかしそうやって、階段の上の光景を見た瞬間に、蒼衣はこれから言おうとした言葉を全て忘れて、思わずがくぜんとその場に立ち尽くしてしまった。


 が立っていた。


 踊り場から見上げる階段の上、空の薄明かりを背にした空間の中に、漆黒の衣装をまとった少女が、空を喰う染みとなって、日食のように立っていた。

 抜けるように白い肌。おぞを奮うほどに整った顔立ち。

 冷たく見下ろす瞳。そしてその身体を覆っているのは、無数のレースが縫い取られた、重厚れんな、漆黒の衣装。

 ────ゴシックの衣装。

 髪に結ばれたリボンと、大きく割れた長いスカートの裾で、縫い取られた黒いレースが、背景の薄明かりを透かしている。

 死神がたたずむような、暗鬱で凄烈な、絵画のような光景。

 見る者の魂を奪う、まさに死の擬人化のような、世界の時間が止まったような、世界が滅ぼうとしているかのような、この光景。


「………………!?」

「答えて。それはあなたの仕業?」


 ぼうぜんと見上げる蒼衣を見下ろして、少女は厳しい表情で、再び問いかけた。

 その言葉と同時に、はっ、と蒼衣は我に返り、自分が恐ろしい疑いをかけられていることを思い出して、慌てて口を開いた。


「ち、違う、僕は……」

「どうかしらね? 反応は一応普通みたいだけど……」


 少女は蒼衣の抗弁を最後まで聞かず、言う。


「ここに普通の人間が入れるわけがないわ。毛色の違う〈ぎよう〉かも知れない」

「………………!」


 底冷えのする瞳がにらむ。蒼衣はその視線に射すくめられて、それ以上の言葉を失った。

 何を言われているのか、いや、そもそも何が起こっているのかも、蒼衣は理解することができていなかった。思わず視線を泳がせた蒼衣の目に入ったのは、少女の右手に握られた、赤い柄のカッターナイフと、左手首を覆う包帯だった。

 包帯は手首だけでなく、左側だけまくりあげられた袖から覗く、病的に白い腕をさらに白く彩っている。カッターナイフは刃こそ出されていないものの、その金属部分は鈍く輝き、腕の包帯との不吉な関連性を、嫌でも脳裏に連想させた。


「う……」


 それを見た瞬間、蒼衣は急にその少女に、明確な恐怖を感じた。

 少女の持つあまりにも不吉な属性と、目の前に転がる血腥い死。それらが蒼衣の中で突然に符合して、今までのされるような感覚とは全く別の、身に迫った生々しいおそれが蒼衣の背筋を駆け上がった。

 目の前の死体と、そこに現れた、死の気配を纏った少女。

 そして少女の纏う異様な服装と、先ほどから向けられている、異常としか言いようのない意味不明の言動。


 ────こいつの方が犯人なんじゃないのか!?


 蒼衣の中に、今更ながら強烈な疑惑が浮かび上がった。目の前にいるのは異常者かもしれない。そう思った瞬間に、蒼衣の中に、締め上げられるような緊張が走った。

 異常な殺人者を前にしているかもしれないという、強烈な不安と恐怖が、みるみる蒼衣の表情をこわらせる。冷たい汗が額に浮かんだ。自分の呼吸の音が大きく聞こえるほど、自分の頭の中と、周囲の空気が緊張に凍った。


「…………人殺…………し?」


 蒼衣の口から、小さく言葉が漏れた。

 その蒼衣の言葉を聞いた瞬間、少女の目が即座に鋭く細められた。

 冷たい怒りを含んだような表情で、黒い少女は蒼衣の方へと、一歩踏み出す。こつ、こつ、と音を立てて、黒く光る革のブーツが、あまりにも恐ろしい静かな歩調で、コンクリートの階段を降りてきた。

 怒りを押し殺した目とは対照的な、その静かな歩み。

 そのアンバランスな挙動に迫り来る異常性を感じて、すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られたが、恐怖が真綿のように心を押さえつけて身体が言うことをきかなかった。


 こつ、


 とその間にも、足音は最後の段に達する。


 ぴしゃ、


 と踊り場に広がった、眼球をくり抜かれた女性の死体から溢れ出した、赤黒くねばつく血溜まりを、少女の靴が、無慈悲に踏む。

 そして。



「………………………………………………」

「………………………………………………」



 恐ろしい沈黙が、踊り場を挟んだ二人の間に張り詰めた。

 少女から目を離すことに恐怖を感じて、蒼衣はまばたきすらできず、空気に張り詰めるすさまじい重圧のせいで、呼吸することさえできなかった。

 凶器を携えて近づいてきた異常者と、足元に転がる惨殺死体。恐怖と緊張が張り詰めて、触れれば切れるような、息も忘れるほどのその時間は、そのまま永遠に続くかと思えたが、しかし突如として、全く別の人物の乱入によって破られた。


「ゆ、雪乃さん! 大丈夫ですか!?」


 階段の下から、ひどく慌てた女の子の声が響いた。


「……!?」


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