断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル

一章 終わりと始まり ②

さつちゃん。手遅れだったわ。上がってこない方がいい」


 ちんにゆう者に驚く蒼衣をよそに、黒い少女は、階下に現れた女の子にちらと目を向けて、階段を上りかけたその行動を制止した。


「そ、そうですか……」


 颯姫と呼ばれた女の子は、ひるみとも悲しみともつかない微妙な表情をして、階段に足をかけたところで動きを止めた。女の子は中学生くらいに見え、キュロットスカートにジャケットを着て、短めの髪に差し込まれた幾つものカラフルなヘアピンが目立っているが、目の前にいる少女とは違った、どこにでもいそうな女の子だった。

 女の子は、蒼衣を見て小さく叫んだ。


「あ! あ! この人!」

「知ってるの?」


 蒼衣を指差す女の子に、黒い少女が油断のない様子で蒼衣を見ながらたずねた。

 指差された蒼衣には、その女の子に見覚えはない。なので指をさされるいわれはない。その事実に混乱していると、女の子はここまで駆けつけてきたことによって乱れた息が整い切らないまま、それでもどうにか言葉を先に続けて言った。


「こ、この人、私の〈むし〉の中に入ってきたんです。さっき!」

「!」


 それを聞いた途端、黒い少女が、強く眉を寄せた。


「……〈食害〉の中に? 記憶も食われずに?」

「は、はい!」


 蒼衣にとっては、意味不明の会話だ。しかしその間にも、黒い少女の視線は、蒼衣に固定されたまま、みるみる険しさが強くなってゆく。


「…………こいつが入ってきた時に、どうして連絡くれなかったの?」


 黒い少女は、女の子に問う。


「変わったことがあったら、電話するように言ったわよね?」

「ご、ごめんなさい。携帯がわからなくなっちゃったんです。だから忘れないうちに知らせなきゃって、急いで、ここまで……」

「そう」


 縮こまって謝る女の子。黒い少女はそれだけ聞くと、そこでその話題を打ち切った。

 そして鋭く、を細める。


「決まり……かしら?」


 言いながら、少女はカッターナイフを持った方の手で、左手首の包帯をつかむ。


「……!」


 それが何をしようとしている動作なのかは皆目解らなかったが、とにかく自分がこの少女によって、足元にある死体の犯人にされようとしていることだけはかろうじて理解できた。

 それから、何かの危害を加えられようとしていることも。なんでだよ。冗談じゃない。否定しなければ。しかしそんな抗弁をしたところで無駄なのではないかとも半ば思いつつ、それでも蒼衣は、言わずにはいられない。


「ち、違う! 僕は関係ない!」


 蒼衣は叫ぶ。

 足元には死体。しかし違う。こんな恐ろしいことが、自分にできるわけがない。

 そんな疑いをかけられることさえ、とてつもなく恐ろしい。できるなら一秒でも早く、ここから逃げ出したい。血の匂いの満ちる階段の踊り場から。蒼衣の愛する〝普通〟とは全くかけ離れた、この場所から。

 しかし、と言うよりも予想通り、黒い少女は蒼衣の言葉を無視して足を踏み出し、再び蒼衣へと近づいた。血溜まりを踏む音。蒼衣を見据えたまま、もはや一切の言葉も発さずに、一歩、二歩と進んで、程なく少女は、蒼衣の目の前に立つ。


「…………………………」


 そして────少女は、蒼衣を見上げ、ぴたりと動きを止めた。

 居合い抜きの剣士が、敵を間合いに収めたかのように。空気が止まる。蒼衣の目の前で、少女の髪を束ねる黒いレースのリボンが揺れる。

 はらむ緊張。蒼衣はあたかも、空気のなくなった場所で声を出そうとしているかのように、あえぐようにして、言葉を続けようとした。


「……ぼ、僕は……」


 だが次の瞬間だった。

 蒼衣はいま行われている会話とはで、思わず言葉を途切れさせて、そして大きく、目を見開いた。


 ずる、


 と

 少女を見る蒼衣の視野の隅に、引きずるようにして、一人の人影が。

 深くうつむくように首を曲げて、だらりと髪を垂らした、その〝影〟。それは視界の中にある夕闇の隅の、黒い少女の肩越しの背後に、一切の音も気配もさせることなしに、まるで影絵のように立ち上がった。


「…………!?」


 顔を覆うように垂れ下がった髪から、いくつもの血の玉が、雨のように落ちた。

 その人影は────間違いなく死んでいたはずの、あの目玉を抉り出された女性だった。

 そして蒼衣は見た。今まで衝撃的な〝貌〟に気を取られ、ろくに見ていなかったその女性の両手を。その血まみれの右手には、血の絡みついた鋭いはさみを握り、そして血と脂にぬめる左手には、二つの

 そして。


 


 鋭い鋏の切っ先が、聞こえないほどの微かな音を立てて、み合わされた。

 そして次の瞬間、女性は折れた頸で、ごろりと頭を、顔を上げ────まるで顔面が壊れたかのように凄まじい、満面の笑みを血みどろの顔に浮かべて、右手に握った鋏を、大きく頭上に振り上げた。


「────危ないっ!?」

「!!」


 思わず叫んだ。その蒼衣の声に、反射的に身を翻した少女。その髪を、鋏の切っ先がかすめて、そのまま少女は女性に体当たりされるようにして、踊り場へと突き倒された。


「きゃあ!」

「うわあ!!」


 少女に続いて、蒼衣も悲鳴を上げた。少女を突き倒したその女性は、あろうことか鋏を振りかざして、少女には目もくれず、ぐに蒼衣に向かって摑みかかってきたのだ。

 顔をかばい、反射的に腕を突き出して、鋏を持った女性の腕を押さえた。瞬間、腕にかかった強烈な負荷と共に、蒼衣の目へと向けて突き出された鋏の切っ先が、目の前で、本当に目の前で、顔に突き刺さりそうになる寸前で、びたりと止まった。


「………………っ!?」


 悪寒と共に、ぶわ、と恐ろしい量の冷や汗が全身から噴き出した。

 しかしその脅威を頭が理解する暇もなく、鋏はそのまま恐ろしい力で蒼衣に向かって押し込まれ、蒼衣は必死になって両手で女性の腕を押し返そうとしたが、腕が震えるほど全霊の力を込めても、女性の片手の力を押さえきることができなかった。


「…………………………………………!!」


 踊り場の手摺に押さえ込まれ、震える鋏の切っ先が、左目へ。

 先端が目に近づきすぎて、左の視界いっぱいになった鋏の像がぼやけ、滲み、そしてその後ろにあるのは、蒼衣の顔を覗き込んでいる、眼球のない血まみれの女性の、凄まじいとしか言いようのない、満面の笑顔。

 その口元が、微かに開いた。

 途端に口からいっぱいの血が流れ出し、みるみる顎を染め上げて、ただでさえ血で汚れた上着を、さらに赤黒く染め始めた。

 そして女性は、笑みの形にゆがめた口から血を流し続けながら、言葉を発した。


「……ツミヲ……」


 そのかすれるような声が真っ赤な口から漏れると同時に、ごぼ、と口から空気が漏れ、泡が噴き出した。


「罪……罪……罪ヲ……」


 血泡を垂れ流しながら、女性の口から呟きが漏れる。


「罪、罪……罪ヲ……罪、罪、罪、罪、罪ヲ、罪ヲ、罪ヲ、罪を、罪ヲ、罪ヲ、罪ヲ、罪ヲ、罪ヲ、罪ヲ、罪、罪、罪、罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪ツミ罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪つみ罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪つみ罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪罪つみ罪罪罪罪罪罪罪ツミ罪罪罪ツミ罪つみツミツミツミ罪ツみツミツミツミつみツミつミつみ罪ツミつみツみツミつみツミつみつみツミつみツミツミ……!!」


「うわああああっ!!」


 恐ろしいが目の前に迫り、耳に流れ込んできて、恐ろしい悲鳴をあげる蒼衣。恐怖にかられ、今まで以上に必死になって女性を押し返そうとしたが、鋏と共に血にれた女性の手は、強い力が掛かるほどに。ずっ、ずずっ、とすべり、蒼衣の手が押し開かれる。鋏を握った手が迫る。鋏の先端が、左の眼球の表面に触れる。


「んんっ!」


 眼球を引っかいた。刺すような痛み。


「う……わああああああああっ!!」


 しかし恐怖が、目蓋を閉じる事を許さない。凄まじい恐怖と痛みに、蒼衣は必死で女性の冷たい手を押さえながら、身動きもできず、ただ絶叫した。

 その時だった。

 狂ったうわごとと、自分の悲鳴でいっぱいになっていた自分の耳に、小さく、低く、しかしはっきりと、怒りに満ちた声が聞こえた。


「…………この……っ!」


 黒い少女の声だった。続いて階下から聞こえる、もう一人の女の子の声。


「雪乃さん!?」

「!!」


 蒼衣はそれに構うどころではなかったが、残った右目の視界の端に、手摺に手を突いて立ち上がる黒い少女の姿がかいえた。

 コンクリートの手摺に、血溜まりに倒れた少女が摑まった、血の痕と手形。

 少女はその手摺を背にして立ち上がると、殺意を込めて蒼衣たちの方を睨み、そして自分の左手に巻かれた包帯に右手の指をかけて、一気にそれを引き剝がした。

 包帯を止めていたピンがはじけ飛んだ。

 引きずり出した紙テープのように、白い包帯が絡んでほどけた。

 包帯の中から露出した白い腕の内側には、醜い切り傷の痕が、目盛りのようにびっしりと刻まれていて。

 キン、とコンクリートの床で、包帯から外れて落ちたピンが澄んだ音を立てて────そして次に、少女の右手から、、というカッターの刃が伸ばされる、不吉な音が空気に響いた。



「────〈私の痛みよ、世界を焼け〉!!」



 鋭い叫び。同時に少女は自分の腕にカッターの刃を当てると、力を込めて押し付けて、思い切り横へと引いた。薄い刃が皮膚を切り開いて、滑るように肉に入り込む。押し殺した微かなうめきが少女の喉から漏れて、びくん、と少女の身体が痛みにけいれんする。そして──────



 ぎゃああああああああああああああああ──────────っ!!



 直後、猛烈な熱風が蒼衣の顔に吹きつけて、蒼衣の眼球に鋏を突き入れようとしていた女性が、突如として爆発的な炎に包まれた。一瞬で目の前が真っ赤に染まり、「うわあ!」と悲鳴を上げて顔を庇った蒼衣の目の前で、女性はガソリンでもかぶったかのような恐ろしい勢いで全身を炎上させ、獣じみた甲高い絶叫を上げて、大きく身体をらせた。

 髪の毛の燃える凄まじい臭いが空気に広がり、強烈な熱気が広くはない空間をあぶるように荒れ狂った。凄まじい叫び声を上げて、だるになった女性が踊り場を暴れ回り、放り出された鋏が金属音を立てて跳ね、コンクリートの床に転がった。


「…………………………っ!!」


 黒い少女はたいまつのように燃え上がる女性を睨みつけながら、額に脂汗を浮かべて、左腕を女性に向けていた。

 その腕には、たったいま自らの手でつけられた傷がぱっくりと赤黒く口を開け、そこからみるみるうちに鮮血が溢れ出して、次々と筋となって白い腕を伝った。

 流れる鮮血は、腕にまだ一部を絡みつかせている包帯を汚したが、途端に包帯はその場所から炭化を始め、炎を上げて燃え落ちた。そして腕からしずくとなって滴り落ちた血は、コンクリートの床に落ちると、熱した鉄板に落ちたような音を立てて煙を上げ、かげろうに似た透明な炎を噴いて、次々と焦げ付きを穿うがっていった。

 そして、


「────〈焼け〉!」


 再び少女は低く叫び、自分の腕にカッターを滑らせた。

 皮膚が切り裂かれた、再度の痛みに少女が歯を食いしばった瞬間、女性の全身を包んでいた炎が油を注がれたように火勢を増し、渦巻くように噴き上がった。

 女性のシルエットがあっという間に炎に喰われ、薪のように火炎の中にみ込まれた。そして自らの背負った炎の重さに力尽きたように、ほどなく女性は膝をつき、二階へ続く階段に向けて、うようにして倒れこんだ。

 女性の絶叫が炎に食い尽くされてゆくように、徐々に細くなり、消えていった。

 赤い炎を上げて人間が燃えてゆく光景を、黒い少女はったような厳しい表情で、じっと睨み続けていた。


刊行シリーズ

断章のグリム 完全版6 いばら姫の書影
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断章のグリム 完全版2 人魚姫の書影
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