断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル

一章 終わりと始まり ③

 それは殺意や憎悪や苦痛にも見えたが、それ以上に、目の前の光景を怖れているようにも見えた。どうやったのかは分からないが、それでも少女自身がその意思でしたであろうこの光景を、その少女自身がひどく怖れているように、だか蒼衣には見えたのだった。


「……っ」


 だがそう見えたのも一瞬で、少女はもはや女性がぴくりとも動かないのを確認すると、燃え上がる女性から視線を外した。するとその瞬間、凄まじい勢いで女性の身体を焼いていた炎はろうそくの炎が消えるように、宙に吸い込まれるようにして、瞬きする間もなく消えてなくなってしまった。

 理解不能の現象だった。

 しかし黒い少女は、それらの現象にも、表面を炭のように炭化させた死体にも完全に興味を失ったように、あっさりとそれらに背を向けると、めた目で蒼衣を見下ろした。

 そのすごみに、蒼衣は思わず身を強張らせる。深まった夕闇の中、黒い少女は心のない殺し屋のように立ち、左腕から流れる血も意に介さずに、血の気の失せた凄絶な美貌で、蒼衣を見下ろしていた。


「………………」

「…………………………!!」


 次は自分だ。空気に残る熱と髪の毛の燃えた臭いを感じながら、蒼衣はそう思った。

 呆然と見上げる。黒い少女はそんな蒼衣をしばらく見下ろしていたが、やがて手にしたカッターの刃を音を立てて収めると、静かに口を開いて声をかけた。


「無事?」

「………………え?」


 その一瞬、何を言われたのか蒼衣には理解できなかった。蒼衣はそのまま、ぽかん、と少女の顔を見上げていたが、しばらくして自分の身を案じる言葉をかけられたのだと気づくと、思わずほうけたような声を漏らした。


「な…………何で……」

「無事みたいね」


 少女は蒼衣の疑問を無視して、にこりともせずにそう言った。

 助けられたらしい。ただそれだけの事実があまりにもあり得ないことに感じられたが、それでもあんとはいかないまでもさすがに緊張が崩壊して、蒼衣はコンクリートの手摺に背を預けて、ずるずるとその場に座り込んだ。


「う……」


 途端に鋏の先端が触れた左目が痛み、蒼衣は小さく呻いて涙の止まらない目を押さえた。少女の眉が寄せられた。そして怒ったような表情で蒼衣の前に膝をつくと、蒼衣の顔を覗き込んで、静かに言った。


「……目? 目なら診てもらった方がいいかも知れないわね」


 そして階下に向かって呼びかける。


「颯姫ちゃん! すぐ〈がり〉さんに連絡して! それから〈葬儀屋〉さんに死体の処理を頼むのと────あと〈潜有者インキユベーター〉か〈保持者ホルダー〉らしいのを、一人確保したって!」


 付け加えて言う。


「それから、お医者の手配も頼んで。その〈潜有者〉かも知れない奴が、目をしたかも知れないから」

「あ……は、はいっ!」


 階段の下から、あのもう一人の女の子の、慌てたような返事。しかし急いで駆け出そうとしたらしい女の子を、黒い少女は呼び止めて、意外にわいい薄桃色の携帯を取り出して、階下に向けて差し出した。


「携帯なくしたんでしょ」

「あ、わ……そ、そうでした……!」


 女の子が階段を上がって来て、黒い少女から携帯を受け取る。

 そして再び慌ただしく降りてゆく女の子に目をやって、少女は小さくためいきをついた。


「まったく……」


 小さく呟く、黒い少女。その横顔に、蒼衣は涙の止まらない目を押さえたまま、半ば喘ぐような声をかけた。


「…………びょ、病院に……」

「わかってるわよ。いま頼んだから我慢して」


 蒼衣の言葉に、少女は不機嫌もあらわに答える。情けない泣き言にでも聞こえたのだろう。しかしいま蒼衣が言おうとしたのは、そのことではなかった。


「ち、違う、君の、腕……」

「……え?」

「君の腕の、傷の方が……」


 少女はそれを聞くと、虚を突かれたように自分の腕を見下ろした。そして無数につけられた傷痕と、血を流す二つの真新しい傷から、不愉快そうに目を逸らすと、どこか言い訳するような調子で、呟くように言った。


「…………これはいいの。ほっといて」

「え……? でも……」

「うるさいわね。それより自分の身の心配をして。あなたが〝いま狙われてる〟のか、それとも〝過去に狙われていたことがある〟のかは分からないけど、どちらにせよもう普通の生活はできないわ。それともあなた、どこかの〈ロッジ〉の所属?」


 拒絶か、誤魔化しか、少女は訊ねる。


「…………?」

「やっぱりね。何も知らない風だもの」


 わけがわからず沈黙する蒼衣に、少女は溜息をついた。そして少女は立ち上がると、蒼衣に向かって少し芝居がかった調子で言った。


「ようこそ、悪夢の満ちる〝世界の裏側〟へ。歓迎はしないわ」


 少女の言葉にあるのは、ぜんさと、ほんの微かなれんびん


「あなたは不幸にも、〈神の悪夢〉に遭ってしまった。あなたがいま見たのは〝悪夢に喰われた世界〟よ。私は、あなたみたいにそれに巻き込まれた人を助けるための集まりに所属してるメンバー。私たちは〈騎士団〉と呼んでるわ」

「え……」

「あなたにはこれから、私と一緒に来てもらう。そしてあなたにも、この〝世界の裏側〟の真実を知ってもらうことになる。そしてあなたは、戦わずに死ぬか、戦って死ぬか、どちらかを選ぶことになる。たぶん拒否権は……ないわ」


 冷酷に、少女は言った。言葉を失って、少女を見上げる蒼衣。

 それを厳しい表情で、無言で見下ろす少女。

 これが────白野蒼衣と、時槻雪乃の、最初の出逢いだった。

 そしてこれが、蒼衣と雪乃と、この先に遭遇してゆく全ての悲劇との、忌まわしくも運命的な、最初の出逢いだった。




 久しぶりに、あの子の夢を見た。

 幼い頃によく遊んだ、幼馴染の女の子の夢────



 がさ、と朝の教室に、新聞をめくる場違いな音が鳴った。

 一夜明けた火曜日の、てんりよう高校の1─A教室。そこには家から無断で持ち出した新聞を机の上に広げ、難しい顔をして眺める、白野蒼衣の姿があった。

 私立典嶺高校は、地元では進学校に分類されている学校だ。最寄り駅から歩いて五分。施設も充実。制服であるモスグリーンのブレザーも、有名デザイナーによる評判のもの。しかし肝心の校舎が古くて建てつけが悪く、通い始めて重大なが初めて分かるという、それはそれでありがちなごく普通の学校だった。

 蒼衣は今年から、この学校の生徒になった。

 通い始めて、一ヶ月そこそこ。〝普通〟を信条としている蒼衣としては、まあそれなりに周囲とはくやっているつもりだった。

 あちらこちらに古さの目立つ教室も、ようやく見慣れてきた。

 そんな教室の片隅で、今朝の蒼衣は自分の席に座り、机の上に広げた新聞を、眉間にしわを寄せて黙々と眺めていた。


「うーん……」


 晴れた朝の光が、窓際にある蒼衣の席を照らしている。

 そんな中で、時おりうなりながら新聞をめくる蒼衣の姿は、いつもの教室の光景からすると、明らかに浮いていた。

 しかし当の教室にはまだ生徒は半分も来ておらず、そんな蒼衣をからかうような親しいクラスメイトもまだ来ていない。早朝のそれぞれの仕事に忙しい生徒は、蒼衣をいくらかの奇異の目で見ることはあっても、取り立てて注目するということもなく、それぞれ予習なり宿題なり部活動なりの自分の用事に没入するか、あるいは用事のために教室を出て行った。


「んー……」


 蒼衣は照らされる新聞を片手でめくりながら、ほおづえをついて、眠たげにインクの匂いがする文字を追っていた。

 広げられた新聞は地方紙。蒼衣が読んでいるのは三面記事だ。

 先ほどから蒼衣の目と手はずっと、そんな事件記事ばかりを往復している。蒼衣は今朝からずっと、とあるニュースを探していたのだ。

 それは今朝の蒼衣の、寝不足の原因。

 そして昨日クラスメイトにプリントを届けられなかった、原因でもある事件だった。

 昨日のを、蒼衣はずっと探していた。状況を見た限りでは、どう見ても猟奇殺人。それがテレビはおろか、新聞にも全くニュースになっておらず、それどころか女性の死亡や失踪記事も、それどころか少しでも関係のありそうな出来事も、朝一番に朝刊を確認したうえ学校にまで持ってきて何度もチェックしたにも関わらず、今になってもなお見つけることができていなかった。

 ────人が一人、死んでいるというのにだ。

 昨日は不安と緊張と、その揺り返しの興奮でろくに寝られなかったのだが、結局パトカーや救急車のサイレンが街に鳴り響くこともなく、騒ぎにすらならずに夜が明けた。

 きっとうっかり人を殺して、死体を埋めて逃げている犯人の心境は、昨夜から今までの蒼衣の心境と似ているのではないだろうか。とにかく昨日あった出来事も、あの見知らぬ女性の死も、まるでそんなものは存在しなかったかのように、その片鱗さえ、世間からはいだすことができなかった。

 がさ、と蒼衣は、黙って新聞を閉じた。

 あの目玉を抉られた女性の死は、完全に〝無いもの〟になっていた。

 こうなることは説明されていたはずだったが、それでも実際にそうなってしまうと、犯罪の片棒をかついでしまったような、謂れのない気分にどうしても襲われる。蒼衣を襲って、そして黒い少女に謎の力で焼き殺されてしまった、あの階段の若い女性は、完全に存在を消されてしまっていた。


「…………」


 あの出来事の、後。

 蒼衣は、雪乃と呼ばれていた黒い少女によって、病院に連れて行かれ、そこで仲間だという人物に引き合わされた。

 タクシーに乗せられて、連れて行かれた病院の待合室で、蒼衣は黒い少女たちの世話役をしているという一人の若い男性と会った。そして蒼衣はその彼から、蒼衣が遭遇したモノの正体と、それからあの焼き殺された女性も蒼衣同様、ただの被害者に過ぎないのだという、説明を受けた。

 蒼衣は聞かされた。

 あそこで蒼衣が出遭ったものは────いや、それだけではなく、この世で起こる全ての怪奇現象は、〈神の悪夢〉なのだと。

 そして普通に暮らしている人々は知らないが、そんな怪奇現象に遭遇して生き延びた者たちが密かに集まって、自分たちのように〈神の悪夢〉に巻き込まれてしまった人々を助けているのだと。また同時に、あの女性のように手遅れになってしまった者を、やむなく始末することで、世間から〈神の悪夢〉存在をひた隠しにしているのだと。

 にわかには信じられない話だった。

 自分がマンションで見たものさえなければ、何かの妄想か、宗教だと思うくらいだ。

 しかしそれを説明した男性は、「すぐに信じる必要はないよ」とほほんで、そのまま蒼衣は解放された。「でも気をつけて」とだけ言って。そして蒼衣は家に帰り、夜が明けて、こうしてここにいる。ろくに眠れないまま。

 だいぶ落ち着きはしたが、しかしまだ心の整理はついていなかった。

 朝一番のニュースを見て、新聞を隅々まで読んで、そして朝早くに家を出て、小さな焦げ痕の他には血の一滴すらも残っていない、マンションの踊り場を自分の目で確かめに行ったくらいには。


「────よっ!」


 そんな物思いに沈んでいた蒼衣の肩が、いきなり勢いよく叩かれる。


「うわ!」

「はっはっは、おはようシラノ」


 蒼衣の肩を通り過ぎざまに叩いたのは、朝っぱらから満面の笑みを浮かべた、長身大柄に黒縁眼鏡の男だった。


「……ああ、おはよう。しきしま


 蒼衣は物思いを破られて、挨拶を返す。敷島はそれに対して、朝からテンションの高そうな笑みを返し、乱暴というか大雑把な動作で鞄を机の上に置き、その騒音で無用な注目を周りから集める。

 この同級生の敷島ゆずるという男は、名前とはまるで違った、遠慮のない男だった。出席番号順で蒼衣の前の席。出会った当日にこの調子で話しかけられ、そのままなし崩し的に親しくしていた。

 その無駄に大柄な敷島の横に、こちらはやや小柄な男。線の細い少年っぽい風貌に、妙に表情に乏しい眠たげな顔。蒼衣と目が合うと、特に表情を変えることなく、挨拶代わりに軽く片手を挙げて見せる。


「やあ、

「ん」


 蒼衣の返礼に、それだけ答える。佐和野ゆみひこは、敷島と小学校中学校が同じで、体格も性格も正反対に近いが、いつも一緒に通学してくる友人同士だった。


「うわ! シラノ、何それ?」


 そして一息ついた敷島が、真っ先に反応したのは、蒼衣の机の上の新聞だった。


「何で新聞? おまえ、お父さん?」

「うるさいなあ」


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