断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル
一章 終わりと始まり ④
苦笑しながら蒼衣は新聞を小さく畳む。
「いずれ社会の一員になる身として、社会への関心に目覚めたんだ。今日だけ」
「今日だけかよ」
適当なことを言う蒼衣に、敷島は笑う。もちろん本当の理由など言えない。蒼衣は畳んだ新聞を、鞄の中に突っ込んだ。
それで蒼衣は、この話題を終了させたつもりだった。
だが敷島は言った。
「いや、まあ、でも今日は新聞でよかったよ」
「……は?」
唐突な敷島の言葉に、蒼衣は、ぽかん、となって、思わず聞き返した。
「何? その『よかった』って」
「お前は時々、ここで怖そうな本を読んでるからな。俺は怖いの駄目だから、そういう時はシラノに近寄らないようにしているのだ」
初めて知った。そして、どこに威張る要素があるのか、胸を張る敷島。軽く
「……読んだ
だから蒼衣は、そのまま答えた。
「ふふん、またまた。
「昔から騙されてたんだ……」
「あとは怖い話を朗読しながら俺を追いかけたりな!」
どこか遠い所を見て主張する敷島。蒼衣は佐和野の方を見た。無表情で
「……でも本当に覚えがないんだけどなあ」
それはともかく、蒼衣はどうしても思い出せず、首を傾げた。
敷島は蒼衣を指差して、大仰な動作と口調で言った。
「まだ言うか。俺は見たんだぞ、この目で」
「そう言われても」
「お前がここで、『最悪の』とか『世にも恐ろしい』とか、そんな感じの怖そうなタイトルが書かれた本を読んでいたのを!」
「最悪の?」
「そうだ。それを見て、俺は慌てて逃げ出したのだ」
「…………」
「入学してすぐくらいの時だ。これで言い逃れはできまい」
情けない内容を得意気に語る敷島。だが蒼衣はしばし眉を寄せ、やっと思い出した。ようやく話が繫がった。
「……それ、ひょっとして『最悪のはじまり』じゃないか? 『世にも不幸せなできごと』シリーズのやつ」
「ほらみろ! 覚えがあった!」
「それ児童書だよ。映画化された。ちょっとだけコメディタッチなやつ」
「…………」
蒼衣は言う。敷島は黙った。真剣な顔で、しばらく敷島は蒼衣の目を見た。そして敷島は蒼衣の肩に手を置いて、やがて口を開いた。
「俺はお前を信じてたよ。シラノ」
「噓つけよ!」
思わず蒼衣は叫んだ。ぼそりと佐和野が言った。
「いや、敷島は本気だ。そういうことにしておくといい。そうすれば敷島がより救いようのない、嫌な人物ということになる」
「いやいやいや、ちょっと待て!」
いつものように敷島と佐和野のやり取りが始まって、蒼衣は笑う。
この少し風変わりな友達二人の馬鹿馬鹿しい会話に、蒼衣は少しだけ、重かった心が軽くなるのを感じた。これだから蒼衣は〝普通〟が好きなのだ。こうして普通と日常に埋もれて暮らすことが蒼衣の最大の望みだ。そして蒼衣にとって友達こそが、普通と日常の象徴と言ってもいい、何より大切なものだった。
と、その時だ。
「ええと……し、白野くん?」
不意に横合いから、おずおずとした女の子の声がかけられて、蒼衣は振り向いた。
「え……? あ、ああ。杜塚さん?」
「う、うん。昨日は電話、ありがと……」
蒼衣に話しかけるには、ちょっとだけ席から離れすぎている場所に立っている女の子。眼鏡をかけて、襟元に短い三つ編みを作っているこの女の子を、蒼衣はこのとき初めて、杜塚眞衣子というクラスメイトであると完全な形で認識した。
昨日、例の事件のせいで、とうとうプリントを届けに行けなかった蒼衣は、夜のうちに連絡網を頼りに電話をかけていた。それは不慮の事情でプリントを届けに行けなくなったことを
詫びる蒼衣に、眞衣子はたどたどしく、「気にしないで」と何度も言った。そして後日に改めてプリント類を届けに行くという意思を蒼衣が伝えると、それに答えて眞衣子は、「明日学校に行くつもりだから、そこで渡してくれればいい」と答えた。
ということは、蒼衣があのマンションまで出向く必要はなかったということで、それを聞いた時は思わず頭の中で真剣に担任を呪った。ともかく、それで蒼衣は再びプリントを届けに行く用事はなくなってしまったわけで、そんなわけで今日こうして、蒼衣は今までろくに面識もなかったクラスメイトと、初めて顔を合わせて言葉を交わすこととなったわけだ。
入学早々学校を休みがちにしていて、ろくに見たことがない彼女と。
今、初めて顔と名前が完全に一致した、彼女と。
「えーと、じゃあ、プリントはここに……」
蒼衣が鞄から学校のロゴが入った大きな封筒を取り出して差し出すと、眞衣子は俯き気味に手を伸ばして、それを受け取った。
「あ、ありがとう……」
「いや、ごめん。昨日ちゃんと行ければ良かったんだけど」
とりあえず、蒼衣は笑顔を作る。噓をつく。実際にはマンションまで行った。しかし、届けられなかっただけだ。
届けられなかった理由は、もちろん言えない。
その理由を思い出すと、無理にでもここで笑顔を作っておかないと、自分がうっかりどういう顔をしてしまうか予想もつかなかった。だから応対しながら、蒼衣は意識して、笑顔を浮かべる。
眞衣子は余計に黙って俯く。
変な感じの笑いになってしまっただろうか? だが、かといって立ち去ろうとするわけでもない眞衣子との間に妙な沈黙が生まれて、蒼衣は困った。蒼衣は話題を探した。
話題はすぐに見つかった。
「と、ところでさ、昨日なんだけど……」
そして蒼衣が、刹那迷ってから選び出した話題は、本当は昨日の電話のときに切り出そうと思いつつ、結局言い出せなかった問いだった。
「昨日、杜塚さんのマンションの辺りで、何かなかった?」
蒼衣は訊ねた。言いながら、さすがに少し緊張した。
今朝からの蒼衣の試みの、これは最後のとどめだった。あの事件はテレビにも新聞にも出ていなかったが、しかしそこに住んでいる住人ならば、さすがに何か気づいているのではないかと思ったのだ。
できるだけ軽く言ってはみたが、内心は、屋根から飛び降りるくらいに緊張していた。
答えを待つ。しかしその蒼衣の緊張を、眞衣子はあっさりと吹き散らした。困惑した表情をして、眞衣子は首を横に振ったのだ。
「え……昨日? うちで? ……ううん? 別に、何も……」
「そっか……」
蒼衣は、思わず小さく溜息をついた。そのときに自分が感じたものが、安堵なのか失望なのか、この時の蒼衣は、自分でも正直よく分からなかった。
「そっか……杜塚さんは、何で学校休んでるの?」
質問を変えた。
続けた問いにも、杜塚は実に普通な答えを返した。
「あ……ええと、お母さんが病気で……」
「そうなんだ……」
要するに、彼女の休みの原因を、事件に求めてみたわけだ。もちろん、こちらはそれほど期待していたわけではないので、望むような回答ではなかったが、蒼衣は特に失望もせず、普通に頷いただけだった。
だが話は、蒼衣の思いもよらない方向に進んだ。
「うん、
眞衣子の声が沈んだ。蒼衣は慌てる。期待どころか明らかに
「あ……わ、悪い。ごめん」
謝る蒼衣。眞衣子は首を振る。
「ううん、いいの。気にしないで」
「そっか。ごめん……じゃあ、頼まれたものはちゃんと渡したから」
「う、うん……」
内心かなりの動揺をしていたが、それでもこれで話の区切りにはなった。
話が終わって、眞衣子が蒼衣の席から離れる。眞衣子はプリントの束が入った封筒を抱きしめるように持って、自分の席へと戻っていった。そんな後ろ姿を見て、蒼衣は反省してつぶやいた。
「しまったなあ……」
不可抗力ではあったが、蒼衣としては後ろめたかった。
自分の事情に固執する余り、眞衣子への配慮を欠いてしまった。
事件の事はしばらく忘れよう、と心の中で思う。これ以上、異常なことに
見回せば、いつの間にか教室には生徒たちの数が増えている。
友人と一緒だと時間の進みが早い。敷島が来る前はずいぶん早い時間だった気がするが、黒板上の時計が指している時間はもうHR間近だった。
教室のざわめきが、蒼衣を包んだ。
蒼衣はそれを吸い込むように深呼吸して、目を閉じる。
「…………」
そうだ。もう忘れよう。今朝からの証拠探しは、ほとんど徒労に終わった。もうあの事件が存在するのは蒼衣の記憶の中と、そしてマンションの踊り場で見つけた、今にも消えそうなコンクリートの焦げ痕だけなのだ。
このまま何もかも忘れて、二度とあそこに近づかなければ、そのまま全てはなくなってしまうのではないかと思えた。そうだ、それがいい。蒼衣は思う。そして、丁度そのとき予鈴が鳴り、それに合わせて担任の先生が教室に入って来る。
クラスメイトの皆がぞろぞろと席につき始め、生徒たちの最後の
蒼衣は教卓で出席簿を広げている中年男性に、最後に一度、軽く恨みの視線を向けた。
それから直後に、気合いを入れる要領で自分の頰を張って、気持ちを切り替える。そして蒼衣は今までの全てを一度意識から追い出して、これからの授業と学校生活へと、新たに意識を向け直した。
……そして蒼衣は。
この自分の決心が、いかに無意味なものだったか、後で知ることになる。
†
時が
この日の授業を終え、すっかり日常を取り戻した気になって、帰宅の途につこうとした蒼衣が校門を出ると、いきなり背中から声をかけられた。
「────白野君、でよかったのよね?」
「………………!!」
自分の名前を呼んだ、その澄んだ女の声に、蒼衣の背筋は電気が走ったように伸びた。慌てて振り向いたそこには、学校の門柱の陰に、道行く人の目を引くほどに整った容貌をした、近くの公立高校の制服である、セーラー服を着た少女が一人立っていた。
「君は……!」
思わず上ずった声を上げる蒼衣。
それは忘れもしない、あの時とは服こそ違うものの、昨日マンションの前で蒼衣をタクシーに詰め込み、そのまま別れたきりの、あの〝黒い少女〟その人だった。
この、呼吸する空気そのものが我慢ならないとでも言い出しそうに引き結んだ口元と、印象的な強い目をした少女。
服装はあの時のようには目立たない、この市を歩けば普通に見られる市立一高の制服。しかしその伝統的な黒いセーラー服は、皮肉にもあのゴシックロリータと奇妙に近い印象を持っていることに、蒼衣は少女を目の前にして初めて気がついた。
「えーと」
できるだけ考えないようにしていた、しかしとても忘れられるものではない昨日の記憶から断片を掘り起こして、蒼衣は訊ねた。
「たしか……雪乃さん、だよね?」
「時槻雪乃」
問いに対して、少女はそっけなく答えた。
そしてそのやり取りをしたところで、蒼衣は不意に気がついた。
門から出て来る、下校を始めた生徒たちが、よその制服を着た、しかも
もちろんそれは、一緒にいる蒼衣にとっても同じことで────その非日常な注目に蒼衣はすっかり慌て、早くこの場から逃れたくて、急いで元凶である少女に訊ねた。
「な、何の用で、こんなとこに?」
上ずった蒼衣の、その問い。対して少女は、冷静に答えた。
「あなたを迎えに来たわ」
「…………え?」
蒼衣の間抜けな、その疑問符を。
学校の門の前で、夕刻に差し掛かった時間に吹く風が、静かに吹き流していった。



