断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル
二章 傷を持った騎士 ②
3
昨日、蒼衣にそんな説明をした眼鏡の男。
蒼衣は今、その神狩屋と呼ばれているらしい男の店で、ガラクタじみた商品に囲まれて、当の人物と、ささやかなお茶の席を囲んでいた。
「どうにも不精でね、あまり
「い、いえ……」
どこかとぼけたような笑顔で、カップにインスタントコーヒーを入れる神狩屋。この神狩屋という男は、自分でそう言うだけあってあまり身の回りを構いつけていないらしく、よく見れば上等そうなシャツはよれよれで、若くして白髪混じりの髪も、もう夕方だというのに寝癖が直りきっていないという
五人がけの丸テーブルには蒼衣と神狩屋の他に、恒常的に不機嫌な表情をした少女と、カラフルなヘアピンをつけた女の子がいた。女の子の方は神狩屋を手伝って、せっせとコーヒーを席に並べている。
「……」
蒼衣は、どうして自分はこんな所まで来てしまったのだろうなどと考えながら、整えられてゆくお茶の支度をぼーっと眺めていた。ここに蒼衣を連れて来た雪乃は特に会話をする気もないらしく、テーブルに小さく頰杖をついて、そっちに何か恨みでもあるのか、あさっての方向を睨んでいる。
「…………さて、と」
そうして一通りの体裁が整うと、神狩屋が改まって口を開いた。
「あらためて紹介させてもらうね。僕は鹿狩雅孝。神狩屋とみんな呼んでいるから、そう呼んでくれてもいい」
神狩屋はまず、そう言った。
テーブルに手を組んで真っ直ぐに蒼衣を見る姿は、思いのほか姿勢が良い。それはあまり今風ではない服装と相まって、まるで古い昭和を舞台にした映画の登場人物のように、ひどくこの店に馴染んだ、独特の浮世離れした雰囲気を醸し出していた。
「そしてこちらが時槻雪乃君で、この子が
雰囲気に少し気後れした蒼衣に、神狩屋は穏やかな笑みを浮かべたまま、あとの二人を紹介する。紹介された颯姫が、屈託なく蒼衣に笑いかけた。
「よろしくお願いします」
「あ、う、うん。よろしく」
「……」
気後れと戸惑いを抱いたまま、蒼衣はただ答える。雪乃はあさっての方向を見るのはやめたものの、相変わらずの仏頂面で、黙ってコーヒーに口をつけただけだった。
「さて、白野君。今日は急に連れてきて済まないね」
神狩屋は穏やかな笑みを、蒼衣に向けた。
「あ、いえ……」
「……うーん、君は変わってるね。話が早いのはいいんだけど、あんまり物分かりがいいと、かえって心配になるよ。普通はもう少し話がこじれるものだから」
「はあ……」
蒼衣の返答に苦笑して、神狩屋は言う。
普通を愛し、それを自認している蒼衣としては、変わっているという評価は不本意だ。だがそれでも確かに、今の自分がしていることは奇妙だとも思う。
────何で自分は、平然とこんなところに座ってるんだ?
答えを言うなら、人の頼みが断れない性格のせいだ。
しかしそれが分かりきっていながらも、胸の中ではずっと疑問と違和感が渦巻いていた。異常な現象に遭遇し、さらにこうして異常な話を聞かされても、まるで近所のおばさんの世間話に付き合わされている時のような返答をしている。滑稽な自分。自分はどうしてここにいるのだろう? 蒼衣は心の中で、そんな風に自分に首を傾げている。そしてその脇で、話は先に進められる。
「えーと、とりあえず、話は昨日の続きになるんだけど……ええとね、白野君。君には悪いんだけど、実はこの店に入った時に、ちょっとしたテストを君にしてみたんだ」
「あ、はい………………えぇ!?」
物思いのせいで危うく聞き流しそうになったが、辛うじてその言葉は耳に入り、蒼衣は思わず声を上げた。
「テストですか!? いつの間に!?」
「ああ、気づくようなものじゃないから、驚くのも無理はないね」
驚く蒼衣に、神狩屋はただ微笑む。
「どんなテストだったかというと、念のため君が、本当に過去に〈泡禍〉に遭遇したことがあるのかというのを、もう一度調べてみたんだ。何をやったかというのは後で説明するけど、結論を言うと、君が過去〈泡禍〉に遭遇していたことは間違いなかった」
神狩屋は言う。混乱する蒼衣。
そしてそんな蒼衣に、神狩屋はさらりと、さらにとんでもない事を告げた。
「あと、それともう一つ。実は僕らは君があの〝女性〟────つまりあのマンションで君を襲った女性が、あんな風になる原因になった、いわゆる〈潜有者〉なんじゃないかと疑っていたんだ」
「!?」
愕然とした。
「つまり君の意識に悪夢の〈泡〉が浮かび上がっていて、その〈顕現〉の結果があの〝女性〟ではないか、ってことだね」
「え……いや……僕は……!」
自分で分かるほど顔から血の気が引く蒼衣。しかし神狩屋は腕組みし、少し困ったような溜息と共に、結論を口にする。
「でも結論を言うと、これはどうやら違うらしい」
「え」
「実はこの街では、すでに数件の〈泡禍〉が起きていてね。それを調べている時に、雪乃君が君とあの〝女性〟とに出くわしたんだ。当然君が関係あるものだと予想していたんだが……雪乃君のお姉さんの見立てでは、どうやらそれは違うらしい。となると、君は偶然あの場所に居合わせただけで、〈泡禍〉には過去すでに遭遇していたということになるんだ。しかもおそらく、命に関わるほど危険なものにね。君に覚えはないかい?」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
話の中で何度も変わる状況に混乱しながら、慌てて蒼衣は言葉を挟んだ。
「何でいきなりそんな結論に……」
もちろん蒼衣には、そんな怪現象に出くわしたなどという記憶はなかった。
「そ、それに……その言い方じゃ、まるで僕に〈断章〉とかいうものがあるってことじゃないですか!?」
半ば椅子から腰を浮かせて、そう言う蒼衣。ぶつかったテーブルが揺れて、コーヒーカップが音を立てる。
「そんな馬鹿なこと……」
そのときの蒼衣の脳裏には、あの踊り場での、雪乃の凄惨な姿が浮かんでいた。あれと同じものが蒼衣の中にあるなど考えられなかった。あんな忘れようとしても忘れられない異常で恐ろしい光景は、どう考えても蒼衣の中にはない。
だが神狩屋は、静かに首肯する。
「うん。もちろん、僕はそう言っているんだよ。君の中には確実に、何らかのトラウマと共に〈断章〉が眠っている。これは間違いのないことだよ」
「…………!!」
蒼衣は絶句した。不治の病でも宣告されたような衝撃に、一瞬だが息が止まった。
「そんな……」
「覚えがないみたいだね。じゃあきっと、少なくとも小学生以前の古い出来事で、しかも自分の心を守るために無意識に記憶を封じているね」
神狩屋は、同情するような口調で、そう断定した。
「そ、そんなわけが……」
「残念だけど君が例のマンションにいて、しかもこの店に何の問題もなく入って来れたということは、ほぼ間違いなくそれで確定なんだ」
喘ぐように抗弁する蒼衣。だが蒼衣の抵抗を、ゆっくりと首を横に振って、無情に否定する神狩屋。
「なぜならあのマンションにも、それからこの店にも、実はこの颯姫君の〈断章〉が働いていたんだよ」
「!?」
蒼衣は反射的に颯姫を見る。颯姫は少し困ったような表情をして、何も言わずに、ただ蒼衣を見返す。
「彼女は〈食害〉と呼ばれている〈断章〉の〈保持者〉で、記憶を食い荒らす蟲を発生させるという〈
この効果を受けないのは〈
そして同様に、
〈異形〉……つまり悪夢によって変質してしまった、例の〝女性〟のような人。
〈潜有者〉……悪夢の〈泡〉が精神に浮かび上がってしまった人。
本当に、たったこの三種類だけなんだよ。颯姫君の〈断章効果〉である〈食害〉の中に、何の影響も受けずに入って来られる人間はね」
神狩屋は言う。蒼衣は焦りのような感情にかられて、思わずテーブルに手を突き、神狩屋へと身を乗り出した。
「そ、そんなこと、信じられるわけ……!」
「残念ながら事実だよ。君は気づかなかったかい? あのマンションも、この店の周辺も、全く人がいなかったろう」
「そんなの────」
「証拠にならない? じゃあ君が昨日見たものは、何だい?」
「そ、それでも────」
「僕らの組織は、これでもそれなりに歴史が長い。経験則とノウハウは積まれている。その末の結論なんだけどね。でも信じられないなら────仕方ないな」
神狩屋はそこで、うっすらと眼鏡の奥の目を細めた。
「颯姫君。見せてあげて」
「あ……はい」
答えて颯姫が、自分の右耳を隠している髪の毛に指を入れた。
そして少し探ると、黄色い何かをつまんで、耳の中から引っ張り出した。
それは外したイヤーウィスパーで、颯姫はそのまま髪を
その直後────
耳から蜘蛛に似た小さな赤い蟲が数も分からないほど大量に這い出して、颯姫の首筋と肩と腕とテーブルへと溢れ出し、瞬く間に見える限りの景色を、真っ赤に
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…………………………
…………
4
「…………………………」
カウンターの脇に椅子を置いて、青い顔をして突っ伏す蒼衣。
あれからしばらく。それまでの話はしばし中断され、この薄暗い照明の照らす店の中には会話もなく、どこか気まずい、白けたような空気が広がっていた。
雪乃は隅に寄せた椅子の上で足を組み、無言で眉を寄せ、あさっての方向を睨んでいた。
中央にあったテーブルは脇に寄せられて、そこの床に、神狩屋がバーテンダーのような風情でモップをかけ、濡れた床を掃除している。
颯姫は、先ほど床から掃き集められたコーヒーカップの残骸を片付けに店の奥へ行ってしまい、ここにはいない。無数の〝蟲〟を前にして思わず
そして蒼衣は、カウンターに突っ伏している。突然女の子の耳の中から恐ろしい数の蟲が
渡された濡れタオルを目に当てて、蒼衣は小さく呻いた。
「大丈夫ですか……? 白野さん」
ごみを片付けて戻ってきた颯姫が、そんな蒼衣に遠慮がちに声をかけた。
「う…………ご、ごめん。大丈夫……」
答えて、蒼衣は顔を上げる。気が遠くなった経験は、生まれて初めてだった。それまでの追い詰められたような興奮から一気に血の気が引いて、そのせいかうっすらと頭が重く、気分が悪かった。
「〝あれ〟もね、普通の人には見えないんだよ。白野君」
モップを片手に立ち、神狩屋が言った。
「〝記憶を食い荒らす蟲〟。あの蟲も〈断章〉の産物だ。だから普通の人には見えない」
「…………」
蒼衣は、答える気力がない。
「これは利用すれば他人の記憶を消すことができるけど、颯姫君自身も、常にこの頭の中の蟲に記憶を食い荒らされ続けている。だから反復しない記憶はすぐに忘れてしまう。現に颯姫君は昨日君に会ったことを、今日は覚えていなかった」
その神狩屋の言葉に「え!?」と颯姫が声を上げて、首から紐でかけていた可愛らしい手帳を取り出して、慌ててそれを開いていた。
蒼衣は、先ほどの最初の挨拶を思い出した。
全く蒼衣の事を覚えていなかった颯姫の、挨拶と表情を。
「あ……」
「覚悟しておいた方がいい。君も〝そういうもの〟を、絶対に抱えている。たまたまその爆弾が〝眠って〟いたから、存在に気づかなかっただけなんだ」
神狩屋は言う。その後ろで手帳をチェックした颯姫が、申し訳なさそうな表情をして、蒼衣に向かって手を合わせた。
「ご、ごめんなさい……忘れてしまってました。メモもしてないです。昨日お会いしてたんですね……」
「あ……いや……」
本当に済まなそうな颯姫の様子に、蒼衣はついついそう答えた。しかし正直に言うと不気味だった。あの〝蟲〟を見たことによって、彼女に触れることが
蒼衣は颯姫が正視できず、目を逸らす。
そして、これと同種のものが自分の中にあると言われた事が、実感のないままに、蒼衣を憂鬱にさせていた。
「………………」
いま説明され、また見たものが自分の中にある。
そんな覚えもなければ実感もない事実が、形のない不安となって胸の中に広がっていた。
何となく雪乃を見た。組んだ脚に頰杖をつくようにして蒼衣を見ていた雪乃と、ばったりと目が合った。
ふい、と雪乃は、すぐさま目を逸らす。
何だか不愉快そうに、その眉根がきつく寄せられる。
「雪乃君も、昨日君が見た通りの〈断章保持者〉だ」
その様子を見て、神狩屋は言った。
「もちろん僕もだ。僕らの集まりはこうして〈泡禍〉に巻き込まれて〈断章〉を心に抱えることになってしまった者ばかりで、もう百年以上互助を続けている」
「百年……」
蒼衣は呟いた。
「僕らの集まりは、一八〇〇年代後半、偶然『マリシャス・テイル』を発見した、〈泡禍〉に巻き込まれた経験のある三人のイギリス人によって作られたグループだ。彼らは〈ロッジ〉と呼ばれる活動グループを作り、その活動が広がって、日本にも二百ほどあって、つまりこの店もその〈ロッジ〉の一つというわけだ。
グループの名前は『マリシャス・テイル』の原題にちなんで〈



