断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル
二章 傷を持った騎士 ④
ウサギと一緒に分厚い本を胸に抱きしめて、少女は目を伏せる。だが別に無視されたわけではなさそうなのは、しばらく蒼衣の前から動かないその様子から、初対面の蒼衣にも何となく察することができた。
少女が再び座り込んで本を開くまで、たっぷり二分はあった。その間ずっと黙って少女と向き合っていた自分が滑稽で、少しだけ気まずい〝間〟を誤魔化すように、蒼衣は神狩屋の方を見て困った笑いを浮かべた。
「はは……どうしようかと思いました」
「ありがとう。この子も感謝してるよ」
笑顔で神狩屋が、お礼を言った。
少女はぺたんと床の絨毯に座って、蒼衣の渡した新しい本に無心に目を落としていた。
こうして見ると、無表情さも人見知りのようで微笑ましい。しかし、そう思うと先ほどまでの話が思い出されて、複雑な気分になった。
「あの…………この子もあの……〈断章〉……を?」
蒼衣は訊ねる。
「えっ? あ……ああ、もちろん」
その突然の蒼衣の問いに虚をつかれたらしく、神狩屋は一瞬言いよどんだ後、頷いた。
「もちろんこの子も〈保持者〉だよ。この子の持っている〈断章〉は〈グランギニョルの索引ひき〉と呼ばれている」
答える。
「一種の予言の効果を持つ〈断章〉でね。大きな童話化した〈泡禍〉の兆候があると、近くの本に予言が現れるんだ。するとその本に示された童話や昔話にちなんだ〈泡禍〉が必ず発生して、付近や、あるいはこの子に関わりのある人が、それに巻き込まれる」
「童話?」
唐突な単語に、蒼衣は眉を寄せた。
「ああ、童話化というのは……〈泡禍〉は時々『童話』の形をとることがあるんだよ。意識に浮かび上がった悪夢の〈泡〉は、その人固有の記憶や悪夢や狂気と混じり合って形を変えるという概念は前に言ったことがあるよね?
これはつまり〈泡禍〉というのは、通常その人にとって固有の現象が起こるってことで、たとえば誰かを死なせてしまったことを気に病んでる人に〈泡〉が浮かぶと、その記憶や恐れと混じりあって、死なせた相手の幽霊などが現れたりすることが多いんだ。なんだけど、浮かび上がった〈泡〉が非常に大きなものだった時、あまりに多すぎる神の悪夢によって個性が希釈されてしまって、物語の『
「……いえ」
「えーと、『元型』というのは、ユング心理学の用語でね、日本では『
例えば『三匹の子豚』のような兄弟の昔話は、何故か世界中の昔話で、末の弟が成功する話が多い。『三枚のお札』のような、三つの不思議な道具を投げて追っ手を阻む話は呪的逃走
これを『元型論』とか、『祖型論』とか言うんだけど────ずっと昔から伝わっている物語、つまり神話や童話や昔話は、その古さゆえに『元型』に近い物語と言えるんだね。そしてそれを元に論を組み立てると、〈神の悪夢〉は『元型』に限りなく近いか、あるいは負の『元型』の巨大な塊ではないかとも考える事ができる。だからこそ、大きな〈泡禍〉は童話に似た形の怪現象になるという理屈なんだけど────この童話に似た〈泡禍〉がどういうものかというのは、ちょっと説明が難しいな」
難しそうに眉根を寄せる。
「まあ……とにかく、この夢見子君は、そういう童話に似た形の〈泡禍〉が近辺に発生するとか、近い将来それに巻き込まれる運命にある人が近くに来たりすると、〈断章〉が発現してそれを事前に予言するんだ。〈異形〉と化した両親が異形の言葉で絵本を朗読し、それを聞き続けたという、彼女の悪夢の欠片だよ。
ゆえに彼女の〈断章〉は、フランスの恐怖残酷劇『グラン・ギニョール』から〈
言いながら神狩屋は、本棚に並ぶ童話集の背表紙に触れた。
「まあ……これは僕らの〝活動〟の最前線の話だから、君にはたぶん縁のない話だね」
そして神狩屋は、蒼衣に向き直ると、微笑む。
「僕は、君にはもっと普通のことを期待してるんだ。たとえば、雪乃君の友達になってくれるようにお願いした件とかね」
「え、あ、はい……」
突然水を向けられて、蒼衣はそんな返事をした。
「彼女は自分が出遭ってしまったモノの異常さに潰されそうになってて、ああすることで必死で自我を保とうとしてる。でもあれは、つらい生き方だよ。彼女にはまだ、もっと別の生き方があるはずなんだ」
「それは……そう思います」
同意して頷く蒼衣。
「うん、君にはその助けになって欲しいなあと思ってる」
神狩屋も、頷いて返した。
「とりあえず〈騎士団〉とかは置いておいて、僕が君に期待してるのはそれだという事は憶えておいて欲しい」
「はい」
それならば協力してもいい、と蒼衣は素直に思った。
蒼衣の返事に、ほっ、と小さく溜息をつく神狩屋。
「うん、よろしく頼むよ」
「はい」
頭を下げあう二人。蒼衣は安心した。最初はどうなるかと思ったが、出た結論は比較的穏当なものだった。
もちろん不安もたくさんあるが、ここに連れて来られるまでの間に考えた最悪の想像に比べれば、遥かにマシだ。丸め込まれる前段階かも知れないが、すぐさま「仲間に入れ」と強いられるようなことにならなかったのは、正直に言って助かった。
蒼衣は、胸をなでおろす。
だが、その時だった。
ふ、
と。それまで蒼衣の存在に何の反応も示さずに床に座っていた少女が、不意に猫のように顔を上げて、蒼衣を見上げた。
目が合った。
初めて。
直後、
ばたん!
と心臓を
蒼衣の背後にある本棚から、誰も触っていないのに、分厚い本が床に落ちたのだった。
「…………………………」
不気味な沈黙が、部屋を支配した。
声すらも上がらなかった。蒼衣も神狩屋も、無表情に強張った顔で、その本棚の列から一冊だけ抜けた隙間を、恐ろしいまでの無言で見つめた。
緑色の背表紙が並んでいる童話集の列から、一冊だけが、すとん、と抜け落ちていた。もちろん自然に落ちるわけがない。その一冊は、それまで何の異常もなく、隣の本と同じように深く棚に差し込まれ、行儀良く並んでいたのだ。
にもかかわらず────落ちた。
ぽっかりと、本と本の間に、一冊分の、黒い空間が開いていた。
まるで、見えない〝何か〟が、そこから本を抜き取ったかのように。
あるいは本棚の裏にいる〝何か〟によって、その一冊が、押し出されたかのように。
「………………」
床に落ちた、童話の本。
たった一冊の、その異様な存在感。
そして呼吸の音すら聞こえない凍ったような空気の中で、その一冊にみんなが目を落とした時、それは起こった。
ぱた、
と重い表紙が誰も触れることなく開いた。
そして皆が息を吞んだ瞬間、ぺら、と風に
ぱららららららららら……
風もない部屋の床で、音を立てて流れてゆく、本のページ。誰も触れていないのに、ページが次々と繰られているその異様な光景は、やがて不意にぴたりと、一つのページを開いたところで停止した。
そして蒼衣は見た。
その停止したページに────白い指がかかっているのを。
死人のように白い四本の指が、開いたページのさらに下のページから這い出して、下から指をかけているのを。本の中から這い出した指が、
ぞ、
とおぞましい寒気が、瞬く間に皮膚を這い上がった。
白いほっそりとした指は、三人が見ている前でゆっくりと動くと、指をかけていたページを離して、ずるりと本へと引っ込んでいった。
完全に指が見えなくなると、指の太さだけ開いていたページが重力に従って、ふわりと閉じた。そこにはもう指はおろか、蟻も存在できる隙間はない。もちろん本の中にも、そんなものが隠れる隙間はない。
「…………………………」
しん、と部屋に、嫌な沈黙が降りた。
神狩屋は、人のよさそうな顔を強張らせ、少女は無表情のまま俯いて、自分の身体を抱きしめて震えていた。
「……済まない。白野君」
そして神狩屋が、ぽつりと言った。
「さっきはあんな事を言ったけど、残念ながら君を関わらせないわけには、いかなくなってしまったみたいだ」
床に落ち、開かれた本のページは、ちょうど章扉で。
そこには、とある一つの童話の題名が、柔らかいタッチの挿絵と共に、優雅な活字で印刷されていた。
こう書かれていた。
『灰かぶり』
と。
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