断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル

三章 灰かぶりの欠片 ①

 神は物語を語らない。神はただそこに在る。

 物語を語るのは人である。人がそこにある神を仰ぎ見て、その断片を語るのだ。

 全ての営みは神のあらわれであり、あまりにも偉大で巨大で普遍であり、その全てを一望することはできない。人が見ることができるのはその小さな一片でしかなく、したがって物語ることができるのはその小さな断片でしかなく、いかなる長大な物語も小さな一編に過ぎない。全ての物語は神の断章である。

 古来より幾多の詩人が、預言者が、語り手が、学者が、作家が、世界より見出した神の断章を記録し、我々はみなそれを読むことで、自分の知らない神の姿と意思に繫がる。

 そうして世界と神の姿を知り、その偉大さに身を震わせる。

 そうして垣間見る世界と神は、遠大で、精緻で、驚嘆すべきものだと。

 世界は光り輝いていると。

 私は信じていたのだ。


私家訳版『マリシャス・テイル』第十三章




 杜塚眞衣子が、先生に呼び出され、今後の事について話し合った後。

 帰宅するために一人、学校の最寄り駅まで辿り着いた時、そこで眞衣子が見たものは、白野蒼衣が一高の制服を着た物凄く綺麗な少女と連れ立って、駅前通りの方向へと向かっている姿だった。


「──────!」


 その光景を見た瞬間、眞衣子は駅の前で、一瞬立ち尽くした。

 そして次に眞衣子がとった行動は、蒼衣に声をかけるわけでもなく、放っておくわけでもなく、そんな蒼衣と万が一にも行き会わないよう、そっと隠れるようにして、駅の中へと入ってゆくというものだった。


「…………」


 そうして眞衣子は改札を通り、ホームに立つ。

 ほどなくやって来た電車に乗り込んで、二駅。

 蒼衣と同じ家からの最寄り駅に着いて、帰路。

 しかし眞衣子は、そのまま家には帰らずに、マンションの近くにある川近くの大きな公園にとぼとぼと入って行くと、ひどく重く感じる硬貨を自動販売機に入れ、出てきた缶ジュースを手に、公園と呼ぶには舗装され過ぎているコンクリート色をした公園のベンチに、夕刻の空の下、ぽつんと一人、腰を下ろした。


 ────見たくなかったなあ……


 そして眞衣子は、ここにきて、大きく溜息をついた。

 元々覇気に乏しい表情が、ますますえないものになっていた。

 眞衣子は少しだけ、蒼衣に片思いをしていたのだ。ここのところ学校を休みがちで、そうでなくても引っ込み思案な性格のため、ほとんど話をしたことがなかったが、それでも眞衣子は初めて見た時から、蒼衣に密かに好意を持っていた。

 きっかけは、入学後しばらくして、初めて蒼衣をまともに見た時だった。

 朝の始業前、その時の蒼衣は自分の席で、レモニー・スニケットの『世にも不幸せな物語』を、頰杖をついて読んでいた。

 その時に初めて、眞衣子はその時は名前も覚えていなかった、白野蒼衣という同級生に興味を持った。眞衣子は童話や児童文学が何よりも好きだったが、しかしそれを読んでいる同年代の男の子というのを、今まで一度として、見たことがなかったからだ。

 どんな人なんだろう? と、眞衣子はその同級生に興味を持った。

 もちろん眞衣子の性格では、用事もないのに話しかけるなどできなかったが、その時から密かに眞衣子は蒼衣の様子に注目し、その人となりを横目で見ていた。

 蒼衣は決して目立つ容姿や性格をしていなかったが、それはかえって眞衣子にとっては好感が持てた。格好いい男の子というものに憧れがないわけではなかったが、おしやだったりスポーツマンだったりする印象の強い男子は、実のところ眞衣子はそれ以上に、別世界の人間のように感じて怖かったからだ。

 だから蒼衣の地味さは、かえって自分にとって等身大で心地よかった。

 それによく見れば蒼衣は線が細く、男らしくはないものの、決して容貌は悪くなかった。

 ただ蒼衣の立ち振る舞いは総じて受身で主張が薄く、また過度に目立つことを嫌っているらしく、何かの拍子に注目されたときにはすぐさまそれを誤魔化した。そして自分に関する印象が強くなるのを、巧妙に避けているふしがあった。

 注目されるのが苦手な人なんだろうな、と素直に思った。

 羨ましいと思った。眞衣子も注目されるのは苦手だったが、逆だったからだ。

 上手く立ち回れないので、眞衣子はかえって目立つのだ。おかげでいじめられたりもしたこともある。だから素直に、蒼衣に憧れた。

 ずっと、気になっていたのだ。

 昨日電話があった時は、とても驚いたし、嬉しかった。

 今日初めて、少しだけでも直接話ができたことは、とてもとても嬉しかった。

 だが────見てしまった。蒼衣と一緒に帰る、一高の女の子。ずっと持っていた密かな憧れと、密かな好意と、そして密かな喜びが、突然おもりに変化して、眞衣子の心を落ち込みの暗いふちへとずぶずぶと沈めていった。


 ────知りたくなかったなあ……


 石材を成型した冷たいベンチの上で、眞衣子は俯く。堤防の脇に作られた、球場の観客席にも似た大きな階段がシンボルの公園は、それ自体が寒々しいオブジェのように、眞衣子の胸に寒風を吹き込んだ。

 せめて知らなければ幸せでいられたのに。

 せめて昨日の電話がなければ、これほど落ち込みはしなかったのに。

 先生に呼び止められて話しさえしなければ、あの光景にでくわすこともなかったのに。

 考えてみればどれもこれも先生が原因のように思えて、眞衣子は胸の底で先生を呪う。


「……」


 もちろん八つ当たりだとは、自分でも分かっている。

 だがそれでも感情がやりきれず、その恨みは全てのきっかけになった先生へと、やっぱり向いた。

 本当に、知りさえしなければ、憧れたままでいられたのだ。

 それだけで幸せだったのだ。見ているだけでも、夢想するだけでも。

 告白しようだとか、そんなことは考えていない。とてもできないし、本当に自分のこの感情が『好き』だということなのか、自分でも確信がなかった。だが、こんなに落ち込んでいるということは、ずっと気になっていたあの感覚は、確かに恋愛感情だったのだろう。気づくのが遅かったわけだが。伸ばせば手が届きそうな気がしていた、蒼衣への憧れは、結構幸せだったのに。

 届きそうなのは錯覚だったと分かって、それも終わった。

 それでも好きだとか、せめて知ってほしいとか、ライバルを押しのけようとか、そういった覇気は眞衣子にはなかった。

 というか、それ以前にだ。


「────美人さんだったなあ……」


 眞衣子は遠目に見た光景を思い出して、小さく呟いた。

 遠目でも目を引くほど綺麗な子。とても自分ではかなわなかった。

 お似合いだ。多分。そこまで思った時、眞衣子は自分の今までの人生が思い返されて、あまり幸せなことのなかった自分を思って、少し泣けてきた。


「…………」


 眞衣子はほんの少しだけの涙を指で拭って、隣に下ろしていたバッグを開けて、お昼に食べ切れなかったパンを取り出した。

 途端、まばらにいた公園のはとが、少しずつ眞衣子の辺りへと寄ってきた。

 小さな頃から、眞衣子は鳩に餌をやるのが好きだった。幼い頃は家からパンを持ち出し、小学校の頃は食べきれなかった給食のパンを持ち帰り、中学校以降はわざと食べきれない余分なパンを買って、ほとんど毎日のように、眞衣子はこの公園で鳩に与え続けていた。

 今日もまた昼食代から捻出して買った、安くて味気ないコッペパン。

 袋から出して千切って放ると、それに向かって鳩が群がり、奪い合うようにして千切って食べ始める。このそれほど自然が多いとは言えない公園にんでいる鳩は、やはりそれほど多くはない。さらにここ数日は何故だか数が減っていたが、それでも風を叩くような羽音がして新しい鳩が加わると、日中に陽の光を吸い込んだ、暖かい鳩の羽の匂いがする。

 パンの欠片ひとつをなんもの鳩が一斉につつくのを、眞衣子はじっと見ている。

 鳩は好きだ。平和の象徴で、の象徴。

 空を飛ぶ、自由の象徴。

 いつでもこの場所から、飛んで逃げられるのだろう。眞衣子とは違って。

 幼い頃の眞衣子は、鳩のようなつたない足取りで鳩を追いかけるのが好きで、鳩の子とか呼ばれていたらしい。

 だが今の眞衣子は、例えるなら鎖に繫がれた鳩だった。

 眞衣子は飛べない。逃げられない。この現実に、鎖で繫がれているのだ。


 学校。

 友達。

 親戚。

 そして母親。


 そんなものに飛べないように繫がれ、逃げられないように足を切られた鳩。

 飛べない鳩が、飛べる鳩たちにパンを与えている。そのパンをついばむ姿を見ながら羨ましいと感じ、自分を連れてどこかに飛び立ってくれないだろうかと、無駄なことを思う。

 昔はこんなことを思いながら、餌をやったりはしなかった。

 ただパンをき、元気に群がる鳩を見るのが好きなだけだった。

 だがいつの間にか、鳩を見ながらそんなことを考えるようになっていた。それはたぶん小学校の高学年くらいになって、自分が飛べない鳩だと気がついてしまった頃だろう。

 さいな事から、学校でいじめられ始めた頃。

 自分が母親から逃げられないと、気づいた頃。

 生きてゆくのが、つらくなった頃。

 鳩になりたかった。今のように繫がれた弱い鳩ではなく、いつでもこの場所から飛んで逃げることができる、本当に自由な鳩にだ。

 足を切られた、鳩ではなく。


「………………」


 手元のパンがなくなり、眞衣子はそれでも周りをうろつく鳩を眺めていたが、やがてゆっくりと鳩の群れるなか、石のベンチから立ち上がった。

 そろそろ、家に帰らなければいけない。

 母が待っている。

 全身に転移のある末期の癌で、もはや手のつけようがなく────そのため本人の希望で家に帰っている、命が尽きるのを待つばかりの、母が。



「……ただいま」


 鍵を回す音がやたらと響く鉄製のドアを開けて、眞衣子は言う。

 答えはない。あれ? と思った。寝室で寝ている母が返事をしないのは、別に不審なことではない。だがほとんど動けない母の世話をするために従姉が来てくれているはずで、その従姉から返事がないのは、少しばかりおかしかったからだ。


なつお姉ちゃん……?」


 眞衣子は玄関から家の中に向かって、短大を卒業して去年からデザインの学校に通い始めた従姉の名前を呼んだ。

 それでも返事はない。昨日、打ち合わせに来た彼女と少し気まずい話題があって、けんわかれのように別れたので、そのせいかとも最初は思った。

 気まずくて、返事をしないのかと。

 だが、だからといって、夏恵がここに来ていないという可能性は、眞衣子はこの時点では考えていなかった。

 夏恵は、そういう性格ではなかったからだ。彼女は責任感が強くて思いやりもあり、昨日の口論の原因も、眞衣子を心配するあまりの彼女の言葉だった。眞衣子のことを思って、夏恵は母のことを悪く言ったのだ。それが悲しくて、腹が立って、眞衣子は思わず泣いてしまい、夏恵はそこで話を続けるのを諦めて、そのまま帰ったという経緯が昨日あった。

 もちろん、もう怒ってはいない。

 夏恵も怒ってなどいないだろう。なにしろ子供の頃から付き合いのある一番仲の良い身内なのだから、それくらいは理解している。

 しかし台所を見て、用意していた食事の材料などが全く手付かずなのを見た時、眞衣子はその想像もしていなかった事態が起こっていることに気がついた。眞衣子は慌てて鞄を放り出し、母の寝ている寝室のドアを開けて部屋の中へと飛び込んだ。


「お母さん!?」


 飛び込んだ部屋に、母は寝ていた。

 リースされた点滴台の置かれた寝室で、生気の失せた顔色の母がベッドに横たわり、そのやせ細った顔についた二つの目が、ぎょろりと眞衣子の方を見やった。


「…………眞衣…………来なかったわよ……あの子…………」


 乾いた唇を動かして、その奥からかすれた声で母が言った。唸るような母親のその言葉を聞いた眞衣子はとても信じられず、ひどくショックを受けて、絶句した。


「そんな…………」

「……だから言ったのよ……あの子は嫌だって……」


 時おりたんのからむ、地の底から発されるような母親の声。夏恵に対する、敵意と悪意に満ちた声。


「あの子、私のこと嫌いだもの…………きっとこういうこと……すると思ってたわ」

「…………!」


 眞衣子は信じられない思いだったが、だが現実にそうであるらしい以上、それについて何も言えなかった。とにかく慌てて食事の用意を始めようと、眞衣子は台所に戻ろうとした。


「す、すぐ支度するから……!」

「……いいわよ、もう……」


 そんな眞衣子に、母は意地の悪いことを言う。


「そういうわけには……」


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