断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル

三章 灰かぶりの欠片 ②

「今日はもう疲れたわ…………トイレも点滴も、自分だけでしなきゃいけなかったしね……誰も手伝ってくれないし、ずっと一人で放置よ。寂しいったらありゃしない…………」

「…………ごめんなさい」

「ふん。そういう子よ、あの子は……意地の悪い子。前からずっと気に入らなかったのよ。私を放ったらかして、喜んでるに違いないわ。私を馬鹿にして、ほんとに腹が立つ…………だから、ご飯はもういいって言ってるでしょ! どうせしくもないし、もう食べる体力もないわ!」

「………………」


 かすれた声で怒鳴る母。怒鳴る体力はあるのだ。母と夏恵は互いを嫌い合っていた。

 夏恵は正義感が強く、母の悪いところをはっきりと言うせいだ。母はそのせいで夏恵を毛嫌いし、対する夏恵は母をひどく軽蔑していた。

 その軽蔑の原因が、眞衣子に関するものだった。

 眞衣子はこの母に、幼い頃からずっと虐待され続けていたのだ。


 ────眞衣子の左足には、無数の火傷があった。


 元々ヒステリー気味の母は、眞衣子が三歳の頃に離婚して、それを機に頻繁に眞衣子を虐待するようになった。

 幼い眞衣子が言うことを聞かなかったり、気に入らないことがあったりすると、母は眞衣子を激しく叩き、やがて煙草たばこの火を押し付けるようになった。それもできるだけ火傷が目立たないように一ヶ所だけ、眞衣子の左足だけに、しつように押し付けるという陰湿なやり方でだ。

 痛みに似た強烈な熱が足の皮膚に近づいて、じゅっ、と触れて肉を焼く。

 貫くような痛みに痙攣して泣き叫び、その後も続くとうつうに一晩中むせび泣く。

 どうして母親にそんなことをされるのか解らず、小さな頃はその足が何か悪いのだと思っていた。「悪い子は」「そんな悪い子は」。何度も母はそう言った。眞衣子の目を見ずに、ただ足だけを睨みながら。

 だからそんな時の怖い母の横顔を見ながら、眞衣子はその煙草を押し付けられる足が、何か悪いものなのだと思った。

 そんな悪い足を、自分でもいじめた。傷つけた。

 これのせいで、自分が母に嫌われるのだと思って。そんなことが無意味だと頭でも心でも気づいたのは、それこそ最近のことだ。

 この事実は、まだ夏恵以外の誰にも気づかれていない。

 そして眞衣子が小学生の頃、夏恵にうっかり火傷があることに気づかれて、問いつめられて虐待を告白した時から、ずっと夏恵と母との仲は最悪だ。

 だが親戚は数あれど、何かを頼れるほど親しい身内は夏恵の他にはいなかった。だから仲が悪いことは承知の上で、眞衣子が学校に行くために、その間の母の世話を、眞衣子は夏恵へと頼んだのだった。

 母はどうせ死ぬなら家で死にたいと希望し、唯一の家族である眞衣子に、当然のように世話を要求したからだ。

 母はこの気性なので、親戚にも親しい人間は全くいない。必然的に眞衣子が世話をするのは仕方がなかったが、しかし「学校に行けない」と言った眞衣子に対して、母は「どうせ私が死んだら高校なんか行けなくなるわ。さっさと辞めればいいじゃない」と言い放った。確かにその通りかもしれなかったが、それでも学校には行きたくて、眞衣子はやむを得ず、従姉の夏恵にその間の世話を頼んだのだ。

 夏恵は軽蔑している母の世話ということで大いに嫌な顔をしたが、それでも眞衣子のためという部分では、快く応じてくれた。

 しかし、今日は来なかった。

 そういうことをする人では、なかったのに。

 とうとう昨日の口論で、眞衣子にも愛想が尽きてしまったのかも知れない。


「………………」


 釈然としない、悲しい気分を抱きながら、眞衣子は食事の準備のために、台所でエプロンを身につける。


「…………と…………! ……して……!」


 寝室では、母親がもう遠くて聞き取れない、かすれた声でわめいている。

 窓の外には夕闇の落ちかけたあの公園が見え、遠く、点のような鳩の姿が公園を歩き回っているのが見える。丁度そのとき自治体のスピーカーのスイッチが入り、六時を知らせる放送が鳴って、小さな鳩は夕闇の中を一斉に飛び立つ。

 公園の上空を舞う、小さな影。

 大きく群れとなって、弧を描く。

 小さくて、雄大で、自由なその姿。

 その様子を見ながら、眞衣子はあの公園の鳩たちが、童話の『灰かぶり』に出てくる鳩のように自分を助けてくれないものかと、そんな無為なことを頭の端で、だがほんの少しだけ、本気で思った。


 …………………………




 時槻雪乃のその記憶は、

 赤い。何もかもが赤い。床も、壁も、気に入っていたチェック柄のドアノブカバーも、見える限り部屋の中の全てが血で染まっていた。

 家のリビングが、殺戮の場に変わっていた。血は天井にまで飛び散って凄惨な模様を壁に描き出し、床の絨毯は凄まじい量の血を吸って沼地のようにぬかるみ、それだけの血を提供した人間二人の残骸が、手も足もばらばらに、子供の遊びで分解された人形のように自らの血の中に打ち捨てられていた。

 転がっている切り離された頭は、父と母のもの。

 その分解された人体の中に混じって、握りまで血で汚れた無数の刃物が、あまりにも生々しくおぞましいオブジェとして血まみれの床やテーブルの上に放り出されていた。

 のこぎり

 包丁。

 小刀。

 カッターナイフ。

 果ては鋏までが本来の用途とはかけ離れた────いや、〝それ〟ができることを誰もが考えないようにしている最悪の用途に使われて、その想像する限りにおいて最も恐ろしい姿を晒して、部屋の中に転がっていた。

 に使われて。

 血の中に転がる手足。芋虫のように落ちている指。

 それらを切り離した、ノコギリと包丁。凄惨な光景が広がる、家のリビングルーム。

 つい数時間前まで、普通に過ごしていたリビングルーム。そんな部屋の入り口で、濡れた絨毯をスリッパ越しに感じながら、学校から帰ってきた雪乃は呆然と立ち尽くしていた。目の前に広がる、恐るべき光景。しかし部屋にはそれだけではなく、正面の壁に両親の血を使って壁いっぱいに大きな魔法円のような奇怪な図形が描かれていて、そしてそれを背にするように椅子が置かれていて、そこに一人の少女が座っていた。


「……おかえり」


 少女は言って、それまで読んでいた、『黒魔術』と題された本を閉じた。

 そのページも、表紙も、それをめくる両の手も、周囲の光景と同じように、凄まじい血と脂で汚れていた。


「あ……お、お姉ちゃん…………?」


 記憶の中の雪乃が、震える声で言った。その呼びかけに、雪乃ととてもよく似た貌をした少女────二つ年上の姉であるときつきかぜは、彼女のトレードマークであるゴシックロリータの衣装を着て、氷の花のような微笑みを浮かべた。


「雪乃……知ってる? 火はね、純粋な〝痛み〟の精髄なの」


 風乃は言った。


「あの綺麗に輝いて揺らめく炎は、純粋な〝痛み〟でできているのよ」

「え……な、なに……?」

「火に炙られた紙が崩れて、木が黒く炭化するのは、〝痛み〟の顕現である〝火〟に触れてしまったことで、その痛みに耐えられなくなって死んでしまうから。だって火に触れれば、とても〝痛い〟でしょう?

 人はその感覚を〝熱い〟と言うけれど、それは間違いだわ。あれは〝痛み〟なのよ。火という特別な存在に目がくらんで、本質を見誤っているだけ。そして人の生も〝痛み〟よ。私も、あなたも、こんなにも暖かい。私たちは生きているから、その体はとても暖かい。でもそれは、緩やかな〝痛み〟なの。生の〝痛み〟は人間の体をゆっくりと燃やして、そしてその炎は、心を焼くのよ」


 くすくすと、風乃は笑う。雪乃は混乱し、呆然とする。


「だけど死んでしまえば、もう痛くない」


 風乃は、椅子から立ち上がる。


「お父さんもお母さんも、私と一緒に生きて、今までどれだけ痛かったのかしら? どれだけ心が、焼けたのかしら? どれだけ、私に触れることが熱かったのかしら?」

「…………!?」

「私が殺したお父さんとお母さんの痛みは、どのくらい強く私を焼くのかしら?」

「え……」

「私の今までの痛みは、どれくらい世界を焼くのかしら?」

「え……お姉ちゃ……」


「────私の痛みよ、世界を焼け────」


 風乃は微笑んで、ポケットからマッチ箱を取り出した。

 そして一本のマッチを箱から出して火をつけ、その炎を目の前にかざす。


「これは、小さな痛み」


 風乃は炎を見つめて、笑う。


「この小さな痛みを火種に、私の痛みは広がって世界を焼いてゆく」


 雪乃へと笑いかける。どこか目の前を見ていない、陶酔したような微笑み。


「私の痛みは、どんな色で燃えるのかしら?」

「ね、ねえ……」

「お父さんとお母さんの痛みは、どんな色で燃えるのかしら?」

「お姉ちゃん、なに言って……」

「さよなら、雪乃」


 風乃がにっこりと笑った瞬間、ぽとっ、火のともったマッチが、指先から床へと落ちた。そしてそのとき、雪乃はようやく初めて、この部屋に満ちているのが血の匂いではなく、それ以上に強い、染み込んだカーペットから立ち昇っている灯油の臭いであることを、突然はっきりと理解した。


 ………………



 神狩屋と蒼衣が、奥へと行ってしまった店内。

 過去の記憶に沈んでいた雪乃の背後に、突如として、その〝気配〟が立った。



『──────



「……!!」


 ぞくっ、と。

 周囲が暗くなるような冷たい感覚と共に、その笑みを含んだような〝声〟がささやく。

 雪乃を背後から覗き込むように立つ、黒い少女の冷たい〝気配〟。そしてその〝声〟を聞いた瞬間、雪乃は店のテーブルから勢いよく立ち上がると、カウンター奥の戸を開けて、急いで店の奥へと駆け込んだ。


「────ここお願い」

「雪乃さん!?」


 背後から颯姫の声が聞こえるが、無視して走る。それどころではない。店の書庫で暮らしている少女、夏木夢見子の抱えている〈断章〉が、今まさに発現したことを、雪乃の〈断章〉が知らせたのだ。

 夢見子の〈断章〉である、〈グランギニョルの索引ひき〉の発現。それは、それ自体が無視できない重大事項だ。それに〈断章〉の発現は、全てが制御されたものだとは限らない。特に夢見子のような、自我の弱い〈保持者〉は危険なのだ。


『〝予言〟かしら? それとも、とうとう〝恐怖劇グランギニヨル〟が暴発したのかしら?』


 くすくすと笑いながら、背後の〝気配〟が囁く。

 その嘲るような声も無視して、雪乃は靴を放り出すように脱ぎ捨て、薄い絨毯の敷かれた木造の廊下を、スカートを翻し、書庫へと向けて走った。

 悪夢の〈断章〉は、しばしば本人の意図を外れて暴発する。これによって悲惨な最期を迎えてしまう〈保持者〉も少なくないし、そして悲惨な最期を迎えてしまうのが、〈保持者〉本人だけだとは限らない。


「……っ!」


 急ぐ。夢見子は無事だろうか?

 雪乃の〈断章〉が、背後から囁く。


『さあ、急いで?』


 亡霊の声だ。雪乃にはその〈断章〉の一部として、三年前に死んだ、姉の亡霊が取りいているのだ。

 一人の人間が抱えることのできる〈断章〉はたった一つだけだが、その一つの〈断章〉が、複数の〈効果〉を有する場合がある。雪乃の場合がまさにそれだ。時槻風乃の亡霊は、雪乃の背後から狂った言葉を囁く邪魔な存在であり、反面〈泡〉の気配におそろしく敏感で、誰よりも早く〈泡禍〉や〈断章〉の発現と、そしてそれが内包している本質に気がつく。


 ゴシックロリータの衣装。腰よりも長く伸びた髪。

 雪乃そっくりの美貌。しかしその口元に浮かぶのは、雪乃の口元には決して浮かぶことのない、世にも楽しそうな、嘲りの笑み。


 その笑みが内包しているものが漏れ出しているような、深く暗い笑みを含んだ声で、風乃は言葉を囁く。それは狂った、そして雪乃をも狂わそうとしているかのような、だがそれゆえの狂った真理を含んだ、人と世界とを弄ぶような言葉。


『暴発なら、いいわねえ』


 風乃は笑った。


『狂った世界は焼くしかない。あなたの憎悪の火が放てるものね。嬉しい?』

「うるさいっ!」


 雪乃は低く叫ぶ。くすくす笑う風乃。

 雪乃は重厚な書庫の扉に取り付き、開け放った。


「無事!?」

「!?」


 途端、驚いたような顔が、雪乃を見返した。

 部屋の中には座り込んで震える夢見子を神狩屋が抱きしめ、その脇には蒼衣が青い顔をして立ち尽くしていて────そして気がついた時には風乃の気配は、雪乃の背後から完全に消え失せていた。


 …………………………



刊行シリーズ

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断章のグリム 完全版2 人魚姫の書影
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