断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル

四章 魔女と魔女の死 ①

 傷を負った騎士たちの目は見る。世界は泡に襲われている。

 世界は無数の泡によって、目には見えない穴だらけになっている。あらゆる物質をすり抜けて浮かび上がる泡が弾けると、世界に穴が開く。そして割れた泡から溢れ出した、火炎が、氷雪が、病毒が、狂気が、野獣が、蟲が、その他のありとあらゆる災厄が、周囲の世界と人々を侵すのだ。

 騎士たちは遍歴する。己の生まれ育ったこの世界、この地獄から、人々を救うため。

 あるいは己から大切なものを奪い、深い傷を与えた、見えない泡と、自分を殺すため。

 ねじくれた都市を。魔女の住む森を。血の臭いが漂う草原を。出口のない砂漠を。白骨が敷かれた道を。

 騎士たちは遍歴するのだ。いずれ己がたおれる時まで。


私家訳版『マリシャス・テイル』第二章




 白野蒼衣は、夢を見ていた。

 夢の中の蒼衣は、まだ入学して間もない頃の小学生だった。

 よく忍び込んで遊んでいた、近所の工場のしきに建っている、使われている様子がない倉庫の中。蒼衣はそこで、幼い頃によく遊んでいた幼馴染の女の子と一緒だった。

 、という名の女の子だ。

 ちょっと伸ばした髪が可愛い。蒼衣よりも少し背が高い。

 白いワンピースを着ている。病的に白いワンピース。汚れた天窓から光が入ってくる、薄暗い倉庫で、蒼衣と葉耶と、二人きり。

 突き固めた地面がむき出しの床に、どこからか持ってきた石灰で、三角形と円を組み合わせた図形が描いてある。葉耶が指示して描いたものだ。そして葉耶は、その大きいとは言えない図形の中に、ぴったりと二人でくっついて立つことを、蒼衣に強いていた。

 幼い蒼衣は素直に従って、二人は背中合わせになって、図形の中央に立っていた。

 背中に、葉耶の体温を感じていた。


「……これはね、呪いの力をあつめる儀式なんだよ」


 背中合わせの、葉耶が言った。


「この魔方陣がせかいじゅうの悪霊をあつめて、わたしの呪いの力を強くするの」


 そんな設定の、二人だけのごっこ遊び。

 葉耶が主導する、定番の遊び。


「本当のわたしは、すごいんだよ」


 葉耶は言う。


「パパも、ママも、ピアノの先生も、マキも、ちーも、サキも、ユカもリョーコもレオナも、わたしのことが嫌いなみんなを、あっというまに殺せる力をあつめるの。いままでのわたしじゃない、ほんとうのわたしの力。わたしがなにもできないと思ってるみんなを、みんなみんなみんな殺すの」


 夢の中の曖昧な視点が、背中合わせのはずの、葉耶の表情を見せる。


「ほんとうの、わたし」


 葉耶は笑っている。


「わたしは魔法使いなの。みんな呪いに殺されるの。みんながわたしを嫌わなければ、こんなことにならなかったのに。でももうおそい。みんな死ぬ。みんなわたしのことが嫌いだから、わたしもみんなが嫌い」


 笑っている。楽しそうに。


「わたしが嫌いなら、いくらでも嫌いになればいい」


 冷たい笑い。


「わたしはへいき」


 周りの何もかもを恨んで嫌って呪って、それらを残らず殺せる力を夢想して、本当に楽しそうに笑っている。


「そのかわり、みんな殺してやる」


 葉耶は言う。


「みんな、一人のこらず」


 この歪んだごっこ遊びに、高揚した声で。


「でも、蒼衣ちゃんだけは助けてあげる。この魔方陣の中にいるひとは、助かるんだよ」


 そして、葉耶は蒼衣に言う。


「そういう儀式なの。蒼衣ちゃんだけはたすかるの」

「……」


 背中合わせのまま手をつないで。

 葉耶は、無言のままの蒼衣に言う。


「蒼衣ちゃんだけは、わたしの味方」

「……」

「蒼衣ちゃんだけは、わたしの味方だよね」

「……」


 夢の光景は、そこで途切れる。


 …………………………




 そうしてまた、一夜が明けた。

 蒼衣が朝の自宅で、テレビに流れるニュースを眺めながら漫然と朝食をっていると、玄関のチャイムが鳴った。


「あら、こんな朝から」


 ぱたぱたとスリッパの音を立てて、母のけいがキッチンを出て行く。蒼衣はどうせ自分には関係のないことだろうと、ぼーっとした頭でテーブルについたまま、ご飯をしやくしてしるで流し込んでいた。

 テレビの音と、朝食の匂いが広がる朝のダイニング。

 部屋にたちこめる味噌汁の匂いと、アジの開きを焼いた、塩辛い脂の匂い。

 向かいの席には父の寡黙なそうが背広姿で座っていて、ご飯を食べながら傍らの新聞を引き寄せる。父のこういちはこうしてテーブルの上の新聞を読みながら朝食を食べるのが癖だが、最近はそのたびに母によって「行儀が悪い」と叱られて取り上げられている。


「む」


 新聞を読みながら味噌汁をすすり、眼鏡が曇って、眉をひそめる父。

 そんな父の表情をぼんやりと視界に入れながら、眠い蒼衣は黙々と口を動かす。

 静かな、朝の光景だ。蒼衣の心も静かなものだ。昨日もまた寝不足で、ついでにその眠気に任せてできるだけものを考えないようにしていた。

 しかし、だ。


「────蒼衣ー?」


 そんな蒼衣を呼んで、母が廊下からダイニングに顔を出した。何か困ったような、しかし微妙に嬉しそうな、変な笑顔を浮かべている。蒼衣はそれを何となく認識しながら疑問には思わず、寝ぼけたように目を細めたまま返事をする。


「んー……何?」

「お客さんよ。あなたに」

「ん?」


 まだ半分寝ている。


「誰?」

「一高の制服着た子」

「一高?」

「すっごい綺麗な女の子。誰かはお母さんの方が知りたいんだけどな……」

「……!」


 途端に好奇心に満ちた両親の視線が集中して。

 蒼衣はその瞬間、完全に目が覚めた。



「……家族相手にもあんまり目立つことしないのが信条なんだけどなあ、僕は」

「何か言った?」

「いや別に」


 時槻雪乃と並んで朝の道を歩きながら、蒼衣は小声でぼやく。

 まさか、いきなり家に来るとは思わなかった。何か聞きたげな雰囲気の両親を振り切って家を出てきた蒼衣は、帰宅した時のことを考えて今から憂鬱な気分になりながら、駅へと向かう雑踏の中を歩いていた。

 隣を歩く雪乃の横顔は例のごとく不機嫌で、背筋の伸びた、近寄りがたい雰囲気で足を進めている。その歩みに合わせて髪を束ねる黒いレースのリボンも、蒼衣の視界の端で不機嫌に揺れている。

 いつも蒼衣が通学するよりも、三十分ほど早い時間の通学路だ。

 慌てて朝食を胃に収め、玄関に立っていた雪乃の前に出た時、蒼衣は「早くない?」と当然訊ねた。それに対して雪乃から返って来たそっけない口調の答えは、「あなたを送ってから私が学校に行くんだから、早く出ないと私が遅刻するじゃない」という、この世のものではない戦いに身を捧げた人間にしては、妙に真っ当なものだった。

 蒼衣の送り迎え。要するに、同じ〈泡禍〉に遭遇すると予言された二人をできるだけ一緒に行動させて、蒼衣が単独で〈泡禍〉に遭遇してしまう危険を、できるだけ減らそうという作戦だった。

 昨日『神狩屋』から蒼衣が帰った後、作戦会議でそのように決まったらしい。

 そして雪乃は、何の予告もなしに蒼衣の家を訪問してきた。


「下校の時も迎えに行くことになったわ」


 雪乃は言った。えっ、と思ったが、全く何の計画もない話ではないらしく、蒼衣の通う典嶺高校は授業が四十五分の七時間制で、対する雪乃の通う市立第一高校は五十分の六時間制なので、雪乃の方が三十分ほど早く授業が終わるのだ。

 そんなわけで登下校に、いちれんたくしようのボディーガードがついた。しかしそう決まると、今まではうっかり考えもしなかったのだが、雪乃がいない時に〈泡禍〉に遭遇した時にはどうすればいいのか、急に気になった。


「……えーと。雪乃さんがいない時に何かあった時は、どうすればいい?」


 並んで歩く雪乃に、蒼衣は訊ねた。

 雪乃の答えは素っ気なかった。


「さあ?」

「さあ? って……」


 蒼衣が困った表情をすると、それを横目に見た雪乃は、溜息混じりに説明する。


「手の空いた〈騎士〉がいたら、応援に回してくれるって言ってたわ。もし、そうでない時に出くわしたら、自分で何とかして」

「自分で? えーと、を相手に?」

「そうよ」


 これでは説明されても、何も説明されていないのと変わらない。蒼衣が経験した現象は例のマンションでの出来事だけだが、あれでさえ雪乃に助けられなければ、どうなったか分からなかった。

 あの時、蒼衣を襲った女性は〈異形〉というものらしい。浮かび上がった〈悪夢〉によって肉体や精神が〝変質〟してしまった人間だというのだが、あれを自分だけでどうにかする自信は、蒼衣にはなかった。


「私は〈騎士〉で、今はあなたを守るのが役目だけど」


 雪乃は言う。


「それでも、〈泡禍〉と遭遇した時に一人で生き残れない〈保有者〉は、いま生き残ってもすぐ死ぬわ。諦めたら?」

「…………」


 蒼衣に対して、雪乃の態度は当たりがきつい。どうも戦う意志のない人間のことをいらたしく思っているらしいことが、言葉の端々に見て取れる。

 雪乃の言う〈騎士〉というのは、〈泡禍〉被害者の互助組織である〈騎士団〉の中でも、積極的に〈泡禍〉との戦いや後始末に身を投じるメンバーのことだ。その数は〈騎士団〉全体から見て決して多くはないという。ほとんどの〈泡禍〉の被害者は、自分の中にある悪夢の欠片を恐れながら、二度と〈泡禍〉の起こす恐ろしい現象と関わらずに済むことを願い、ひっそり生きることを選ぶからだ。

 組織を構成する小単位である〈ロッジ〉の数はそれなりにあるが、メンバーに〈騎士〉がいない〈ロッジ〉も多いらしい。ほとんどの被害者は自分を襲った恐怖をできるだけ早く忘れたくて逃げ隠れするのに必死で、また経験したいなどとは思わない。

 しかし、ごく一部の────割合にして二割ほどの人間が、正義感から、またはふくしゆう心のため、あるいは恐怖の記憶を克服するために、神の悪夢と戦って人々を助ける道を選ぶ。それぞれの理由のため、自分の心にとてつもない傷を残したはずの〈悪夢〉と積極的に関わり、その恐怖と危険の中に、その身を晒してゆく。

 それでもなお、〈騎士〉とその他のメンバーの死亡率は、二倍も違わないそうだ。

 悪夢の欠片である〈断章〉の再発率は、極めて高いという。その点でも雪乃の言うことは無慈悲なまでに正しい。

 蒼衣は溜息をつく。そして言う。


「……善処するよ」

「無駄ね」


 一蹴された。むっとするより苦笑いが出た。蒼衣は性格的にそんなところがある。あまり人の態度や言葉に、腹を立てたり嫌ったりするような感情が湧かないのだ。


「っ……!」


 その様子に、腹を立てたのは、むしろ雪乃の方だった。

 苦笑した蒼衣の表情を見ると、雪乃はあからさまに不機嫌の度合いを深めた。


「一度死んだ方がいいかもね、あなた」

「え、挑発したのはそっちなのに……」

「うるさい、殺すわよ。私はそういうヘラヘラした男が一番嫌い。役目じゃなかったら、一緒に歩いてないわ」


 そこまで言うか、と蒼衣の表情にはかえって笑いが出た。


「…………」


 雪乃はますます不機嫌になり、会話が途切れた。

 ガードレール越しの車道を大型トラックが走り抜け、排ガス混じりの風が、蒼衣と雪乃の髪を等しくなぶった。

 しばし無言で、二人は歩く。

 どんどん先に進んでゆく雪乃の背中。その後ろ頭で揺れる黒いレースのリボンに、蒼衣は声をかける。


「……雪乃さん。僕は普通の方がいいと思うよ」


 雪乃は振り返りもせずに、答えた。


「興味がないわ」

「せめて普通の振りをした方が、生きやすいと思うんだけど」

「楽な生き方なんか望んでないわ。私は戦って生きることに決めたの。憎悪を糧に、殺意を刃に、苦痛を火種に、私は生きるの」


 淡々とした、しかし強い言葉。


「でも、つらくはない? そんな生き方」

「なぜ?」

「ずっとその調子なら、あつれきも多いと思う。学校でいじめられたりしない?」

「まあね。だから何?」


 雪乃は肩越しに振り返って、冷たく細めた目を向ける。


「どうせいじめなんてのは、集団があれば必ず起こるつまらない現象だわ。そんな普通の現象なんかに、私の心は動かない」


 そして言う。


「だから、いくらでもやればいいわ。私が引き受けて、助かってる子が一人くらいはいるんじゃない?」

「……」


 蒼衣は想像を絶するその答えに、絶句した。

 きっと、彼女はクラスの女子から、和を乱す存在として敵視されているに違いない。この容貌で、この態度なのだから、容易に想像がつく。だが蒼衣は見ず知らずのクラスのことなどよりも、雪乃の心身の方を先に案じた。


「……大丈夫なの? それで」


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