断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル
四章 魔女と魔女の死 ②
「ええ、平気だわ」
きっぱりと、雪乃は答えた。
「何も感じない?」
「私が何を感じるわけ?」
「何を、って、悔しいとか、悲しいとか……」
「私が? 誰に対して?」
雪乃はその答えとして、微かに口元に冷笑を浮かべた。
「その気になったらいつでもまとめて殺せるような連中に、私がわざわざそんな感情を抱くと思う?」
雪乃は言い切った。
あ。とその時、蒼衣は思う。
なぜ自分はあのとき、この雪乃という少女について行ったのか。
なぜ自分はあのとき、この雪乃という少女と友達になることを承諾したのか。
なぜ自分はこんなに、この雪乃という少女のことが気にかかって仕方がないのか。
蒼衣は。その雪乃の言葉を聞き、その表情を見た瞬間──────脳裏に一人の少女の姿が重なって、その全ての疑問の理由を、このとき初めて完全に理解した。
3
学校が終わって、放課後。
白野蒼衣と時槻雪乃は、最初に二人が出会ったマンションから、ほど近い場所にある、ファミリーレストランにいた。
この辺りは〝予言〟を受けた雪乃が、二度にわたって〈泡禍〉と遭遇した地区だった。夏木夢見子の〈断章〉による〝予言〟を受けた人間は必ず〈泡禍〉と遭遇するので、雪乃はずっと手がかりもない状態で、適当に町を移動し続けたらしい。
要するに当てずっぽうだが、しかし外れたことのない〝予言〟の通り、やがて雪乃はこの地区で目指す〈泡禍〉に出遭った。それから集中的にこの地区を捜索し、次にあのマンションでの遭遇に至る。
今ここに蒼衣がいるのは、その探索行の続きだ。
蒼衣の安全のため、同じ〝予言〟を受けた二人をできるだけ一緒に行動させると決めはしたものの、それでも〈泡禍〉の捜索自体をやめるわけにはいかず、こうして雪乃の探索行に蒼衣も同行する形になったのだ。
今朝の迎えの時は二人きりだったが、今は一緒に田上颯姫もいた。放課後、目立ちたくないからと必死で頼み込んで、校門前ではなく駅で雪乃と合流した後、蒼衣はこの地区の最寄り駅に移動して、そこで颯姫と合流した。
そして驚いたことに昼食がまだだという颯姫のために、もう夜も間近な夕刻に、三人はこのファミリーレストランに立ち寄った。他人の記憶を消すという、〈騎士団〉の活動には不可欠な〈断章〉を持つ颯姫は、近隣の〈ロッジ〉から引っ張りだこになっていて、あちこちを忙しく駆け回っているらしい。
今日は特に忙しく、日中は県をいくつも
「あれ? 今日って平日だよね。颯姫ちゃん、学校は?」
「行ってませんよ。戸籍もないんです、私」
ドリアを頰張りながらそう答え、颯姫は笑った。
明らかに異常な事情と、それに反する屈託のない笑顔に、蒼衣はそれ以上を颯姫に訊くのを躊躇った。だがそもそも考えてみれば、時間の経過と共に記憶が失われてゆく人間が、まともに学校生活を送れるわけがないのだ。
現に颯姫は、幼少期の記憶をほとんど自身の〈断章〉に食い尽くされ、ほぼ全くと言っていいくらい持っていないという。比較的最近の記憶も、彼女の首から下がっている、紐のつけられた可愛らしいメモ帳が、辛うじて補っている状態だ。
想像するだに悲惨な状況だ。だが颯姫はそんな悲惨さなどおくびにも出さず、食事をしながら無邪気に目を細めている。
「んー、おいしいですね、これ」
「よくある普通のチキンドリアだけど……食べたことないの?」
「うーん、あるとは思うんですけど、覚えてないです。たいていの物は初めて食べる感じなので、美味しいですよ。数少ない、得してるところです」
本人にそのつもりはないだろうが、ここまで前向きなのも、見ていて痛々しい。辛いと思う感情さえ忘れているのではないだろうか? と思うほどだが、そんな蒼衣の感想をよそに、颯姫本人は、にこにこと笑顔で過ごしている。
「…………」
そして、それとは対照的に、にこりともせずに押し黙っているのが、雪乃だ。
蒼衣と同じく学校の制服姿の雪乃は、二人がけの椅子の傍らにスポーツバッグを置いて、その上に手を置いていた。
しかし雪乃のその所作は、自分の持ち物を管理しているというよりも、どこかそれに無意識に
ただバッグの中身は、ぬいぐるみのような優しいものではない。ゴシックの衣装だ。
制服姿で持っていても怪しまれないよう、スポーツバッグに詰め込んでいる。朝に会った時から雪乃はこのバッグを持っていたが、学校には持って行かず、途中で神狩屋の店に預け、放課後に再び回収しているらしい。
おしゃれや趣味ではない。これは戦闘服のようなものだと、彼女は言っていた。
必要だから着ているのだ。彼女ら〈泡禍〉の被害者が抱えている〈断章〉は、要するに物理現象を伴うトラウマと言うべきもので、フラッシュバックが命に関わるため、〈騎士団〉の旨とする互助の一員となった被害者たちは、皆必死でPTSDに対してそうするように抑制と治療に心を砕いているという。
つまり、トラウマを呼び起こさないように宥め、緩和し、忘れようとしている。
しかし、〈泡禍〉現象との闘争を選んだ〈騎士〉は、そういうわけにはいかない。超常現象である〈悪夢〉との闘争のためには、その悪夢の欠片がもたらす、有用な超常的側面が不可欠なのだ。
乱暴に言えば『トラウマが能力になる』と言ってもよい〈断章〉は、〈泡禍〉に対抗し得るほぼ唯一の武器なのだ。常に暴走の危険を抱えた、そのうえ〈神の悪夢〉に対してはあまりにも非力で
しかし〈断章〉はその性質上、〈保持者〉と呼ばれる所有者の精神状態に強く影響されるので、その制御のために、皆、様々なものに縋っている。〈騎士〉もそうだが、他の一般の〈保持者〉もこれらのノウハウを使って、自分の中の〈断章〉を抑制している者がいる。
たとえば雪乃の衣装。雪乃は〈断章〉と、ゴシックロリータの衣装を紐づけている。
物に紐づけるのは、多く使われているやり方だと言う。紐づけて、その物品を普段は手元に置かないことで、日常から〈断章〉を切り離す。
そして逆に、意識的に〈断章〉を使用するために、〈断章詩〉と呼ばれているキーワードを使う者も多いと言う。雪乃はこれも使っている。自分の〈断章〉の元になった、かつて自分が遭遇した〈泡禍〉にまつわる、何か一つの言葉を選び、それを呪文のように唱えることで、その時の記憶を呼び覚まし、自分の心の中から〈悪夢〉を
その言葉を日常で思い浮かべないことで、抑制の役にも立つ。
あるいは言葉ではなく行動なども、発現のキーにすることで、使用と抑制の助けにすることができる。
とはいえ、これをすれば安全というわけではなく、完璧ではないし、これらの条件反射を固定するためには当然ながら訓練と経験が要る。『衣装』と『道具』と〈断章詩〉。自発的に自分の中の恐怖を使おうとする〈騎士〉は、こういったものを積極的に使うことで、暴発すれば死にかねない〈断章〉と付き合い続けているのだ。
「………………」
雪乃は、そんな戦いのための服が入ったバッグに手を置き、じっと黙っている。
その動作と表情は、改めて見ても、やはり蒼衣が最初に抱いた、子供が安心のために触っている大きなぬいぐるみの印象が、そう遠くないものであることを感じさせた。
手元のコーヒーはとっくに空になって、カップももう、冷え切っている。
「雪乃さん。おかわり、頼もうか?」
「いらないわ」
訊ねる蒼衣に、雪乃はそっけなく答える。
蒼衣は困って小さく溜息をつく。ここにいるのが蒼衣でなければ、もう少し雪乃にも愛想があるのだろうか。
蒼衣の提案を断った雪乃は、もう氷の八割方が溶けた水のコップを手元に引き寄せて、バッグのポケットからプラスチック製の四角いケースを取り出した。それは黒地に、赤で英文と
「……薬?」
「何よ」
文句があるのかと言わんばかりに、雪乃が蒼衣を睨んだ。蒼衣は黙ったが、その錠剤が心配したようなものではなく、蒼衣も見たことのあるビタミンなどのサプリメントだったので、内心で安心していた。
雪乃はその錠剤の中からいくつか見繕って口に放り込み、結露で水浸しになったコップを口にやって、それを流し込んだ。その様子を見ながら、蒼衣はかつて、自分の見ている前で同じことをしていた少女のことを、脳裏に思い出していた。
あの女の子もそうだった。
蒼衣はテーブルに頰杖をついて雪乃の様子を眺めながら、この少女と様々な部分で重なる女の子のことを、ぼんやりと考えた。
────
その少女は白野蒼衣の幼少期の記憶の、実にその大半を占める存在だった。
蒼衣と葉耶とは幼馴染で、物心ついた時にはすでに、毎日のように一緒に遊んでいた。葉耶の方がひとつ年上。ごく近所で生まれた似た年の子供だったため、二人が赤ん坊の頃に、まずは親同士が仲良くなったのが二人が出会うきっかけだった。
葉耶は幼稚園に通う前に、すでに文学全集などを読んでいる、頭のいい女の子だった。
当時の蒼衣には理解できないくらい難しい本を読み、理解できないくらい難しい話をする葉耶を、蒼衣は純粋に尊敬し、好きだった。
しかし彼女は賢くはあったが、決して賢明とは言えなかった。その
同年代の子供は葉耶を異物とみなし、そのためすぐに幼稚園に行かなくなった。
さらには当時、不仲になり始めていたらしい葉耶の両親の関係は、子供の前では何とか取り繕おうという二人の努力によって辛うじて成り立っていたにもかかわらず、
葉耶は誰からも愛情を与えられない存在になり、そして葉耶自身も誰も彼もを憎んだ。そして幼い葉耶の聡明さは、ただこの世の不条理と悲劇と、悪意と愚劣さとを洞察する、そのためだけに費やされた。
たった五歳の葉耶は言った。
「にんげんは、滅びるべきだわ」
と。
周囲の人間全て、ひいては世界を、呪っていた幼い少女。
自分が異物であることを深く暗く理解していて、孤高で孤独で、そしてあまりにも、無力な少女。
そんな葉耶にとっての、唯一の遊び相手が、蒼衣だった。
幼い頃の蒼衣と葉耶は、毎日のように、たった二人だけで遊んでいた。
特に近所の町工場の敷地にある、ほとんど使われていない倉庫の壁の穴を知っていて、二人はそこからこっそりと中に忍び込み、そこでひっそりと遊ぶのが好きだった。そこは二人の小さな王国だった。誰の目も届かないこの小さな遊び場で、葉耶と蒼衣は色々なことをして遊んで、色々なことを語り合って過ごした。
葉耶は、何も分かっていない蒼衣をパートナーに、〝儀式ごっこ〟と呼んでいた、自作のおまじない遊びを好んでやった。
四歳にして立派な自傷癖と服薬習慣の持ち主だった葉耶は、蒼衣が遊び場に着いた時には体のどこかを傷つけた状態で待っていることが時々あって、そんな時は必ず暗い笑顔を浮かべて蒼衣を迎えて〝儀式ごっこ〟に蒼衣を誘うのだった。
薄暗い倉庫の、地面が剝き出しの床にしゃがみ込み、蒼衣に気がつくと安全カミソリを片手に立ち上がって嬉しそうに笑う。
そして新しく考えてきた〝儀式ごっこ〟の内容を、蒼衣に説明する。
彼女がそうする時は、たいてい家かどこかで嫌なことがあった時なのだと、蒼衣は何となく気づいていた。何があったのか、当時の葉耶は決して言わなかったので、詳しいことは今も分からないが、それでも彼女の家庭の事情を考えると、起こったであろうことのあらかたは想像がついた。
「ほんとうのわたしは、こんなのじゃないの」
葉耶は〝儀式ごっこ〟をするときには、口癖のようにそう言った。
周囲の人間、周囲の世界、そして無力な自分への
それらの儀式は、全て葉耶の呪いの発露だった。



