断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル
四章 魔女と魔女の死 ④
いや、だめだ。そんなことは考えない方がいい。仮に今そうではなかったからといって、どうだというのだろう。
どんな期待をしても、眞衣子には、とても勝ち目なんかないのだ。同性の眞衣子すら、見とれそうになる綺麗な子。あの姿を見てしまった以上、眞衣子程度ではどんな小さな期待すらも持ってはいけないと、どんな小さな期待も必ず破れるだろうと、眞衣子は本能的に理解できていた。
それなのに、どうしてこんな、期待してしまうような電話をしてくるのだろう。
眞衣子は上気した緊張と、同時に絶望的な思いに囚われながら、この幸せで不幸せな、電話の受け答えをしていた。
「……だ、大丈夫。何もないから」
『そっか』
「うん……」
『わかった、大丈夫ならいいんだ。安心した』
「うん」
本当につまらないやり取り。しかし無数の相反する感情が詰め込まれた、たったそれだけのやり取り。
『うん。急に電話して、ごめん』
「うん」
『それじゃ』
「うん、じゃあね……」
最後にそう言って、受話器を下ろす。
かちゃ、というプラスチックの触れ合う小さな音と共に、通話が途切れた。途端に、電話によって繫がっていた緊張に似た何かが心の中で切れて、ぼんやりとした明かりの照らす部屋で一人、胸に重りを
「………………はあ……」
スリッパを履いた自分の足を見下ろすほど俯いて、眞衣子は重く溜息をついた。
つま先の部分が開いているスリッパから、古い火傷の痕で肉が盛り上がった左足の指と、変形した爪が覗いているのが見えた。
そうだ、こんな私が好かれるわけがない。こんな自分が、蒼衣に好かれるわけがない。
身のほど知らずの夢を見るのは、やめないと。そう自分に言い聞かせながら、眞衣子は小さく、唇をかみ締める。
母親にすら、愛されなかった自分。
他人に愛されるなんて、夢のまた夢だ。
そうしていると、リビングの眞衣子を、寝室から痰のからんだかすれた声が呼んだ。
「眞衣……子!」
母の声。慌てて眞衣子は顔を上げた。眞衣子は電話に出るためここに来ていたが、母にフルーツを食べさせている途中に抜け出していたのだった。
足早に寝室に戻ると、骸骨のように瘦せた母の、そこだけは輝く目が眞衣子を睨んだ。眞衣子は身が
「……」
「………………電話、誰?」
俯いてベッド脇に戻り、テーブルに置かれた桃の器とスプーンに手を伸ばす眞衣子に、母のかすれた声が訊ねた。
「……黒磯の……あの子じゃ、ないでしょうね」
「違うよ。伯母さんの方。夏恵お姉ちゃんが家に帰ってこないから、知らないかって……」
眞衣子は答える。ふん、とそれを聞いた母親は、憎々しげに鼻で笑った。
「どうせ……どこかで
「……」
そんな人じゃない、と言いたかったが、言わなかった。言えば母が怒り出すことは、火を見るより明らかだったからだ。
眞衣子は何も言わずに、ベッド脇の椅子に座った。
そして母に食べさせるために、ガラスの器に入った缶詰の桃にスプーンを差し入れた。
つるりとした曲線を描く黄桃に、鈍く輝くスプーンを突き刺す。ぐるりと
今まで、何度自分がこうしている、この光景を見ただろう。
母は桃とプリンが好きだ。入院していた頃も、眞衣子はいつも家から持って行ったこのスプーンを使って、幾度となく同じように、桃やプリンを食べさせた。自分で食べればいいのに、母はこれらを食べる時は、必ず眞衣子に命じて食べさせる。まるで物語に出てくる女王が、使用人の服従を確かめているかのように。あるいは継母が、娘をいじめてこき使っているかのように。
それでも眞衣子は文句を言わずにその命令に従って、まるで親鳥が
すぐに死んでしまうだろう、傲慢な、老いた雛の口へと。
食べさせるほど、時が経つほど弱ってゆく、ただ死にゆく、雛の口へと。
そこから感謝の言葉など一度も出たことがない、いつも眞衣子と他の人間への、罵倒と恨みと妬みばかりが出る雛の口へと。
かつっ、と歯の当たる小さな音を立てて、母の乾いた唇がスプーンを
唇がシロップで
スプーンの桃を啄むようにして食べる、その時ばかりは嬉しそうに目元が歪む、母の表情を見ると、それでも眞衣子は嬉しかった。たとえ幼い眞衣子の足を、火のついた煙草で啄むようにして嬲った、母であってもだ。
これほど弱っても、いまだ眞衣子の中に暴君のように君臨している母。
今にも命が尽きようとしている、意地の悪い母。
「……」
母が口の中の桃を咀嚼している間、眞衣子は窓の外を見た。
空に鳩が飛んでいた。そういえば『灰かぶり』では、鳩は死んだ実母の化身だったな、と、ふと眞衣子はそんなことを、頭の隅で考えた。
二日後の金曜日の夕刻。
母は命と憎悪が尽きたように、突然に、ひっそりと死んだ。



