断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル
五章 葬送そして葬送 ①
許してほしい。
羊飼いによって肥沃な草原を導かれているはずの子羊らに、羊飼いは幻であり、草原は幻であり、本当の我らはいかなる庇護者もないままに目隠しをして奈落の穴が泡のように無数に口を開けた墓場を
許してほしい。
そうせずにはいられない、私の魂の弱さを。
私家訳版『マリシャス・テイル』第十五章
1
日曜日。街の葬儀社のセレモニーホールで、杜塚眞衣子の母、
白野蒼衣は、この夕刻近くに始まる葬儀に参列するために、学校の制服姿で、その会場までやって来ていた。
白黒の
同じくやって来ていた担任と出くわして、軽く挨拶をする。
そうして、そんな大人たちの間で話されている話に聞き耳を立てていると、眞衣子の家が母子家庭だったという事実が浮かび上がって、参列している人間が少ないのはそのせいだろうかと、納得気味の想像をしながら蒼衣は周囲を見回した。
学校関係で来ているのも、担任の佐藤先生と、自分だけ。
眞衣子の姿もすぐに見つかる。この会場で学校の制服を着ている若者は、蒼衣と眞衣子の二人だけだった。
「…………」
もちろん、蒼衣はただ葬式にやって来たわけではない
偵察だった。蒼衣たちは今、杜塚家のうちの誰かか、あるいはその周辺の誰かが、『灰かぶり』の泡が浮かび上がった〈潜有者〉ではないかと疑っていたのだった。
それはマンションで遭遇した〝目を刳り貫かれた女性〟が、眞衣子の従姉であると判明したのが発端だった。あの黒磯夏恵という〝女性〟は、生きたまま完全に〈泡禍〉に心身を喰われた成れの果てである〈異形〉と呼ばれる存在になっていたが────おおむね〈泡〉は、それを潜有している人間から物理的、あるいは精神的に近い所にいる者に、特に影響を与えやすいのだった。
あまりにも当然の話だが、原因からより近しい者が、より〈泡禍〉に巻き込まれやすい。
そして当然、その最悪の結果として、悪夢によってすっかり変質してしまい、〈異形〉の存在と化すのも、近しい人間だ。
そのため、いま最も〈潜有者〉として疑わしいのが、眞衣子とその家族だった。だから蒼衣たちは、昨日までの三日間、放課後になるたびに雪乃たちと合流して、眞衣子と彼女の住むマンション周辺を見張っていたのだった。
そして────この日。
蒼衣は、故人や眞衣子には悪いけれど、葬式にかこつけて、様子見にやって来た。
恐怖、憎悪、悲嘆などの負の感情は、容易に〈泡〉と親和して、触媒のように〈泡〉の悪夢を活性化させる。そのためこういった悲劇の現場は〈泡禍〉の舞台になりやすく、危険な場合が多いのだという。
セレモニーホールの近くには、当然ながら、雪乃と颯姫が密かに待機していた。神狩屋から偵察を頼まれた蒼衣は当然のように引き受けたが、もちろん蒼衣一人では何かあっても対処できないため、このようなバックアップが控える形になった。
不安はあまりなかった。三日見張って、何もなかったのだ。
なので、良くないとは思いつつ、状況に慣れつつあった。六日前にマンションで遭遇した現象への恐怖も、徐々に蒼衣の中から形を失い始めていた。
あの〈泡禍〉という名の途轍もない現象があった証拠は、今となっては神狩屋や雪乃たちとの会話と、そして毎日反復的に繰り返されている二人一緒の登下校と、放課後の〝活動〟だけしか残っていない。あれから一度も現象は起こっていない。いかに蒼衣が人の話を拒否するのが苦手といっても、何の不安も文句もなしにここに来るのを引き受けたのは、そのせいかもしれなかった。
いずれにせよ、蒼衣の仕事は眞衣子の様子を気にかけて、何かおかしなことが起こっていないか、調べることだ。そして眞衣子が安全か確かめること。まばらに黒い服を着た人が立っている小さなホールを、蒼衣はそれとなく見回す。
親戚の人間だろう、やや年齢層の高い男女がホールにはいるが、その雰囲気は葬式の場であることを考えても、奇妙によそよそしかった。それぞれ、ただでさえ少ない人数がさらに少人数で固まって、会場の中央に並べられたパイプ椅子に座るでもなく、ホールの隅などで立ち話をしていた。
祭壇の前にいる眞衣子に話しかける者も、ほとんどいない。
話しかけても挨拶だけのやりとりで、質素な祭壇に手を合わせる者もいるにはいるが、会場にやって来てすぐの、形だけの短いものだ。
それらを蒼衣は困惑して見ていた。蒼衣は葬式に慣れているわけではないし、目立つつもりもなかったので、周りと同じようにして紛れていようと思っていたのだ。だがこれでは所作の参考にならないし、紛れることもできない。困って立ち尽くしていると、近くで立ち話をしている年配の女性の声を潜めた会話が、聞こうとしたわけでもなく耳に入った。
「……あんなに落ち込んで可哀想にねえ……自分の娘もいじめてた、とんでもない人だったけど、それでも母親は母親だったのかしらねえ」
「!?」
その内容に、思わずぎょっとした。
いじめ!? それに気づかれないように、手持ち無沙汰な振りをして、しかしこっそりと息を潜めて、おばさんたちの会話に耳をそばだてた。
「意地の悪い人だったものね、あのお母さん」
「そうねえ……親戚中に嫌われて」
「眞衣子ちゃんを召使いみたいに扱って」
「それでも悲しいものなのねえ。いい子よねえ。眞衣子ちゃんは……」
蒼衣の存在に気づくことなく、会話は続けられる。
「…………!」
蒼衣は呆然とした。この会場の人の少なさと、このよそよそしい空気の正体を、蒼衣はようやく理解した。
眞衣子は大変な生活を送っていたらしい。親戚中に嫌われ、さらに娘を虐待する母親。そしてそんな母親の病床の世話を誰にも頼ることができずに、たった一人でしていた。
浮かび上がった構図に蒼衣はショックを受ける。そして
状況は決して同じではないが、連想で、シンデレラの身の上が頭をよぎった。
「……」
葬儀が始まるまで、まだ少しの時間があることを腕時計で確認した。
蒼衣はパイプ椅子の最前列へと、黙って近づいて行った。
祭壇の真正面に当たる椅子に、典嶺高校の制服を着た少女の背中があった。俯いて椅子に座り、話しかけられた時の最低限の挨拶を除いては、ほぼ微動だにしていない、ひどく沈んだ様子の眞衣子の背中。
そんな、参列者の誰もが遠慮するほどの重い空気をまとった眞衣子に近づくと、その下を向いた視界に少しでも入るであろう位置に立ち、蒼衣は躊躇いがちに声をかけた。いずれ話しかけるつもりでいた。だが今のつもりはなかった。
何をどうやって話すかも、まだ決めていなかった。
ただ蒼衣は、放っておくことができなくなったのだ。
「あの…………杜塚さん?」
「……し、白野君……?」
その呼びかけに、眞衣子が驚いたように顔を上げた。
蒼衣は、このたびはご愁傷様です、と、とりあえず型通りの挨拶をしようとしたが、その言葉はいきなり眞衣子の目から溢れ出した涙を見た瞬間に、どこかに行ってしまった。
「も、杜塚さん!?」
「……あ、う……ご、ごめんなさい……」
蒼衣の顔を見た瞬間に、ぼろぼろと泣き出した眞衣子は、慌てて眼鏡を外し、再び俯いてハンカチを目に当てた。泡を食った形の蒼衣は何もできず、内心ひどく混乱しながら、それを見守ることしかできなかった。
「あっ……あれ? ご、ごめんなさい、急に……」
眞衣子はハンカチで目を覆って、途切れ途切れに言い訳する。
「こんな、つもりじゃ…………なんか、止まらなくて……」
「あ……いや……大丈夫?」
気遣いながらも蒼衣は待つしかできない。そして少しの間、そうやって気まずく立っていたが、眞衣子は一分ほどで少し落ち着いて、濡れた目元のまま蒼衣を見上げた。
「ごめんなさい……ありがとう、来てくれて」
「うん……」
うなずく蒼衣。
「えーと…………君のお母さんのこと、周りの人が言ってるのが、少しだけ聞こえて。良くないと思ったけど、言っときたくて。本当だったら……大変だったね」
「うん……」
眞衣子は再び俯いて頷く。否定をしないところを見ると、おおむね周りの話は事実なのだろうと察せられた。
だが蒼衣は、同時にそれを聞いた瞬間の、眞衣子の悲しそうな表情も見逃さなかった。
蒼衣はそれで瞬時に察した。この会場の、眞衣子へのひそひそとした同情の中で、当の眞衣子が、何を思っていたか。
蒼衣は言った。
「でも……好きだったんだ? お母さんのこと」
「! ……う、うん!」
弾かれたように顔を上げる眞衣子。蒼衣は
「うん……わかる気がするよ。僕も何だかんだ言って家族は好きだから」
蒼衣は同調して言った。
「どんなことされても、見捨てたりはできないと思う。いや、周り中から嫌われてるなら、よけい自分だけは、見捨てられないよ」
「うん…………うん……!」
再び涙を流し、何度も頷く眞衣子。その様子を見ながら蒼衣は、自分の想像が間違っていなかったことを確信する。
「お母さん、どんな人だった?」
蒼衣は訊ねた。眞衣子はそんな蒼衣の問いに答えようとして何度もしゃくりあげ、そして蒼衣は答えられるようになるのを待った。
「意地悪……だった。みんなに、嫌われてた」
やがて、辛うじて答えられるようになると、眞衣子は途切れ途切れに口を開いた。
「そう……」
「ヒステリック、で、すぐに怒り出す人……だった。お金にだらしなくて……親戚や友達からお金借りて、返さずに、平気な顔してる人だった」
「……」
「嫉妬深くて、人の幸せにも嫉妬して、人の言うことを……何でも悪くとる人だった。人の善意なんか、ぜんぜん信じられない人だった。そんなだから、みんなお母さんを嫌ってた。そのせいで何もかも上手くいかなくて、お父さんが出て行ったあとは、すぐ癇癪おこして私の足に煙草とか、押し付けた。
外で嫌なことがあると、不機嫌になって帰ってきた。それで私が口答えすると、煙草。やることが気に入らないと、煙草。子供の頃は、そんな毎日だった。今も私の左足……ひどいことになってる」
「……」
想像以上の状況に、蒼衣は内心で冷や汗をかいた。先ほどは眞衣子にああ言ったものの、自分がそんな状況になった時、それでも親を好きでいられるかと問われると、さすがに自信がなかった。
「〝罰〟が、怖かった」
「……」
「お母さんの罰が、お母さんが、ずっと怖かった。でも周りには、そんな風に見てほしくなかった。そんなんじゃ、私まで見捨てたら、お母さん本当に一人ぼっちになっちゃう……」
「…………そう」
それだけ言うのが、蒼衣には精一杯だった。
壮絶な吐露以外の、何物でもなかった。蒼衣は、ハンカチを握り締めて俯いている眞衣子の肩に、そっと手を置いた。
「……」
驚いたように眞衣子の肩が、微かに震えた。



