断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル

六章 終わりの始まり ①

 私は神に祈った。神よ、救いたまえ。この世界をまもりたまえ。

 私は知ってしまった。父よ、貴方の創られた世界が、まるで〝神〟のように見える何者かによって歪められ、貴方の子らが理不尽に晒されています。けいけんな貴方の子らが、理不尽にその肉体を歪められ、その魂をもけがされ、死して貴方のもとに行くこともできない悲劇に見舞われています。恐るべき冒瀆が行われています。神よ。神よ。

 私は祈った。世界と、子羊らを救い給えと。

 だが、私はやがて気づいてしまった。この祈りに意味はないと。

 私は叫んだ。私の正気は失われた。

 なぜならば、気づいてしまったからだ。恐るべきことに、我らの祈る神さえも、かの〝神〟が夢に見たものに過ぎないということに。


私家訳版『マリシャス・テイル』第十四章




 ……杜塚眞衣子は、ひとつ確信したことがある。

 灰かぶりの二人のお姉さんは、きっと灰かぶりが靴をくしたあの階段で、目玉をつつき出されたのだ。

 行きに一回。帰りに一回。

 あの階段で、灰かぶりを蔑みの目で見ていた、その罪を裁かれて、その両の目をつつき出されたのだ。

 階段は、罪を裁かれる場だ。

 灰かぶりも、金の靴を片方失った。

 きっと、母親の間違いを正さなかった、その罪を裁かれて。今の眞衣子のように。片方の靴を失ったというのは、多分片足を失ったことのメタファーなのだろう。

 今の、眞衣子のように。


「………………」


 眞衣子が足を進めると、左足から、雨の日の小学生の靴のような音がした。

 右足は靴を履いていたが、左足は血塗れで、ぎ落とされて布のようにぶら下がった、肉と皮を引きずっていた。元々火傷でケロイド状だった足はもはや原型を留めておらず、濡れた雑巾を引きずるような音を立てて、眞衣子は足を進めていた。足を前に運ぶたびに、まだ足に繫がった肉が引きずられていた。

 その一歩ごとに、垂れ下がった肉が引っ張られるおぞましい感触が脚を駆け上がり、皮膚が引きちぎれる寸前の、引き攣った痛みが火を噴いた。


 ずる……ずる……


 と、削げ落ちて剝き出しの足の裏が、生肉を削る嫌な音を立てる。皮膚が剝かれて、剝き出しになった足の裏。その肉が地面を踏みしめる、足が破壊されてゆく激しい痛みを、意識で押し殺しながら、眞衣子は黙々と歩いていた。

 ずっと、ずっと、歩いていた。

 人に構われたくなかったからだ。その辺りに座り込みでもして、誰かに見つかって、この足の傷のことを何か言われるのが、心の底から面倒だったからだ。

 眞衣子は人の目から逃げるようにして、削がれた足の肉を引きずって、歩き続けた。実際には、この街をどう歩いたところで、人のいない場所になど向かえはしないのだが、それでも眞衣子はただそのために、ひたすらに道を歩いていた。

 眞衣子は左足の残骸を引きずって、歩く。

 その一歩ごとに、肉を引きずる音とは別に、かりっ、かりっ、という金属の擦れる音が、小さく空気に響く。


 かりっ……


 音は、眞衣子の右手に握られた金属が、壁を擦る音だった。

 眞衣子はその右手に持ったものの先端を、歩きながらずっと、側にある壁に触れさせていたのだった。

 それはスプーンだった。

 病床の母親に食事を与えていた、あの大振りのスプーンを手に持って、その先端を壁に触れさせながら、延々と歩いたのだ。

 その行為に、さしたる意味はない。たまたまそれを手に持っていたからに過ぎない。子供が手に持った棒切れを、無心に引きずるのに似ている。だが実際は、この行為に最も近いと言えるのは、鳩が地面に落ちているものを、餌もゴミも区別せずにつついて回る、その本能的な動作の方だった。

 ただそこにあるものに、嘴を触れさせる。


 かりっ……

 ずちゅっ……


 硬い音と、柔らかい音が一歩ごとに鳴る。

 二種類の不気味な音を立てながら、眞衣子は黙々と道を歩く。もう夜は明けていた。曇り気味の空は、すでに薄灰色の光に満たされていて、眞衣子が意識して選んで歩いている人気のない路地裏にも、柔らかい光が差し込んでいる。

 もう、早い者ならば学校に行っている時間だ。

 眞衣子は夜通し、こうして街を、彷徨うように歩き続けていた。

 皮膚という頑丈な表皮を失った足は、いとも簡単にアスファルトに削られて、眞衣子の足は肉と骨が露出していた。

 剝き出しになった足の肉と、その中を走る神経に、アスファルトの凹凸が直接突き刺さる生の痛み。そんな足から、まだ繫がっている皮を引きずるおぞましい感触も、発狂しそうに脳を焼いた。


「………………っ!!」


 しかし、涙を流し、歯を食いしばって歩く眞衣子の気分は────同時にとてもすがすがしく、晴れやかだった。

 と、眞衣子は感じていた。

 これはしよくざいの痛みだった。肉を削り、意識を削るこの凄まじい痛みと共に、自分を縛っていた罪が消えてなくなってゆく。自分の全身と、頭の中を貫くしやくねつの痛みの中で、自分の罪が燃え上がって、空に消えてゆくのを、はっきりと眞衣子は感じていた。

 罪を償うためには、痛みが必要だ。

 贖罪は、幸福への始まりだ。

 幸福へのきざはしである金の靴を失った時、灰かぶりはどれほどの痛みを感じただろうか?

 金の靴は、罪人には履くことができない。灰かぶりの二人の姉は、罪があったゆえに、金の靴を履くことができなかった。

 そしてかりそめにも金の靴を履くためには、贖罪として、つま先とかかとを切り落とさなければならなかった。

 二人は贖罪の激痛と共に、靴を履いたのだ。

 その苦痛は、二人にとって幸せなものだったに違いない。

 そう、今の、眞衣子のように。


 かりっ……

 ずる……


 眞衣子は幸せに満たされた、どこか引き攣った笑みを浮かべながら、うっすらとした光の満ちる路地を、延々と歩いていた。

 今の眞衣子には、目的地があった。

 学校だ。学校に行かなければならない。

 今の眞衣子の幸福を、確定的にするためには必要なものがあった。


 自分の罪は、浄化されつつある。

 ならば次は────他人の罪を、許してはいけない。


 それもまた罪だ。灰かぶりも継母の罪を正さなかったために、その美しさにも関わらず、最初のかいこうで王子を射止めていない。そして母親の罪を正さなかったがために、二人の姉も、足を切っただけでは足りなかった。

 今、こうして眞衣子が凄まじい苦痛を嚙み殺しながら歩き続けているのも、最後まで母の罪を正さなかった罪を償うためだ。

 眞衣子の親戚たちは、眞衣子の母を蔑みの目で見た罪で、目をつつき出されて死んだ。全員死んだ。眞衣子の目の前で。だから悟った。いなくなってしまった従姉の夏恵も、きっと同じ罪を裁かれて、どこかで死んでしまったに違いなかった。

 大好きだったお姉ちゃんなのに。

 涙が出る。しかし罪があったのだから、仕方がない。かわいそうな夏恵お姉ちゃん。

 きっと夏恵は、どこかで鳥に目玉を食べられて、死んでしまったに違いない。鳥に、罪を食べられて。償われなかった罪は、食べられることで浄化される。

 悪い豆を食べた鳥が、目玉を食べたのだから、それは悪いもの。

 灰かぶりの二人の姉は、両の目を鳥に食べられたことで、灰かぶりを蔑みの目で見た罪を浄化された。眞衣子の母も、鳥になったみんなに、悪いところを食べられて浄化された。伯父さんや伯母さんや親戚たちも、あの後、お互いの目玉を食べたのだろうか?

 ちゃんと、罪が浄化されただろうか? そうなっていればいいな、と眞衣子は思う。それはきっと、とても幸福で素晴らしいことなのだから。

 今の眞衣子が、そうであるように。

 だから眞衣子は、この自分の幸福が長く続くように、そしてたくさんの人が幸福になるように、行動しなければいけなかった。

 だから学校に行く。学校に行って責務を果たす。

 そのために、こうして歩いてきた。自分の背をむちで打ちながら巡礼した、中世キリスト教徒の一派のように、痛みに歯を食いしばって、贖罪の幸福を嚙み締めながら、眞衣子はここまでやって来た。

 そうして────


 かりっ……


 手にしたスプーンの先が、学校の裏門の、門柱に触れる。

 辿り着いた。眞衣子は裏門の前に立ち、自分の通う学校を見上げた。


「…………………………」


 そびえる学校が、お城のようだった。

 眞衣子は微笑む。そして裏門を開けて、かつん、とスプーンで門柵を叩き、敷地の中へと入り込む。

 そして────

 ぐちゃぐちゃと、削げた左足に構わず、ぶら下がった皮膚を引きずりながら、眞衣子は心から楽しそうに笑顔を浮かべて、地面に左足だけの血の足跡をつけながら、学校の敷地内を軽やかに走った。


「うふふふふふ……」


 骨が地面に触れる痛みと、おぞましい感触。思わず口元から笑いが漏れる。高揚。舞踏会に向かう灰かぶりも、こんな素晴らしい気分だったのだろうか?

 体が軽い。心が弾む。

 まず最初に目指したのは、箱だった。誰もいない下駄箱にやって来ると、眞衣子は自分の下駄箱を開けて上履きを取り出し、そして右足だけの革靴を脱いでちようめんにしまうと、取り出した上履きに、いつも登校した時にそうするように、履き替えた。

 まずは右。

 そして左。

 しかし肉と皮が剝がれて、布を引きずったような有様になった左足は、どうやって押し込もうとしても、きちんと上履きに収まらない。

 みるみる白い上履きは、どす黒い赤色に染まっていった。

 眞衣子は砂だらけの皮膚を一生懸命上履きに入れようとしたが、どうしても入らない。しかしすぐに納得した。


 靴が入らないということは────

 、贖罪が。


 躊躇いもしなかった。眞衣子はぼろぼろに引きずった、砂と血と脂に塗れた皮を摑むと、まだ脚と繫がったままのそれを、思い切り引っ張った。


「ぐぎっ!!」


 ぶつん、と皮は、巨大なを深く剝いてしまったように、まだ無事な脚の皮膚と肉をもぎ取って、太く生々しく千切れた。激痛と、悪寒。心臓と息が一瞬止まり、目の前が痛みで白くなって、くちはしから嫌な声が漏れた。

 みるみる新しい傷口から血が染み出したが、脚はきちんと上履きの中に収まった。

 満足した。立ち上がる。やらなければいけないのはこれからだ。舞踏会は、まだ始まっていないのだ。

 眞衣子は再び、走り出す。

 激痛が脳神経を焼き、何も考えられない。重いめいていのような感覚と、脳を焼く幸福が入り混じったものが、頭の中に満ちていた。身体だけが異様に軽くて、重たくて軽い、自分の感覚が面白くて、眞衣子は笑いながら、学校の敷地を入口に向けて走った。

 そして校舎の中に駆け込んだ。

 自分の為すべきことを為すために。

 一階の、まだ閉まっている事務室の脇を駆け抜ける。そして職員室のある二階へと続く階段を、びたびたと駆け上がる。


「!」


 そこでばったりと、出くわした。

 降りてきていた担任の佐藤先生と、階段の折り返しで、思い切り行き合った。

 二人とも立ち止まる。驚きで見開いた目。昨日とは違う、形の崩れたスーツを着た、冴えない風貌の佐藤先生が、目を丸くして眞衣子を見下ろしていた。


「杜────」


 佐藤先生が口にしかけた言葉が、その時、チャイムでかき消された。

 階段の狭い空間に、いっぱいの〝音〟が満ちた。朝練などで早朝に学校へやって来る、生徒たちのために朝一番に鳴らされる、一番最初のチャイムだった。

 鐘の音。そんな中で先生を見上げて、眞衣子は「なんて運命的なんだろう」と思った。

 思って眞衣子は、にこ、と微笑んだ。



 ぶちっ。



 そして手にしたスプーンを、先生の目に無造作に突き刺した。

 ずっと壁を擦っていたため、先端が刃物のように研がれたスプーンが、たやすくしたまぶたの皮膚を貫いて、目の中に潜り込んだ。


「──────────────────っ!!」


 先生の口が大きく開き、凄まじい悲鳴が、チャイムの音と混じって階段に響き渡った。それはもはや音だった。もはや声ではなく、チャイムの鐘の一部だった。


「……先生、救ってあげるね」


 眞衣子は微笑んだまま、スプーンを持った手首をひねった。

 刃物と化したスプーンはその曲線に沿って眼窩の中をぐるりと回り、眼球と眼窩の境にある膜と血管と神経を切断して、桃やプリンを切り出すようにして、先生の顔面から眼球を切り出した。

 悲鳴が大きくなり、瞼がスプーンの柄にねじられて千切れる。

 ゆっくりと、スプーンを引き抜く。


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