断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル
六章 終わりの始まり ②
ぐちゅ、
と濡れた音を立てて、血と共に白い塊が眼窩から引き抜かれた。
スプーンの上に載った眼球。眼球は意外と大きなものだというのを本で読んだことがあるので、その先入観があったのだが、思ったよりは小さかった。
これが先生の罪か、と眞衣子は思った。
先生は母の葬式の場で、母の眞衣子への行いを
気持ちは嬉しかった。
嬉しくて、悲しかった。
先生まで、母をそんな目で見る。
ならばその罪は、償われなければならない。
眞衣子は
母親のような慈愛の笑みを浮かべて、眞衣子は眼球の載ったスプーンを、自らの口へと近づけた。ぬめる眼球を、舌で
喉を塞ぐ大きさの、〝それ〟を飲み込む。その大きさに一瞬吐きそうになりながら飲み下すと、食道を徐々に下がってゆく感触が、ありありと感じられた。
罪を吞み込んだ。これで罪が浄化される。
目を押さえてうずくまる先生を見下ろす。先生も、この贖罪の痛みに、喜びを感じてくれているだろうか?
「もう少し我慢してね。先生」
眞衣子は、語りかけた。
「そうすれば……償いが終わって、幸せになれるから」
微笑んだ。血で汚れたスプーンを手に。
そして一歩、先生に近づいた時。
「────見つけたわ。〝異端の灰かぶり〟」
突然の声。
その声に、眞衣子がゆっくりと目を向けると、階段の下にシャープなゴシックロリータの衣装を着た少女が立って、美しくも鋭い表情で、眞衣子の方を見上げていた。
2
ようやく邂逅した〝彼女〟。
「同情はしないわ、〝シンデレラ〟」
時槻雪乃はその大人しそうな眼鏡の少女を見上げ、静かな声で、そう言った。
「あなたは被害者だけど、〝それ〟を導いたのはあなたの歪みよ。あなたにもいい所はたくさんあるんでしょうけど、それはあなたを灰にした後で、その中から探してあげる」
雪乃は言って、左手首の包帯に指をかけた。
『偽悪趣味ね』
くすくすと、背後に立った黒い気配が笑った。雪乃は「うるさい」と小さな声で呟き、その風乃の声を黙らせる。
階段の上の杜塚眞衣子は、きょとんとした表情で、雪乃を見ていた。その表情はいっそ無邪気と言っていいものだったが、姿は凄惨そのもので、何をどう
血塗れの手に握られたスプーンに、口の端を汚す血。
そして明らかに削げた左足首が履く、真っ赤に染まった血染めの上履き靴。
階段には、血で
そんな中に立つ、不思議そうな表情の眞衣子。
見上げる雪乃の横に、蒼衣が立った。
「杜塚さん……」
呻くように言ったその表情は、悲しみとも、苦しみともつかない表情だった。
何を言えばいいのか分からない様子で、その呼びかけの後に、続く言葉はない。
「白野君…………おはよう」
対する眞衣子は微かな笑顔と共に、控えめな挨拶をした。
蒼衣の表情が歪んだ。普通に学校で為されたならば、きっと本当にいつも通りの、彼女の挨拶なのに違いない。
しかし今ここでは、その普通さは醜悪なまでに異常の証明だった。
挨拶という日常の行為が、ただ強烈なまでに日常の風景を冒瀆していた。
『わかりやすい〈異端〉ね……あの子の〈食害〉で隔離しておいて良かったわね。ここはもう悪夢の中よ』
風乃が言った。
『放っておいたらレミングみたいに、生徒が続々と死にに登校して来てたところね。もう学校にいる子はどうしようもないし、私はそれでも面白いと思うけど』
くすくすと笑った。蒼衣が拳を握り締める。
「……どうにかならないのか?」
「無理ね」
『そう、無理』
雪乃の冷たい声と、風乃の流れるような声が続いた。
「悩めばそれだけ被害が増えるだけ。そうやって悩んで〈異端〉を助けようとして、自殺したくなるくらい悲惨なことになった例を山ほど知ってるわ」
『それで自殺した例もね』
「……」
蒼衣が、強く唇を嚙んだ。
「せめて、先生がターゲットになるって、もう少し早く気づいてたら……」
呻く蒼衣。昨日あの火葬場の前で、蒼衣はこの〈泡禍〉の持つ悪夢の概要を大雑把ながらも推理していたのだ。
この〈泡禍〉が、何を意味するかを。
しかしそこで高校生である雪乃と蒼衣は時間切れとなり、後は動ける大人に、眞衣子の捜索を引き継いだ。
だが人手も少なく、〈グランギニョルの索引ひき〉の予言を受けたわけでもない者が、闇雲に捜して見つかるわけもなかった。結果、今朝になって蒼衣がいま起こっている、この状況の可能性を思いつくまで、眞衣子はずっと見つかることなく行動していた。
眠れないまま夜を明かし、明け方になって、先生が次の被害者になる可能性を思いついた蒼衣が、慌ててみんなに連絡して駆けつけた、今の今まで。
「……もっと早く気づけたんだ。目を潰された今までの人が、人間じゃなくて、灰だったことに気がついた時に」
蒼衣は苦渋の表情で、言う。
「あのマンションの女性も、火葬場の親戚の人も、『鳩に目をつつき出された姉』なんかじゃなかったんだ。あれは全部、『灰の中から悪い豆をつつき出す』シーンだったんだ。
杜塚さんは、お母さんが悪い目で見られるのを嫌がってた。だから親戚の人たちは、悪い目をつつき出された。マンションで僕が会った従姉の人は、僕の目を抉ろうとしながら『罪』と言ってた。だからきっと、親戚の人と同じことだったんだと思う。あの人たちは二人の姉のような〝人間〟じゃなくて、ただの〝灰〟の配役だった。そして先生も杜塚さんのお母さんに疑いを持ってしまったことに、僕は今朝まで気づかなかった」
蒼衣は呻く。
「気づいてたらもっと早く、杜塚さんを見つけられたはずだったのに……」
目を閉じて、ぎり、と奥歯を嚙み締める蒼衣。
それでも、〈泡禍〉をある程度でも予想した人間を雪乃は初めて見たが、それを口にはしなかった。素直に認める気にもならなかったし、何より何の慰めにもならないことは、雪乃にも理解できたからだ。
「そう……白野君、夏恵お姉ちゃんに会ったんだね」
そんな蒼衣の話を聞いていた眞衣子が、どこか寂しげな微笑を浮かべて言った。
「夏恵お姉ちゃんも、やっぱり償いをしてたんだね」
「杜塚さ……」
「悲しいけど、仕方ないよ。でも白野君はすごいね、そんなことまで分かっちゃうんだね」
寂しげな、
「目は罪だってこと、誰にも言ってないのに、白野君には分かっちゃうんだね……あのお葬式の時も、白野君だけが本当のことを解ってくれたね。お母さんを悪く見られるのがどんなに嫌だったか、白野君だけが解ってくれた。お母さんを見捨てられない私を、白野君だけが解ってくれた」
「杜塚さん、違うんだ……」
「もっと早く、白野君と
眞衣子は、微笑む。
「そうすれば、私が白野君の隣にいられた?」
「違うんだ……僕は言わなかっただけで、君が言うような立派なことは……」
「あ……ごめんね、変なこと言って。それじゃ、あとでね。私は大事なお母さんのために、贖罪をさせなきゃいけないの」
眞衣子の視線が、足元の男性教師に向いた。
「そうじゃないと、私の罪になるから」
「杜塚さん、やめるんだ……!」
無駄だと知りつつ、搾り出すように言う蒼衣。
雪乃はその悲痛な声を、遮るように口を開いた。
「……話は終わった?」
そして言葉と同時に左腕の包帯を、引きちぎるように引っ張った。
包帯を留めていたクリップが弾け飛び、タイルの床で澄んだ音を立て、白い包帯がぞろりと解けた。腕の傷に張り付いていた包帯が引き剝がされて、ほとんど治まっていた痛みが、傷口と共に
雪乃は微かに眉根を寄せ、漏れ出した痛みが火を噴いた。
痛みは血のついた包帯を、瞬く間に発火させた。
炎の帯に変わった包帯は、すぐさま燃え尽きて宙に消えた。
ぢぎぢぎぢぎっ、と音を立てて、赤い柄のカッターナイフの刃を伸ばした。
「私は〈雪の女王〉。異端狩りの魔女」
雪乃は言った。
「三年前に、私は自分をそう定めた。あなたの存在は、私にとって、私たちにとって、苦痛以外の何者でもない」
『なぜなら私に似てるから』
くすくすと、流れるような声が続いた。
「だから燃やすわ。あなたを」
『私に似た、〈
「救ってあげる」
『救えなかった人たちの代わりに』
階段に満ちる閉塞した悪夢のような空気に、旋律のような言葉が流れる。雪乃以外には、いや、雪乃と蒼衣以外には、誰にも聞こえない旋律。
「……だから、始めましょう? 〝最終章〟を」
そして指揮者がタクトを振り上げるように、カッターナイフと左腕を、交差するように頭上に掲げて────
「〈私の痛みよ、世界を焼け〉!!」
叫んだ。〈断章詩〉を。瞬間、三年前の悪夢の赤い恐怖が雪乃の中に蘇り────直後に左腕に当てたカッターナイフを、思い切り横に引いた。
「……く!」
押し付けただけで微かな痛みがある薄い刃を引いた瞬間、びりっ、と鉄が肉の中の神経に触る、寒気に似たおぞましい痛みが電気のように全身に走った。鳥肌が立ち、身体が痙攣し、微かな悲鳴が、口から漏れた。
瞬間、
「きゃああああああああっ!!」
爆発的な炎と悲鳴が、薄暗かった階段に吹き上がった。
薄暗い階段が
その光景に、雪乃の脳裏に、自分の見た悪夢の光景が蘇る。両親を惨殺した部屋で、風乃が部屋に火を放ち、瞬く間に炎に覆いつくされた部屋と、そして笑みを浮かべたまま炎に吞まれる在りし日最後の風乃の姿。
「…………………………っ!」
雪乃の胸に凄まじい恐怖が蘇り、気が遠くなるほど血の気が引く。だがそれを誰にも悟られないよう、鳴りそうになる歯を食いしばり、腕に熱のように広がり始めた切り傷の痛みに、強く意識を集中した。
この集中が途切れれば、痛みと恐怖を我が身に汲み出すことをやめれば、この炎は即座に消えてなくなる。傷は肉から染み出した血でみるみるうちに埋まり、すぐに溢れ、無数の傷が走る白い腕に、つう、と赤い筋を描く。
ちら、と視線を流すと、蒼衣は強く両手を握り締めていた。
友人が今まさに焼き殺されようとしている様子を、凄まじい表情で見つめながら、蒼衣は血が出そうなほど唇を嚙み締めて、その光景に耐えていた。
できるだけ速やかに、終わらせてあげた方がいいだろう。
いかに〈断章〉に耐性のある〈異端〉とはいえ、このままならば、そうできる。雪乃はそう考えたが、その瞬間だった。周囲の〝空気〟が突如として、怖ろしい密度を持ったものに〝変質〟した。
ぞ、
と空気の温度が、身が竦むほど低下した。
眞衣子の怯えと恐怖によって、その心の奥底から汲み上げられた巨大な〈泡〉が、現実に溢れ出した、その気配だった。
炎と、申し訳程度の蛍光灯に照らされた階段の明度が、影が落ちたように下がった。
現実が、〈悪夢〉に塗り替えられた。
「……うあっ!!」
突如、雪乃は左足に凄まじい痛みを感じた。
同時に、腕の痛みへの意識の集中が霧散して、眞衣子を包んでいた炎が、吹き消されたように消失した。
バランスを失いしゃがみ込んだ。自分の左足が目に入った。そこにはコンクリートの床についていた、血で捺された眞衣子の靴跡が蠢いていて、その血から無数の〝鳩〟の一部が滅茶苦茶に生えて、雪乃のブーツを包み込むようにして爪を突き立てていた。
鋭い爪と嘴が、革製のブーツを
深く深く、爪が足の肉に突き刺さり、皮膚をも貫いたその痛みは骨まで達し、そして次々と増えていき、異形の〝鳩〟は、みるみるうちに増殖して雪乃の足を這い上がり始めた。
「雪乃さん!」
「……このっ!」
蒼衣が慌てて雪乃の名を叫び、雪乃はその生きた〝鳩〟の塊から、足を引き抜こうとして
爪はますます深く突き刺さり、足を痛みが引き裂き、血がブーツの中を濡らし始めた。
それから逃れようと身動きするほど、傷も痛みも広がった。



