断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル

六章 終わりの始まり ③

「雪乃さん、いま颯姫ちゃんが、応援を呼んでるから……!」


 蒼衣が、雪乃のそばにやって来る。


「血も人間の一部なんだ。これも〝灰〟なんだ」

「くっ……!」


 そういうことか、と雪乃はみする。最も致命的な〈泡禍〉の害である〈異形〉化は、それに耐性がある〈断章保持者〉の心身には大抵及ばない。ならば眞衣子という存在が孕む危険は手に持った凶器だけなので、離れてさえいれば危険は少ないのではないかと、そんなふうに考えていたのだ。

 甘かった。

 これは、雪乃たちが希望的観測をしないようにしているのとは、また違うものだった。

 なぜなら〈異端〉との戦いは、初めから勝てる確率の高くない、それでもやらないわけにはいかない、そういう種類のものだったからだ。そしてさらに言えば雪乃たちは希望的観測を意識して排除しているのではなく、ただ最悪の想像が身についているだけなのだ。


「く……」


 雪乃が顔をしかめていると、蒼衣は雪乃の脇にしゃがみ込んだ。


「手伝うよ」


 そして蒼衣は震える声でそう言うと、無数の羽と爪と頭が蠢く〝鳩〟に、震える手を伸ばして、雪乃を拘束している〝塊〟を摑んだ。途端に蒼衣の手に、〝塊〟が喰らいつく。みるみるうちに畸形じみた爪と頭が、無数に増殖しながら、蒼衣の腕を這い上がる。


「……うぐ!」

「何やってるの!?」


 呻く蒼衣。雪乃は自分でも驚くほどの、悲鳴に近い声を上げていた。


「あなたは離れてて! 殺し合いなのよ? これは!」

「先にそう言っててくれたら、やらなかったんだけどね……」


 痛みに顔を歪めながら、蒼衣は笑った。


「断るのは苦手だからね。でもそれでなくても、僕の先生を助けようとして一人で戦い始めた人は、ほっとけないよ……」

「……っ!」


 脂汗を浮かべて言う蒼衣に、雪乃は言葉を失った。確かに雪乃は、逃げろ隠れろといったことは蒼衣に言わなかった。どうせ事が始まれば何もできないだろうと、はっきり考えこそしなかったものの、思い込んでいた。

 それに、あの男性教師がさらに傷つけられそうになったのを見て攻撃したのは事実だが、例えそうでなかったとしても、どうせ戦いは一人で始めるつもりだった。そんなつまらないことを義理に感じて、蒼衣はこの〝鳩〟を引き剝がしにかかった。すでに〝鳩〟は、蒼衣の肘近くまで這い上がっていた。中身は仮にも頑丈なブーツに守られている雪乃の足の比ではないくらい、爪で傷つけられているはずだった。

 ぶちぶちと音がする。

 制服の袖が、そして皮膚が、肉が、引きちぎられる音。


「やめ……!」

「……ぐっ……!」


 雪乃の制止をよそに、蒼衣がその時、ひときわ大きく押し殺した気合いの声を上げた。その途端、足を引っ張られるような感覚がして、蒼衣の腕から聞こえていたのとは比較にならないほど大きく生々しくおぞましい、肉と皮と、羽と小骨を引き千切る凄まじい音が響いた。

 表面に吹き出すように生えていた〝鳩〟の羽毛が、瞬く間に血に染まった。千切れて大きく広がった傷口から、肉と内臓が露出した。飛び散る血。引き剝がされる肉。滅茶苦茶に生えた無数の〝鳩〟の頭部が、一斉に嘴を開いて、無数の甲高い悲鳴を上げた。


 ギャアアアアアアアア──────────ッ!


 蒼衣は構わず雪乃の足元から、〝鳩〟の畸形じみた肉の塊をむしった。


「………………っ!!」


 そして返り血を浴びた凄惨な姿で、その塊を投げ捨てた。蒼衣の制服の袖は、すでにいくつもの裂け目ができている。それを真っ赤に染める血が、返り血だけではないことは、一目見て分かった。


「このバカ……!」


 雪乃は蒼衣を罵倒したが、足を拘束する〝鳩〟の力が弱まったのを感じた瞬間、考えるより先に闘争本能が身体を動かした。思い切り足を引くと、爪が肉を引き裂く激痛と共に〝塊〟から足が抜け、雪乃はそのまま残りの〝鳩〟の残骸を足から引き毟り、立ち上がって、眞衣子のいる階段を睨みつけるようにして見上げた。


「!!」


 その周りに広がっていたのは、絶望的な光景だ。階段に点々とついていた、たくさんの眞衣子の足跡から、無数の異形の〝鳩〟が発生し、広がって、階段の全ての段をびっしりと覆い尽くし蠢いていたのだ。

 それらはあまりにも大量に、足跡だけではなく、眞衣子自身の左足から今まさに流れている血液からも、次々と涌いていた。涌いて、湧いて、ひしめくように蠢いて、階段だけでなく壁や天井を見る見るうちに覆い始め、雪乃の視界を白くおぞましく埋め尽くしていた。

 そして〝現象〟は、すでに眞衣子自身を蝕み始めていた。

 上着やスカートの裾が焼け焦げ、顔を押さえて、がたがたと恐怖に震えている眞衣子。そんな眞衣子の靴から露出している左足の傷から、あの火葬場で見た死体のように、無数の畸形じみた鳥の各部が滅茶苦茶な形で生え始めていた。

 さらに焼け焦げた袖から露出する手や頰の一部に、そこに負った火傷から、未発達な〝鳩〟の一部が涌き、焼けた皮膚の内側で蠢き始めている。負った火傷が〝鳩〟に変わり、だんだんとその輪郭が、人間から逸脱し始めていた。

 彼女は〈異端〉だ。もう人間とは呼べない。

 そして今や姿さえも、人間ではないものに変わろうとしていた。

 この状態を、もはや存在しないであろう、彼女の正気は望んだだろうか? 早く終わらせてやるのが慈悲だ。だが、全ての悪を喰らうであろうこの〝鳩の階段〟を見上げて、雪乃はその内心で、絶望的な気分になっていた。

 雪乃の〈断章〉は、単体の〈異形〉程度なら瞬く間に焼き尽くすが、弱点も多かった。

 集中できなければ使えない。

 一度に複数を標的にはできない。

 眞衣子だけなら刺し違えることができるかも知れないが、その後はどうにもならない。すでに生み出された〝鳩〟が、すでに出現してしまった〈悪夢〉の規模があまりにも大きく、おそらく十分も経たない間に〝鳩〟どもが足場を覆い尽くし、雪乃は抵抗の果てに喰われて死ぬだろう。


「………………!」


 心に絶望が広がった。

 だがその絶望は、あまりにも心が躍った。

 歪んだ破滅願望が、雪乃の口元に冷え切った笑みを広げた。


「……望むところよ、〝シンデレラ〟」


 すでに周囲が〝鳩〟に覆われている中で、雪乃は静かに、呟いた。


「雪乃さん……?」


 残った狭い空間で、ほとんど背中合わせに立っている蒼衣が、不安げな声を出した。


「あなたは、さっさと逃げて」


 雪乃は、それに言葉だけで答えた。


「私はあの〈異端〉を刺し違えてでも殺す。そうすればこれ以上〈悪夢〉は広がらないでしょうから、後で来た応援が残りの〝鳩〟は何とかしてくれるわ」


 蒼衣は答えない。雪乃も振り向かない。


「誰か、この〝シンデレラ〟を止める役が必要よ。応援は間に合わない。誰かがここで止めないと、すぐにこの〝階段〟は広がって、いま学校の中にいる人間が、残らず〝シンデレラのお姉さん〟になるわ」


 口だけはそんな正論を言いながら、しかし雪乃はすでに、階段の上にいる〝標的〟以外、視界に入れていなかった。

 雪乃の中にある〈泡禍〉への憎悪と、自分への憎悪。

 雪乃は自分から何もかも奪った〈泡禍〉の全てを憎むと同時に、自分の中にある〈泡禍〉の欠片である風乃も、そのとき何もできなかった自分も、全てを憎んでいた。

 雪乃にとって、敵と自分の死は等価だった。

 ただ敵への憎悪が、自分への憎悪よりも、ほんの少し勝っているに過ぎないのだ。

 殺せるなら、どちらが死んでも構わなかった。

 冷たい高揚が、雪乃の中に広がった。

 


「……何してるの!」


 しかし、いつまでも動かない蒼衣に怒りを感じ、雪乃は後ろを振り向いて、早く行くように怒鳴りつけようとしたのだが────しかし雪乃がそこに見たのは、竦んで動けない蒼衣でも逆らって動かない蒼衣でもなく、階段の上を見つめて目を見開き、そうはくな顔をしている蒼衣の姿だった。

 それは雪乃が、今までに幾度となく見たことのある顔。

 かつての〈泡禍〉の被害者が、自分のトラウマと直面してしまった時の顔。


「白野君!?」


 雪乃は叫んだ。

 だが、その瞬間────


 ぶちぶちぶちっ!


 革を引きちぎる凄まじい音と共に、左足のブーツが、あの爪が喰らいつく痛みが次々と足に突き刺さって────ブーツの中に溜まった雪乃の血から湧き出した凄まじい密度の〝鳩〟が、見る間に増殖して脚を駆け上がり、そしてその鋭い爪と嘴で雪乃の脇腹に喰らいついて、ごっそりと肉を抉り取った。




 白野君!?


 自分の名前を呼ぶろうばいした雪乃の声が、ひどく遠くで聞こえた。

 蒼衣がその〝光景〟を見た瞬間。見上げた階段の踊り場にいる、眞衣子の姿を見たその瞬間に、蒼衣は自分の心の奥底が凄まじい悲鳴を上げて、自分の心臓を何かに鷲摑みにされるのを感じた。


「──────────っ!?」


 声にもならない悲鳴を上げて、蒼衣は目を見開いたまま、その場から後ずさった。傷が引き攣るように痛む手で、自分の制服の胸を握り締めて、しかし自分の見ている光景から目を逸らすこともできず、瞬きもできずに、蒼衣はその光景をただ見つめていた。

 眞衣子が異形なものへと〝変質〟してゆく、その片鱗。

 それは蒼衣が昨日火葬場で残骸としてだけ見た光景が、目の前で進行してゆこうとしている姿だった。胸が潰されるようなその恐怖は、火葬場の時も感じた。しかし、ただ異常な光景への当たり前の恐怖だと思っていたその感覚は、その根源を全く異にするものだと、いま初めて蒼衣は気がついた。

 まさに〝変質〟してゆこうとしている、眞衣子。

 その光景を見た瞬間、蒼衣の意識の底に封じられていた、一つの光景の蓋が開いた。

 目の前の光景に、重なった。それは蒼衣の最も大きな原風景が、すでに〈神の悪夢〉というまないたに載せられていたのだと、気づいた瞬間だった。


「あ────」


 蒼衣はほぼ同じ光景を、かつて見ていた。

 蒼衣が自分の心を守るため、ずっと封じていた小学校の時の記憶だった。

 蒼衣は何もかも、思い出した。



 蒼衣が十歳の時、幼馴染の葉耶は死んだのだ。



 それは、蒼衣の覚えている、葉耶を見た最後のあの記憶。

 葉耶を拒絶してしまった、悔いても悔やみきれない、あの最後の出来事の後────実は惨劇は、

 あの日、葉耶との二人遊びに疑問を持つようになり、足が遠のいていた頃だった。学校から帰ってきた蒼衣は 一階にある蒼衣の部屋の窓にメモが挟まれているのを見つけ、その葉耶からの呼び出しに応じて、あの倉庫へと行ったのだ。

 すでにその頃、蒼衣と葉耶は意見ので何度も激突した後だった。

 そのせいで、蒼衣はその時、しばらくの間倉庫へは行っていなかった。

 外で会っても、当時二人は、ほとんど話などしない仲だった。葉耶がじようぜつに話をするのはただ唯一、秘密の倉庫で蒼衣といる時だけだった。

 約一週間ぶりの、〝素〟の葉耶との対面だった。

 その葉耶は、まず開口一番、蒼衣の裏切りをなじった。

 裏切りじゃないと、蒼衣はそのころ何度も葉耶に言っていた言葉を繰り返した。

 みんなを拒絶して、二人だけではいられない。それはおかしいことだ。そう蒼衣は言ったが、その説得も投げやりだった。

 その説得が届かないことを、蒼衣はすでに何度も繰り返された口論から学習していた。

 すでに蒼衣は、口論にんでいた。


「裏切り者!」


 対する葉耶は、必死だった。


「みんななんて知らない! みんなは本当のわたしを知らないもの!」


 葉耶はこの話題の時いつもそうするように、怒りに満ちた顔で涙を流し、叫んだ。


「みんななんか関係ない! わたしでも、蒼衣ちゃんでもない人なんか知らない!」

「…………」

「なんで蒼衣ちゃんはすぐ『みんな』って言うの? そんな顔も名前もないものの言うことが聞けるの?」

「…………」


 蒼衣は黙る。泣き叫ぶ女の子は、面倒以外の何ものでもない。


「二人はいっしょにいなきゃ駄目なのに!」


 葉耶は叫んだ。


「本当のわたしを知ってるのは蒼衣ちゃんだけで、本当の蒼衣ちゃんを知ってるのもわたしだけなのに! みんななんか関係ない! わたしと蒼衣ちゃんが離れちゃったら、わたし、どこで本当のわたしになればいいの……!?」


 それまで、蒼衣はずっと耐えていた。しかしその言葉は、最後の引き金になった。


「本当のぼくって、何だよ!」


 蒼衣は、叫び返していた。


「ぼくが学校でどんなふうに話して、笑ってるのか、見たことあるの? ないよね!? 何も知らないくせに!」



刊行シリーズ

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