断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル

六章 終わりの始まり ④

 引き金はそれだった。学校での蒼衣を葉耶は知らない。それなのにそれを否定されて、何も知らないくせにとカチンときたのだ。


「学校は楽しいよ? みんなといると面白いよ?」


 蒼衣は怒鳴った。


「それも本当のぼくだよ! ここだけなんかじゃない!」

「………………!!」


 今まで言ったことのない言葉だった。葉耶は凄まじくショックを受けた表情で、そこに立ち尽くした。


「それに、本当の葉耶ちゃんって、何だ?」


 蒼衣は言った。


「ここじゃない、他のところで見る葉耶ちゃんは、ぜんぜん人と話しないよね? それは本当の葉耶ちゃんじゃないの? 誰がそんなこと決めたんだよ?」

「………………!!」

「答えてよ、本当の君って、何だ?」


 そして、蒼衣の最後の言葉。


「君の好きにすればいい。君の本当の形は君しか知らない。誰も君の形を縛ってなんかない。変われ! 変われよ!」

「う……!!」


 葉耶は傷つき、崩れるように膝をつき、泣き始めて────

 そこまでだった。

 蒼衣の覚えている、正常な記憶は。


 その直後────葉耶は持っていたかみそりで、自分の頸を、深々と切り裂いたのだ。


 思い出した。

 子供の力で、あんな小さく薄い刃物で、一体どれほどの絶望を原動力にしたのか、葉耶は自分の首を大きく深く真一文字に切り開いたのだ。

 気管とけいどうみやくが深々と切り裂かれ、喉からひゅう、と笛のような音が漏れた。そして瞬く間に止まらない出血は土の床と葉耶の白い服を染め上げて、膝をついた状態の葉耶は、絶望に満ちた虚ろな表情で蒼衣を見つめた。


「…………………………!!」


 蒼衣はパニック状態で、言葉もなくそこに立ち尽くした。

 葉耶の顔はみるみるうちに蒼白になり、切り割られた喉の傷からは血と共に空気が漏れ、血の泡が噴き出した。

 明らかな〝死〟が、その顔に見て取れた。

 初めて見た、しかし明らかにそれと知れる、死にゆく人間の貌だった。

 つ、と涙が、血の気のなくなった頰を伝った。

 だがそれは、。蒼衣が呆然とその様子を見た、その瞬間────蒼衣の言う通り、何かになろうとして何にもなれなかった少女は、その〈悪夢〉のままに、突如として〝変質〟した。


 噴出した。

 命が。


 生えた。沸いた。歪んだ。変わった。蟲が、鳥が、猫が、犬が、この場所でそうなればいいと望んだ、ありとあらゆる生物が、彼女の血肉から発生した。

 沸騰するように葉耶の輪郭がなくなり、無数の生物が、葉耶のありとあらゆる場所から不完全な形で発生した。手が、口が、目が、羽が、あらゆる場所から発生し、あらゆるものの表面に、さらに折り重なって生み出された。

 そして異形の〝それら〟は、決して元の塊から独立することができずに、元の塊と癒合したまま、相互いに喰らい合った。互いに嚙みつき、引き裂き、引き千切って、それによってむき出しになった己の血肉に群がって、凄まじい勢いで貪り喰らった。

 凄まじい血の臭いと、獣の臭い、そして血と肉が蠢き貪られる音。それらが倉庫の中に、嵐のような勢いで広がって、空間と知覚を一杯にし、埋め尽くし、塗り潰した。

 嵐はそれほど長い時間ではなかった。蒼衣の主観よりも遥かに。

 蒼衣が見ている前で、葉耶だった塊はみるみる小さくなった。

 葉耶は、やがていくつもの蟲と生物の残骸となって。

 そしてちりとなって、跡形もなく消えてしまった。


「…………………………」


 その光景を、放心したように、蒼衣は見つめていた。

 いや、事実、放心していた。蒼衣は倉庫から夢遊状態で家に帰り、その後に葉耶が行方不明になったという騒ぎになっても、その事実を思い出すことはなかったのだ。


「…………!」


 蒼衣は思い出した。

 全てを。息ができないほどに。

 何もかもを、悟った。

 悟ったのだ。自分が〈神の悪夢〉という最悪の物語に、偶然という書き手によって、登場人物として初めから、名前を刻まれていたということをだ。


 …………………………



4


「う…………ぐ……」


 膝を突く、雪乃。

 息ができない。重い痛みがないに浸透するように、腹の中を絞り上げる。

 今までとは比べ物にならない深い傷に、雪乃は傷を押さえて呻く。足などよりも遙かに柔らかい脇腹は〝鳩〟に喰らいつかれた瞬間、やすやすと内部に侵入を許し、瞬く間に内臓に達する傷となって、雪乃に膝を突かせていた。

 傷口の痛みは熱かったが、そこから体温がみるみるうちに下がってゆくのを感じた。喰いつかれた瞬間、反射的に引き剝がしたのだが、その時に服の生地と腹部の肉が裂け、広がった傷から出血が止まらなかった。

 自分で傷を広げたようなものだが、この判断は間違っていないと雪乃は思う。何もしないでいたら今頃は腹の中をずたずたになるまで食い荒らされているか、さもなくば頭にまで這い上がった〝鳩〟によって、目玉をつつき出されていただろう。


「ぐ…………」


 だが、これから本当にそうなるのも、時間の問題だ。脇腹からの血は床にまで流れ出し、広がってゆくそれは、広がる端からおぞましい〝鳩〟を新たに生み出す、生きて拡大する孵卵器インキユベーターと化していた。

 そして息もろくにできないほどの苦痛は、すでに雪乃の〈断章〉を開くことを不可能にしていた。集中できるような傷でも状況でもなく、すでに雪乃は足元から群がってくる〝鳩〟を待つだけの、無力な〝灰〟と化していた。


「………………!」


 苦痛としさに歯を食いしばって、雪乃は階段を見上げる。

 このおぞましい現象の中心である眞衣子は、階段の踊り場に座り込み、徐々に〈異形〉の形を増やしながら、苦痛にがたがたと震えている。

 せめて立ち上がって雪乃を傲然と見下ろすならば、その顔を睨みつけてやれるのに。何重にも口惜しかった。この傷ついた小鳥のように震える敵も、そしてそれすら殺すことができない自分も。

 雪乃は〈雪の女王〉と呼ばれ、最も〈異端〉狩りに熱心な〈騎士〉の一人として、いくらかは知られている存在だ。初めはそのまま〈火の女王〉と呼ばれていたが、あまりにも雪乃が〈異端〉狩りにのめり込んだので、雪乃の名前にちなんで誰かが言った、「こんなことを続ければ自分の火で溶けてしまうぞ」という心配の言葉がきっかけなって、雪乃の異名は〈雪の女王〉になった。

 大きなお世話だと雪乃は思う。雪乃は感謝していたのだ。

 自分の抱える〈断章〉に。〈泡禍〉に遭った人間が負うトラウマに。背負った人間のほとんどがそれを〝力〟とは考えず、〝被害〟や〝傷〟だと思うため、それに配慮して〈能力アビリテイ〉ではなく〈効果エフエクト〉と呼ばれるようになったそれに、感謝していたのだ。

 これが本当に神の悪夢だと、雪乃は別に信じていないが、人の悪夢は確実だ。

 雪乃から全てを奪った、その〝目覚めて見る悪夢〟と戦うことができる、自分に宿った悪夢の欠片を、雪乃は憎むと同時に感謝していた。

 嫌うと同時に必要としていた。

 雪乃は復讐者だった。

 父を殺し、母を殺し、自分から何もかも奪った存在を殺すため。今や自分に宿っている、自らの姉と同様の存在を、見つけ次第殺すことが、雪乃にとっての、唯一の生きる意味であり糧だったのだ。


『……可哀想な雪乃。こんなにぼろぼろになって』


 雪乃が何よりも憎んでいる、しかし何よりも必要な半身が、くすくすと笑った。


『あなたじゃ無理よ。何もかも、私の借り物だもの。私がやってあげましょうか?』

「…………うるさい……っ!」


 唸るようにはねつける。自分でも分かっている。苦痛を炎に変える力も、他人を拒否する生き方も、こうして着ているゴシックの服も、全てが姉の借り物なのだ。

 これらは元々、どれもこれも、雪乃には全くない素養なのだ。

 異常な感性も、自傷癖も、ゴシック趣味も、三年前のあの事件まで、一つも雪乃は持っていなかったのだ。

 雪乃は風乃を継いだのだ。

 自らの意思で。家族を失った雪乃を引き取った伯父夫婦に、「まるで風乃が乗り移ったみたい」と言われるほど。

 全てを失った雪乃は、復讐のために姉の狂気を必要としたのだ。風乃の生き様をて、風乃の言葉を真似て、風乃の遺品の服を着て、雪乃はようやくこうして恐るべき〈悪夢〉の前に立てているのだ。

 だが。


 だが────この憎悪だけは、自分のものだ。


 深手を負い、膝を突き、傷を押さえてもなお右手から離していない、このカッターナイフの感触だけは、自分のものだ。

 借り物が使えないなら、もはや自分にはこれしかない。雪乃は歯を食いしばり、震える身体を押さえ込み、すでに下半身を覆い尽くそうとしていた〝鳩〟を引き千切って、痛みの中で立ち上がった。


『……雪乃、可哀想な雪乃。どうしてそんなに悲壮な生き方をしようとするの?』


 悲しそうに、しかし楽しそうに、風乃は言った。


『あなたがひとこと言ってくれれば、私はすぐにあのシンデレラも、あの鳩たちも、あなたが瞬きする間に、魔女狩りの火の中に投げ込んであげるのに』

「………………っ!」


 雪乃は無視して、剝き身のカッターナイフを片手に下げて足を進める。

 階段を覆い尽くす〝鳩〟の、いくつもの羽や首や足を踏み潰す感触が靴の裏に広がり、ポキポキという骨の折れる音と甲高い断末魔の悲鳴が、ブーツの下からいくつも上がる。しかしそれは瞬く間に新しい〝鳩〟の苗床となり、さらに加速度的に増殖して、引き剝がした端から足を覆って、引き止めるように爪を立てる。


「……うぐ!」


 悲鳴を押し殺してさらに階段を上ろうとするが、雪乃の足からは、足に喰いつく〝鳩〟を引き剝がす力が尽きてゆく。


『ほら、可哀想に。お姉ちゃんの言うことは聞いておくものよ?』


 愛おしげに風乃は言う。雪乃は悔しさに唇を嚙むが、もう先には進むことができない。認めなければならなかった。もう自分には、どうしようもないと。


『それに早くしないと、後ろのあの子も鳩の餌にされてしまうわよ?』


 駄目押し。

 苦痛に細められた目で、雪乃は後ろを振り返る。すでに蒼衣の足には〝鳩〟が這い上がり始めていたが、もはや痛みすら感じられないのか、搔き毟るように顔を覆ったまま、蒼衣はもう身動きもしない。


「…………!」

『もうあなたは、休んでいいのよ?』


 そして風乃は、雪乃に歌うように囁いた。



『だから────〈愚かで愛しい私の妹。あなたの身と心とその苦痛を、全て私に差し出してくれる?〉』



 囁かれるもう一つの〈断章詩〉。雪乃はその表情を、悔しさに歪め、目を閉じて────そして、応えた。


「〈〉」


 苦悩の末の、その宣言。

 唱えた。その瞬間、雪乃の左腕に無数に走った自傷の傷痕が、新しいものも古いものも構わず、全て、どっ、と一度に開いた。


「!」


 水入りの小さな風船が破裂したように、腕から鮮血が飛び散った。

 そして発された、全ての傷に口をつけて吸い上げられるような痛みに、雪乃は爪を立てるほど強く自分の左肩を抱き、身体をくの字に折って悲鳴を上げた。


「──────────うあああああああああっ!!」


 そしてその悲鳴の直後、雪乃から吸い上げた痛みを一度に発火させたように。

 この階段という〝場〟が、これまでとは比較にならない巨大な炎によって、一瞬にして吞み込まれた。


 世界が、白く、そして赤く染まった。


 この空間そのものが燃え上がったかのように錯覚するほどの、地獄のような火。しかしそれは間違っていた。空間が燃えたのではなく、壁も天井も、今や余さず埋め尽くさんとしていた無数の〝鳩〟が、その羽根の一片たりとも逃がされることなく、一度にえんに焼かれ、その炎が広がったのだ。

 薄暗かった階段が凄まじいまでの光に照らし出され、炎に投げ込まれた無数の〝鳩〟の断末魔の悲鳴が、一度に上がった。凄まじい数の〝鳩〟の頭が、同時に無秩序に叫ぶ絶叫に、閉鎖空間の空気が、耳をつんざいて震えた。

 病変じみたたらさで集積された鳩の部位が、炎の中であっという間に黒い小さな塊に変わり、すぐに原型を留めない灰へと崩れ、失われていった。絶叫を上げて暴れる〝鳩〟の羽から膨大な羽毛が飛び散って、それが凄まじい数の火の粉となって、階段の空間を満たした。天井に貼り付いた〝鳩〟が成れ果てた、膨大な火の粉が輝く滝となって降り注ぎ、また熱風で吹き上がって舞い踊った。だがそうして〝鳩〟が剝がれ落ちた後の床も天井も、プラスチックの照明も、焼けも溶けもしていなかった。

 炎は、〝鳩〟以外のものを、何一つ焼かなかった。

 美しくも凄惨な、超常の火刑の火。そしてそのまばゆい炎の中に、陽炎のように立つ、一人の影があった。

 その影は、どこからともなく現れた、一人の少女。


刊行シリーズ

断章のグリム 完全版6 いばら姫の書影
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