断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテル
終章 夢を壊す者の名
……階段の踊り場に、白野蒼衣は立ち尽くしていた。
何もかもが終わった踊り場。そこには焼け焦げのついたモスグリーンの制服だけが残り、それまであったはずの思いも、狂気も、悪夢も、そして人間も、そっくり欠落したように、この場所からなくなっていた。
蒼衣は、感情が
蒼衣は自分に好意を持ってくれている女の子に、自ら手を下したのだ。
もう手遅れだから、もっと酷いことにならないうちに。
感情が悲鳴を上げていたが、やらないわけにはいかなかった。それは葉耶の二の舞でしかなかったが、それが蒼衣の悪夢である以上、蒼衣が見なければならないのだ。
蒼衣は、自分を縛っていた鎖を知った。
知った。思い出した。葉耶と悪夢が、自分の全てを縛っていた。
人を拒絶するのが怖いのも、雪乃を放っておけないのも、全てはこの鎖のせい。
蒼衣の情動のうちの、とてつもない割合を、葉耶が縛っていた。葉耶と共有していた悪夢の記憶を、蒼衣は封じて暮らしていたが、その間も無意識はずっと、もう葉耶を見捨てるなと叫んでいたのだ。
今まで、それが普通だと信じていた、蒼衣を縛る鎖。
それこそが、蒼衣の〈断章〉。
「……そう、あなたは人の〈悪夢〉を理解できる。それがあなたの〈断章〉よ」
無言で立ち尽くす蒼衣に近づき、風乃が言った。
「あなたは人の抱える〈悪夢〉を理解し、共有してあげることさえできる。でも、ひとたびあなたが拒絶すれば、見捨てられた人は悪夢と共にいられなくなって、悪夢はその人にとって最も強い現実に還るわ。つまりその人、そのものに」
「………………」
「還った悪夢は、その人を〈
あなたが見捨ててしまった人間が破滅する。
それが、あなたが自分に閉じ込めていた〈悪夢〉よ。あなたは選ばないといけないわね。もう誰にも共感しないか、もう誰も見捨てないか。そのどちらかでしか、あなたの心に平穏は訪れないわ」
そう言うと風乃は蒼衣を背中から、きゅ、と抱きしめた。
「────可哀想な子」
「……!」
抱きしめられて、蒼衣は戸惑った。
「な、何ですか……?」
「前に言ったわよね? 私に身体があれば、抱きしめてあげたい、って」
言われてみれば、そんなことを言っていた気もする。とにかく蒼衣は風乃を引き離すと、階段に座り込んでいる雪乃に声をかけた。
「雪乃さん……大丈夫?」
「……あなたに心配してもらうほどじゃないわ」
素っ気ないが、ひどく力弱い答えが返ってきた。
「でも……」
「うるさいわね。ならそこで遊んでる姉さんを引っ込めさせて。傷が塞がらないわ」
出血のし過ぎで、ただでさえ白い肌が蒼白になっている。左腕は滅茶苦茶に切り刻まれたような有様で、全てが終わるのを待っていた颯姫が今は付き添い、ガーゼと包帯で、必死に傷を押さえていた。
「……」
蒼衣が風乃を見ると、風乃は微かに肩を竦めて、次の瞬間には風に溶けるようにして消えてしまった。途端に、階下で颯姫の慌てた声がする。風乃が消えるのと同時に、雪乃が力尽きたように、気を失っていた。
慌てて蒼衣も下に降りようとした時、背後から呼びかけられた。
「……白野」
佐藤先生だった。先生は踊り場に座り込んで壁に背中を預け、半ば固まりかけた血で汚れた手で片目を押さえ、もう片方の目で蒼衣を見ていた。
「先生……」
「お前たち、杜塚に何をやった?」
先生は、かすれた声で、詰問するように言った。
眞衣子に片目を抉り出された先生は、意識があるまま、この踊り場で、これまでの一部始終を見ていたのだった。
「先生……」
蒼衣はそこまで口にするものの、何を言えばいいのか分からなかった。
何も言えない蒼衣に、先生はさらに言った。
「ここで何があったのか……俺が何を見たのかは……正直わからん……」
「…………」
「だが杜塚は……あんなことをされなきゃいかんようなことを、したのか?」
その眞衣子に、つい先ほど片目を抉られたばかりだというのに、先生はひどく厳しい辛そうな表情で、蒼衣にそう問いかけた。
「………………」
やはり蒼衣は、何も言うことはできなかった。
そして、
「……颯姫ちゃん、頼む」
「はい」
様子を察して上がってきた颯姫にそう頼むと、颯姫が頷いて、右耳からイヤーウィスパーを外した。
その耳から瞬く間に、無数の赤い〝記憶を喰う蟲〟が現れる。そして何が起こっているのか見えていない先生の耳へと、〝蟲〟は列を成して入り込み、やがて先生の目が、落ちるように閉じられた。
………………
†
消毒液の臭いがする病室で、佐藤先生は目を覚ました。
「ん……ここは……どこだ?」
「病院です。先生」
ベッド脇に座っていた蒼衣は、呻くように言った先生に、そう答えた。
ガーゼと包帯で顔の半分が覆われた先生が、まだぼんやりとした様子の片目を向けた。
「病院? お前は……白野か」
頷く蒼衣。
「はい。学校で事故があったんです。先生は階段から落ちて……運悪く、ボールペンが目に刺さったんです」
蒼衣は言う。
「僕が第一発見者です。覚えてませんか?」
「階段……覚えてないな。本当か?」
「ええ、ひどい傷だったから、ショックで記憶が混乱してるのかもしれませんね。残念ですけど、片目は義眼にしないと駄目だそうです。ほんとに、お気の毒ですけど」
「義眼……そうか……」
溜息をつき、どこか遠くを見るような先生。
蒼衣はそれを見て、椅子から立ち上がって言う。
「じゃあ先生が目を覚ましたので、お医者さん呼んできます」
「そうか。すまんな、白野」
「いえ……」
蒼衣は病室を出る。病室を出ると、神狩屋と医者が廊下で話をしていた。相手の見事な白髪頭をした初老の医師は、最初に蒼衣がマンションで〈泡禍〉に巻き込まれた夜に、時間外だというのに蒼衣の目の検診をした医師だった。
「佐藤先生、目、覚ましました」
蒼衣が言うと、白髪の医師が「おう、そうか」と答えた。それに応じる形で、神狩屋が頭を下げた。
「じゃあよろしくお願いします。
「おう」
老医師は片手を上げて、病室に入って行った。その白衣の背中を見送った後、神狩屋は蒼衣に向き直って、「ごくろうさま」と疲れた笑顔を向けた。といっても大体神狩屋の笑顔はこんな感じだ。
少し離れたところには、制服姿の雪乃が不機嫌に立っていた。
目を引く容姿の上に表情が険しいので、まるで廊下を通る人を、片端から威嚇しているかのようになっている。
そんな雪乃に苦笑しつつ手を上げると、笑われたのを敏感に察したのか、眉を寄せて蒼衣たちの方へやって来た。しかし別に何か文句や抗議を言うわけでもなく、黙って蒼衣たちの脇へ大人しく立った。
「……今回は大変な目に遭わせてしまったね。白野君」
神狩屋は言った。
「いえ……いいんです」
「しかし『灰かぶり』が『鳥葬』に繫がるとは思わなかった。人の浄化を鳥に食べさせて行うなんて発想は、完全に鳥葬のものだよ」
学者気質の神狩屋が、今回の〈泡禍〉についての感想を口にした。神狩屋の労いに首を横に振った蒼衣だったが、その感想には、少し興味を引かれた。
「鳥葬、ですか……」
「うん。人の体を鳥に食べさせ、その魂を天に運んでもらおうというのが鳥葬だ。有名なところではチベットだね。人間の罪の浄化というのはやや西洋的だけど、『シンデレラ』でその二つが繫がるとなると、やはり人類の発想というのは近いものがあるのかも知れないね。
人を見る目に邪悪があるというのも、『邪視』という有名な考え方だ。人の悪意ある視線に魔が宿るという考え方だ。だから西洋では目の形をしたアクセサリを、邪視
と神狩屋はついつい興が乗りかかったところで雪乃に睨まれ、「おっと」と呟いて
「あー……そうだね。まずは白野君の活躍に、お礼を言わなければいけないね」
そして神狩屋は若白髪混じりの頭を搔いて、改めて蒼衣に向き直って言った。
「君があの〈泡禍〉の内容について気づいたおかげで、かなり被害が抑えられたと思う。ありがとう」
「いえ……」
照れでも謙遜でもない。本心での否定だった。蒼衣はこの事件では、むしろ「しくじった」という思いを抱えていた。
もっと早く、助けられたはずだと思っていた。
少なくとも病室にいる先生は、片目を失わずに済んだはずだった。
もっと早く、気づけたはずだった。
もっと上手いやりかたが、あったはず。
「……」
「ところで白野君」
暗い物思いに沈みかけたところで、神狩屋がふと、蒼衣に訊ねた。
「君の希望は聞いたけど、本当にそれでいいのかい?」
「あ、はい」
蒼衣は頷いた。全てが終わった後の学校で、応援の〈騎士〉が遅れて来た時、一緒に来ていた神狩屋に、蒼衣は希望を伝えていた。
「僕は、〈騎士〉になります」
蒼衣は、改めて言った。
「うん、僕達としても君のような〈断章〉を持っている子が〈騎士〉として活動してくれるのは助かるよ」
神狩屋は、微笑んで頷く。そして付け加えて言う。
「でも、できればのめり込まないようにね……雪乃君みたいに」
「大丈夫です」
雪乃が顔をしかめ、あさっての方向を見た。
蒼衣は、そっぽを向いた雪乃の顔を覗き込んで、訊ねた。
「聞いてる? 雪乃さん」
「…………うるさい、殺すわよ」
†
かくして白野蒼衣は、〈神の悪夢〉と戦う〈騎士〉となった。
蒼衣の〈断章〉とその異名は、その後〈
アリスの来訪した不思議の国が、その目覚めと共に壊れたように。
その〈断章〉は────



