竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る

一 ③

「あの声は藤潜だろう。奴なら腹にげんこつを撃ち込んでやりゃ一発さ。慣れりゃそこにいるお嬢さんだって行けるや」

「そうか、他の二人が暴れ始めたら呼んでくれ」

「うん、わかった」


 物騒な会話に竜胆の顔は青に染まり、立山が台所から出て行くのを慌てて追いかけようとした。しかしその腕を檜葉が強く引いた。


「立山の仕事の邪魔をしてはいけません、竜胆」

「人を殴りつけるのが仕事なものですか。しかもあんなに泣いてわめいている人を」


 竜胆が言い切らない内に、ぎゃっと短い悲鳴が廊下まで漏れて響いた。


「おかとときがやって来る時刻になると、ああやって商物の連中は仕事をしたくないと泣いて駄々を捏ねるから、わたくしどもがきゆうを据えてやるんです。立派な仕事ですよ」


 廊下はしんとして不気味なほど静かである。泣き声も悲鳴も何一つ聞こえない。


「おや、終わったかな。どうやらおれが出ていく必要はなさそうだ」


 竜胆が何か言おうとする前に、檜葉が言った。


「膳はこれでいいでしょう。おおむね調いました。あとは立山一人で何とかなりましょう。せわしなくて済みませんが、竜胆の仕事はたくさんあってつかえてるんです。そろそろ身支度に移りましょう」


 台所を出て長い廊下を歩く間に、竜胆は半ば不安げに吐き捨てた。


「ねえ、おかしいわ。お父様は本当にこんなお仕事をなさっていたの。泣き叫ぶ人を力で押さえつけて言う事を聞かせるような、そんな粗野なことをお父様がお許しになるとは思えないわ。お父様は大らかで優しい方でいらっしゃった。何かの間違いではなくって?」


 檜葉が案内したのは先代の竜胆の仕事部屋であった。

 六畳ほどの部屋にあったのは、こうに掛けられたかすりおり、灰で汚れた煙草たばこ盆、蓋の閉まり切っていない練歯磨など、生前のままの父親のあらゆる私物。これらを見た娘はすっかりしおらしくなり、言葉を失ってたちまち深い感傷の海へと沈んでいった。

 檜葉がたんの奥深くから濃い紫色の羽織を出し、娘の前に置く。


「これは先代の竜胆がお勤めのときに身に着けていたものです。お嬢様もお勤めの際はこれを着けてください。これさえ着ていれば、おかとときはお嬢様をこの屋敷の主だと認めて、とりあえずは手を出すことはしないでしょう」


 娘はこれを両手で受け取り、じっと見つめたのちにさめざめと泣いた。強気に光っていた瞳はもろく溶け、雪解け水のようにしとどに涙を滴らせている。娘は囁くような声でこう言った。


「わたしはお父様の死に目に会うことができなかった。こんなに急にお亡くなり遊ばすなんて、思ってもみなかった。大した孝行もできず、おそばについて差しあげることもできず、わたしはなんて薄情な娘でしょう。お父様がわたしにお残しになったのはこの深い紫の羽織だけ。本来ならばお父様のためにも立派にこのお勤めを果たさなければならないというのに、何も知らぬ上に疑ってばかりで」


 娘は肩を震わせはたはたと涙を落とした。娘の胸中を察した檜葉は慰めるように言う。


「御父様は心を鬼にしなければならない事情がおありだったのです。今は信じることができなくとも、御遺志を受け継ぐことで、いつかはその真意が理解できる日が来ましょう」


 娘は静かにうなずくと、羽織を恭しく押しいただいて、深い紫を身にまとった。その頃にはもう涙は渇き、気の強い瞳に戻っていた。


「わかりました。お父様のお勤め、このわたしが立派に果たしてみせます」


 そのときである。


「あ、いらしった」


 見ると檜葉が天井の方に手を伸ばしている。どこから入ってきたものか、うぐいすによく似た小鳥が天井をうようにぐるぐると飛んでいる。鶯色の小鳥は輪を次第に小さくして飛び続け、その輪が点となった頃、とうとう一枚のささの葉になって舞い落ちた。檜葉は二本の指でそれを挟む。そして葉の表を眺め、言った。


「変更なし、予定通り」


 檜葉は隣で不思議そうにしている竜胆に葉を見せた。


「これはおかとときがこちらにやって来る合図です。白樺と立山を迎えに遣りましょう。わたくしどもの持て成しはここから始まります。いつものように腕車を出してお迎えに上がるのです」


 檜葉は部屋を飛び出して廊下の奥に向かって大声で立山と白樺の名を呼んだ。すぐに返事があって、二人は腕車を出しに向かったらしかった。


「この仕舞屋にお客様をお呼びするの」

「そうです。表立ってできる商売ではございませんからかえって都合がいのです。さあわたくしどもはうたげの支度をしましょう」


 今宵の宴は大広間の宴会場で行うようである。檜葉と竜胆は四七畳の部屋に先程拵えた花の御膳を運び込み、それを次々と並べ始めた。特に檜葉は慣れた手つきでその動きには無駄がない。竜胆は初めて見る大広間が気になる様子で、下座に立てられた金のびようや硝子戸から見える庭園に目を奪われては、その度に檜葉に叱責されていた。

 竜胆が座布団を並べているとびやくだんの香りが漂い始めた。檜葉が香炉を設置したらしい。振り向いた頃には檜葉は金の屛風の裏から琴を引っ張り出すところであった。息をく間もない忙しなさである。


「竜胆は琴はお弾きになりますか」

「ええ、わたし鳴り物は大概弾けてよ」

「それは頼もしいことです」


 そう言うと檜葉は矢継ぎ早に大広間を抜け出していった。

 白檀の香りが大広間全体に広がった頃、商物と呼ばれる例の美しい三人の男が檜葉に連れられやって来た。三人とも憎まれ口をたたいていた昼とは打って変わって、顔色が悪く大人しい。愚図愚図して宴会場に入りたがらないのを檜葉が後ろから蹴飛ばして強引に中に入れた。中には首根っこを摑まれて強引に中に転がされたのもいる。


「おい木偶の坊ども。自分の役目はわかっているな」


 檜葉の大きく開かれた目がぎらりと光ると、三人は観念した様子で大人しく金の屛風の前に正座した。いずれも浮かぬ陰鬱な面持ちである。三人のための座布団はここにはなかった。


「ねえ、さっきから乱暴すぎるんじゃなくって」


 竜胆が檜葉をとがめた。途端に檜葉の大きな目が険しく光る。


「そんなぬるいことじきに言っていられなくなりますよ」


 檜葉は今度は竜胆を玄関まで連れて行き、上框の手前で座った。おかとときを出迎えるための準備である。


「いいですか、間もなくおかとときがこの屋敷にやって来ます。この先どんなことが起きても、絶対に声をあげてはいけません。おかとときの興を殺ぐことだけは絶対にしてはなりません。わたくしの隣で毅然としていてください。よござんすね」


 その内に砂利を踏みしめる車輪の音がして立山と白樺の声が響いた。


「お着きい」


 檜葉の頰が緊張でぴんと張るのを私たちは見逃さなかった。しかし次に見たときには彼は顔からはみ出んばかりのびた笑みを浮かべ、さつそうと立ち上がって玄関の戸を引いていた。


「さあようこそいらっしゃいました。どうぞどうぞおあがりくださいまし」


 たたりでも始まるかのような大声である。竜胆は檜葉に言われたとおり黙って彼の隣に立っていた。檜葉に倣い笑みを浮かべようかと思ったが、現れた異形の客人を眼前にすると途端に動くことができなくなった。

 静かに、尾を引くようにして、夜の闇とは違う色の濃い闇がいくつもいくつも車から出てきたのである。それはぬっと現れては人の形になるようだけれども、じっと見ればもやとも雲ともなって形が定まらない。伸びたり縮んだりを繰り返すが、目を凝らして見ると背に冷たいものがぞわぞわと這いまわるので長く見ることはかなわなかった。寒気とおぞが押し寄せるのに耐えつつ盗み見るようにしてみると、こんなのがざっと三十はいる。腕車は二人乗りの珍しいもの、二台あるといえども数が合わない。その事実も不愉快である。


刊行シリーズ

八千草の兄妹 言の葉は川に流れるの書影
竜胆の乙女 わたしの中で永久に光るの書影