竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る

二 ②

 藤潜が笑うと、惜菫と八十椿もどっと笑った。秘密を共有した者特有の嫌な笑い方なので、竜胆は怯んで少し身構えた。すると、大広間の片付けにいそしんでいた立山が手を止めて叫んだ。


「おい、あまりお嬢さんを困らせるな。新しい主だぞ、わきまえろ」


 藤潜は立山の方を振り向きもせず、分かっていると言わんばかりに手をひらひらさせてそれを遮った。立山は軽く舌打ちをして座布団を集める作業に戻った。


「俺たちだってこんな非人道的な仕事は即刻やめたいところだがね、やめられない理由があるのさ。お嬢さん、俺の左の足の裏、ちょっと見て御覧よ」


 藤潜はわざと左の足裏が見えるように胡坐あぐらをかいた。竜胆は言われた通りそこを注視する。すると藤潜のちょうど踵の裏側部分に引っかき傷のような赤い傷がいくつもいくつも刻まれており、まるで花の開いたような形になっているのが見えた。


「これはおかとときの所有のあかしだ。俺はね、一度おかとときに向こう側に引かれて行ったんだよ。しかし先代の竜胆に引き取られてこの屋敷に連れて来られたんだ。一生おかとときの相手をしなきゃいけないところを、数日に一遍、夜の間だけ相手にするだけで良くなったんだ。しかしここの屋敷を出て行ったら、俺はたちまち元の持ち主のおかとときに連れ戻されてしまうだろう。そんなのは真っ平ごめんだ。本当の地獄よりも作り物の温い地獄の方がずっとましってものじゃないか」


 藤潜はそう言って他の二人に目配せした。惜菫も八十椿も気まずそうに視線をらし、椀に口をつけている。惜菫は白い足を崩して投げ出していたが、なるほどその左足裏の踵部分にはやはり似たような花の徴が刻まれていた。しかし藤潜の模様とは少し違っているようである。


「秘密主義のお父様のお仕事を初めて見て、そりゃあ驚いたろうね。その様子じゃ軽蔑もしただろう。だけど人助けみたいなものだと思って、ここはひとつ割り切って務めてくれよ」


 人助けと聞いて竜胆の表情が途端に曇った。おかとときの来る夕刻になって仕事が嫌だと言って泣いて喚いていた藤潜の姿は記憶に新しい。


「人助けであろうとも、泣いて嫌がる人に酷いことなんてできないわ……」

「それでも心を鬼にしてやっておくれよ。俺たちがいくら泣いて嫌がったって手を緩めちゃだめだぜ。向こうの機嫌を損ねちまったら俺たち全員殺されるかもしれない。幸い先代の交渉で、宴で生じた傷は必ず治ることになっているから、お嬢さんが心配することは何もないよ」


 藤潜はそのままぐいと薬入りの白湯を飲み切ると乱暴に椀を盆に置いて、昨晩の花の膳を片付けている立山に声を掛けた。


「今日買い出し行くかい。行くんだったら煙草頼む」


 立山は背を向けたまま返事をした。惜菫と八十椿はまだ白湯を飲み切らない。藤潜は姿勢を正して竜胆の前に座り直した。

 深い睫毛で縁取られた藤潜の迫力ある瞳が竜胆を捕まえた。


「お嬢さんは虫捕りをしたことがあるかい」

「得意よ。飛蝗ばつたせみ蜻蛉とんぼなんかよく捕まえて遊んだものだわ」

「では、その飛蝗の足をいで遊んだことはあるかい。蟬の身体を割って内側が空洞であることに感銘を受けたことや、蜻蛉の両の羽を引っ張って肉が飛び散るのを喜んだことはあったかい」


 竜胆は返事をしなかった。青白い顔からさらに色が消え失せた。そんな残酷な遊びは一度たりともやったことがないと言いたげである。


「お嬢さんに足りないのはそういうところさ。そういう経験がないのならこれから積極的に積んでいかなきゃならないよ」


 それから藤潜は袖をまくって浅黒い腕を竜胆の前に差し出した。


「これは練習だ。俺の手を血が出るほど強くつねってみな」


 竜胆は虚をかれて息を吞んだ。ちらりと藤潜の顔を見たが、さっきまでひようひようとしていたのがうそのように今は真剣な目をしている。厳しいまなしだった。

 それでも手荒なことはしたくないらしい竜胆は、血管の浮き出た浅黒い腕に手を伸ばすことをしなかった。唇を真一文字にきつく結び、じっとしている。

 すると竜胆の後ろで、惜菫がはっきりと言った。


「竜胆、やってください。これはあなたのお勤めに必要なことです」


 竜胆が振り向くとやはり惜菫も同様に真剣な目をしている。白く曇った眼鏡の向こうに宝石のような目が鋭く光っていた。

 竜胆は強引に背を押された人のように、恐る恐る藤潜の腕に手を伸ばして指先でそっとその皮膚に触れた。


「だめだそんなんじゃ。それは抓るっていうんじゃなく摘まむっていうんだ」


 藤潜が厳しくしつした。竜胆はそれに反応するようにぐっと力を込めた。浅黒い皮膚は娘に摘ままれて上部に引っ張られる。藤潜の皮膚はよく伸びた。しかしいくら引っ張っても竜胆が爪を立てないものだから血は出ない。

 竜胆があまり上に引っ張るので、まるで藤潜の腕から山が生えてきたような形になっている。私がそう思ったとき、ふと竜胆が言った。


「田子の浦にうちでて見ればしろたえたかに雪は降りつつ」


 なるほど藤潜の伸びた皮膚は富士山の姿に見えなくもない。私は思わず感心したが、そう感じたのは私だけで藤潜や惜菫はうんざりしたように顔をしかめている。


「和歌の引用で化して逃げたか。まったく二代目の竜胆はとんだ意気地なしだよ」


 その頃八十椿がやっと白湯を飲み終えた。もうここにいる理由のない商物の三人は連れ立って大広間を出て行く。立山とすれ違いざまに藤潜が言った。


「煙草忘れないでくれよ」

「うるせえ、さっさと行け。日が昇ると途端に調子づきやがって」


 立山が威嚇するように箒の柄で柱を叩くと、三人はげらげら笑いながら廊下を歩いて行った。


 大広間の掃除を終えてから下男二人と竜胆は膳や食器を持って廊下に出た。惜菫の嘔吐した花器は台所へは持っていけないので一旦置いておくよう白樺が言った。後で井戸で処理しておくと竜胆が言うと、白樺は今日はいいと止めた。一睡もしていないのだから自分たちに任せて休むべきだと白樺は付け加えたが、それは立山も私も同じ考えであった。

 長い廊下を私たちは歩いていた。娘は紫の羽織を胸に抱いていた。それは一晩経って皺と折り目でくたびれており、今の娘の疲れた表情とよく似ている。娘がつぶやくように言った。


「お父様は、あの三人をおかとときから保護するためにわたしをこの屋敷にお呼びになったのかしら」


 どうやら娘は父親が人助けのためにこういった非道なことをしていると思いたがっているようだった。肯定する言葉を待つような空白の間ができた。しかし娘の問いに答える者は誰もいなかった。

 ややあって白樺が遠慮がちに口を開いた。露出した右目はきょろきょろと動いている。


「お嬢さんはこの屋敷について知らないことがあまりにも多過ぎやしませんか」

「いやだわ、お前までそう言うの。昨日は八十椿にそう言われたし、さっきも藤潜に似たようなことを言われたわ。そうよ、わたしはお父様から何も聞かされていなくってよ」


 少しおどけた口調で娘が言った。険悪な空気にならないための気遣いであることはすぐに分かった。白樺が続ける。


「後継ぎなのに何も知らされないなんて、そんなことがあるんでしょうか。例えば文なんかが東京の住まいに届いていませんか」

「文は確かに届いたわよ。でもここに来て仕事を継ぐように書かれた短いものだったわ。詳しいことは何も書かれていなかったわ」

「それは変だな」


 白樺が首をかしげた。長い前髪が流れて見えていた右目も髪に埋もれた。途端に竜胆の眉間に皺が寄る。立山も私も自然と白樺の方を注視した。


「何か知っているの」

「いやね、先代が病で亡くなったのはお嬢さんも御存じでしょうけどね、先代の看病をしていたのは主におれだったんですね。で、先代は人目を盗んでこっそりと長い文をしたためていたんです。おれは見て見ぬふりをしていましたがね。あれはてっきり後継ぎであるお嬢さん宛だと思っていたんですが……」

「でもわたしのところには届かなかったわ」


刊行シリーズ

八千草の兄妹 言の葉は川に流れるの書影
竜胆の乙女 わたしの中で永久に光るの書影