竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る

二 ③

「じゃあお嬢さん宛じゃなかったのかもしれませんね。あるいはお嬢さんに出したけれども手違いで届かなかった」

「何が書かれていたか覚えていないの」

「盗み見なんてそんな大胆なことはできませんよ。内容まではわかりません」

「隠れて書いていたってんなら、そこに書かれていたのはおかとときに見られると困るようなことかな」


 立山が口を挟んだ。


「そうかもしれん」


 白樺は重々しく言った。竜胆は白い指を口元にやって何か考え込んでいる様子である。


「その文、気になるわね……」


 ふいに立山が腕から零れかけた膳の足を摑んだ。立山が膳の山を抱え直したのと同時に竜胆が言った。


「ねえ、ここの人間が言うように、わたしはあまりにもここでのお父様のことを知らなすぎるわ。だから何でもいいからお父様のことを何か教えてくれないかしら。竜胆を継ぐにしても今のままではあまりに心もとないのよ」


 竜胆の声は切実であった。しかし立山と白樺は似通った顔を見合わせて黙りこくるだけである。彼等はお互いに目線を送り合い腹の内を探り合っているかのようだった。気まずい雰囲気である。


「何でもいいのよ。お前たちがどういう経緯でお父様と出会ったか、いつからこの屋敷にいるか、さいなことでもいいから教えてほしいの」


 それでも誰も答えない。やはり気まずそうにお互いの顔をちらちらと見ている。


「どうして何も言ってくれないの。無知であることを散々馬鹿にしておいて答えないのはきようだわ!」


 とうとう竜胆が叫んだ。悲痛な叫びである。それでやっと下男たちは口を割った。最初に答えたのは立山の方である。


「何も知りません」


 突き放すような回答だった。竜胆は絶句した。そこに口を開いたのは白樺の方である。


「別に意地悪でこう言ってるわけじゃないんですよお嬢さん。申し訳ないんですがね、おれと立山と檜葉の三人は記憶がないんです。気付いたら先代の傍にいたといった具合で」

「記憶がない?」

「ええ、だから答えたくても答えられないんです。仕事についてはわかりますよ。でも先代やおれ達がどういう経緯でここに来たのか、そういった昔のことなんてのはわからない」


 竜胆は驚きのあまり声が出ないらしかった。白樺は続けた。


「まだ先代がこの仕事を始めて間もない頃です。先代がおかとときの不興を買ってしまったことがあってですね、それで、その代償におれ達の記憶は取られてしまったんです。だからここに来る前の記憶がまるでないんですよ」


 そこに立山が割り入るようにして言った。


「お嬢さん、さっき藤潜の腕を血が出るまで抓るよう言われたのに皮膚を引っ張って和歌の引用で胡麻化したでしょう。まだ爪を立てて血を流してやって赤富士に見立てたらましだったかもしれませんが、あんなのは良くないですよ。おかとときは風流なものと残酷なものが好物なんです。覚えておいてください。おかとときの不興を買うことはそれは大変なことなんです。おれ達は記憶を取られただけで済んだけれども、下手をしたら命を取られかねない。藤潜はいい加減な奴ですが、あのときばかりは真剣だったでしょう。それほど大事だったんですよ」


 そう言う立山の表情も真剣だった。


「夜通しの看病は立派でしたね。しかしあいつらの中で誰か礼を言った奴がいましたか。いませんでしたよね。それは不要だからです。お嬢さんは確かに知らないことだらけです。しかし竜胆に何が求められているのかは藤潜に教わってもう知っているはずです。大切にしてください」


 その場の空気は急に重くなった。私たちはそれから台所につくまで一言も言葉を発さなかった。


 台所につくと昼餉を拵えていた檜葉が竜胆の顔を見るなり叫んだ。


「商物の連中について大広間で夜を明かしたんだ。一睡もしていないらしい」


 箱膳を流し近くのたらいに置きつつ白樺が言う。檜葉は少し同情したように竜胆に言った。


「休んでいないのでは身体も辛いでしょう。食事を取ったら竜胆は部屋でお休みください。幸い今晩はおかとときは来ませんから」

「ありがとう。でも食欲がないの。とても胃が受け付けそうになくて」

かゆでもいいから何か召し上がっては」

「じゃあ白湯を一杯いただこうかしら。立山ったらあの三人の分は用意していたのにわたしの分は用意してないんですもの。ものにされたみたいで寂しかったわ」


 竜胆は軽い調子で言ってからからと笑った。自分を心配するあまり場の空気が重くなるのに耐えられなくなったように見えた。恐らく明るく楽しいことを好む性分なのだ。若い娘の愛くるしい笑顔に私たちの頰は自然と緩んだが、しかし娘の可憐な瞳の下に刻まれたくまを見ると胸が苦しくなる。立山が肩を竦めて鉄瓶を持ち上げたのと同時に竜胆が仕切り直した。


「それはそうと檜葉。さっきお前はおかとときは今日は来ないと言ったわね。それはどうしてわかるの」

「おかとときがやってくるときは、必ず前日の夕暮れ時までに松の木に何かしらが結びつけられることになっているんです。しかし昨日の松の木は竜胆の木登り以外何もありませんでしたので、今日はお休みなのです」

「そう。そこにもわたしの知らない決まり事がいくつもあるのね……」


 竜胆はしそうに唇をみ目を伏せた。察した檜葉が取り繕うように言う。


「仕事について分からないことはできる限りこちらから伝えます。そう焦らなくとも大丈夫です。かく今は部屋に戻ってお休みください。夕食になったら呼びに行きますから」


 竜胆は紫の羽織を抱いて仕事部屋に戻って行った。

 それから間もなく湯は沸いた。しかし檜葉がせめてしるでも飲ませた方がいいのではないかと言って立山を引き止めたので、味噌汁が出来上がるまで待つことになった。

 私は白湯が冷めるのではないかと思ったがかろうじて湯気は立ち上っている。立山は白湯と味噌汁を盆に載せて台所を出て行った。

 廊下に味噌の香が漂っていき、白湯の匂いは味噌の香にすっかりかき消されてしまっていた。盆を持つ立山の隣に白樺が立っている。彼は大広間に汚れた花器を取りに行くついでに竜胆の様子を見たいと言った。


「竜胆、お休みのところすみません。開けますよ」


 竜胆の仕事部屋につくなり立山が声を張り上げた。歌うような声だった。彼は返事など待たずにさっさと襖の隙間に足をねじ込んでこじ開けた。


「おい。いくら盆で手が塞がってたって足で開けるやつがあるか。そんなの手が空いてるおれが開けるよ」


 白樺が咎めたが立山はどこ吹く風である。

 立山と白樺は背丈も体格も同じ、双子のように似ているが性格は大きく異なる。立山は大味で白樺は繊細なのである。

 二人は仕事部屋に入ると言葉を失った。部屋は激しく荒らされていたのである。

 簞笥やづくえ、部屋にある引き出しという引き出しは片っ端から開かれていた。その中にあったであろう道具は全て搔き出されそのせいで畳が見えないほどになっている。しかもその上にマガレイトの可憐な娘が倒れていたのだから私たちはぎょっとした。

 すかさず白樺が竜胆の安否を確認した。耳を澄ますと竜胆の小さな呼吸が聞こえる。


「大丈夫、眠っているだけだ。大きな怪我も見当たらない」


 立山は文机に盆を置き大きく息を吐いた。


「まったく、泥棒に入られたのかと思って焦ったよ。木に登るわ部屋は荒らすわ一体どうなってるんだ」

「きっと女学校で教わったんだろう」


 木登りでのやり取りをなぞって白樺は言う。二人は暫く苦笑していたが、ややあってから白樺の方が低い声で言った。


「恐らくは先代の文を捜していたんだろうな。おれから聞いて気になって仕方なかったんだろう」


 しかしこの様子だと先代の文は見つからなかったようである。気のせいか竜胆の目元が涙で濡れているように見えた。

 立山が畳に転がっていた掛布団を拾って竜胆の身体にかぶせた。退出する際、立山は今度は手で静かに襖を閉めた。



刊行シリーズ

八千草の兄妹 言の葉は川に流れるの書影
竜胆の乙女 わたしの中で永久に光るの書影