竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る

二 ⑥

 おかとときの一人が野次を飛ばした。八十椿の爪が剝がされるのを心待ちにしているのか声が少し上擦っている。らされるのは好きではないとでも言いたげである。そこで竜胆は慌てて八十椿の紅い爪を手に取った。しかしその手は恐怖で震えるばかりで動かない。

 竜胆はゆっくりと顔を上げ、恐る恐る八十椿の顔を見た。

 な瞳をしていた。八十椿は竜胆と同じ年の頃の少年であるが、その瞳が今はやたらとあどけなく映ったのであった。それは真っ直ぐに容赦なく、竜胆を射た。

 射られた竜胆は痛みにあえぐように道具を載せた皿に手をやった。やみくもに何かを摑もうとしたが、しかし震えが酷いためにく摑めない。竜胆は喘ぎながらしばらく手元をがちゃがちゃと鳴らしていた。しかしついに観念したのかこう吐き出した。


「できません……」


 下男たちが鋭く竜胆をにらんだ。


「絵双六はわたくしの負けでございます。続きは皆様でどうぞお楽しみくださいませ」


 竜胆が作り笑いを浮かべそう繕うところにおかとときが鋭く切り込んだ。

──興が殺がれてしまったな。

 その言葉を皮切りに場の空気はぴりりと張り詰める。

──そうだなあ、先代といいきみといい、人間風情が少し調子に乗っているのではないかな。ちょっと面白いものが見られるから我々もこれまで色々と許していたが、そろそろ潮時なんじゃないのかね。


「お待ちください、本日のご無礼心よりお詫び申し上げます。どうか、どうかお許しいただきたく……」


 檜葉がそう叫んだのと同時だった。

──罰としてこの者の腕はもらっておこう。

 八十椿が悲鳴を上げて畳の上をのたうち回った。見れば彼の左の腕は関節とは逆の方に曲がっている。おかとときは朗らかに笑い、帯のようなものをぶら下げてゆらゆら揺らしている。よく見るとそれは八十椿の左腕であった。

──そら、宣言通り貰ったぞ。

──しかし持ち帰るものが腕一本だけじゃあ味気ないじゃないか。

──どれ、今度は誰か一人丸ごと持って帰るとするか。

 そう言っておかとときの影が惜菫と藤潜の方を向いた。瞬間、竜胆は身を翻し二人を背にかばって立つ。先ほどまでの花のような笑みはとうに失せ、血の気が引き青白くなった顔がそこにあるのみである。


「本日のご無礼、心よりお詫び申し上げます。責任はすべてこの竜胆にございます。どうか、これ以上この三人に手出しはしないでくださいませ。後生ですから」


 しかしおかとときは竜胆の懇願など意に介さずといった様子。互いに影を揺らめかせひそひそと囁き合ってから、無情にも惜菫と藤潜を転ばせ左の足首を摑んでちゆうりにした。二人の名を呼ぶ立山の声が響いた。

──ああなんだ、御覧よ。この二人の足にはもう徴がついているじゃないか。

──なんだ、既に誰かの所有にあるということか。

──きみの徴じゃないのか?

──あたしのじゃないわ。

 惜菫と藤潜が畳の上に投げ捨てられた。二人は畳の上を転がってそのまま蹲って動かない。

──この二人はここにいる誰の物でもないらしい。他人の持ち物じゃあ持ち帰ることはできないな。

 おかとときは黒い身体をまがまがしく揺らし、今度は竜胆の方に向き直った。

 おかとときの影は幾重にも重なっては炎のように小さくなったり大きくなったりを繰り返して明滅している。

──では竜胆、代わりにお前を引いて行こう。

 おかとときから無数の腕が伸びて竜胆を囲む。竜胆は言葉も出ず青白い顔のまま震えそこに立ち尽くすのみである。商物の三人は畳の上に這いつくばっている。下男たちは諦めたように顔を背け、観念したように強くまぶたを閉じた。

 長い時間が経ったように感じられた。

 実際のところ、何秒、何分と経ったかは誰にも分からない。しかしどれだけ時間が経っても竜胆の身に何かが起こることはなかった。

──なんだ? どういうことだ。お前は引けぬ。お前も誰かの所有にあるのか?

 下男も商物も驚いて顔を上げ、竜胆を注視した。竜胆を囲んだおかとときの影はろうばいするようにせわしなく揺れている。

 おかとときは竜胆の左足首を強引に摑み、引っ張り上げた。足袋を投げ捨て竜胆の足の裏を見るが、そこには若い娘らしい白く柔らかな肌があるばかり、おかとときが期待したような徴は刻まれてはいなかった。

──違うな、徴はない。誰かの所有にあるわけではない。それなのに引けぬ。だ。

 おかとときが明らかに狼狽している。おかとときが身を寄せ合い囁き合い、ひたすらに明滅を繰り返す。

──まさかお前、主の……。

 しばしの沈黙が訪れた。

 このとき六人ほどに見えたおかとときはゆらゆらと伸縮を繰り返し、やがて湯気のように分散した。しかしそうかと思えば次の瞬間には人の形を失って炎の車のような形になった。黒い炎をたぎらせ巨大な車輪がその場で激しく回転する。その激しさはまさに憎悪そのものであった。

 車が激しく回る度に座敷に憎悪が増幅していく。その場にいる人間の心臓はもれなく早鐘のように鳴っていた。車はこれ以上ないほど激しく回り、やがて頂点を迎えて破裂した。

 破裂したおかとときは黒い筋となって畳や床柱にこびりついた。その黒い筋はやがてもぞもぞと動いて黒い糸のようなものとなり、それは芋虫のようになり、少しずつ太くなって再び元の人の形をした靄になった。

──車を出せ、今日はこれでしまいだ!

 何かに負けたような苛立ち混じりの叫びであった。白樺がおっかなびっくり、媚びた笑顔を作っておかとときを玄関へ案内する。

 座敷では立山が八十椿の腕を確かめていた。宴の際に刈られた髪は元に戻っていたが、左腕は骨がなくなったようにぐにゃりとしていた。


「八十椿、腕は動くか」

「いいえ、少しも」

「痛みはあるか。おれに触られている感覚はあるか」

「いいえ。痛くもないし、触られている感覚もありません」


 八十椿の左腕はそこにあった。しかし中身はおかとときが持って帰ってしまったのだ。立山の身体が震え始めた。足袋の脱げた竜胆が八十椿の傍に立ったのに気が付くと、大きな声で叫んだ。


「だからあれほど言ったでしょうが。竜胆、本日の己の振る舞い、犯した罪の重大さ、ようくご自分の胸にお刻みになることです! 八十椿の左腕はおれ達の記憶同様もう戻ってきやしない!」


 私は竜胆の方を見た。竜胆は己のしでかしたことの重大さに言葉も出ず、ただただ震えていた。八十椿の腕の下で畳が夜の色から朝日の色に静かに色を変え始めていた。

【六九分〇〇秒】




刊行シリーズ

八千草の兄妹 言の葉は川に流れるの書影
竜胆の乙女 わたしの中で永久に光るの書影