竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る

三 ①

 表座敷が夜の色から朝の色へと変わりつつある中、正気に戻った竜胆は頭を畳に擦り付け幾度となく椿つばきに謝罪した。


「本当に申し訳ございませんでした。すべてわたしのせいです、わたしの」


 少し離れた場所でふじくぐりせきすみれの吞気な声がした。


「やれやれ、今日は早く終わって何よりだ」

「いつもこのくらいだと助かるんだがなあ。今日は大した怪我もなくて良かった良かった。あのふざけた化粧まで消して元通りにしてくれるんだからありがたいことだ」


 絵双六の際に刈られた商物の髪は今は元通りになっていた。それどころか髪に飾られた花も、滑稽な化粧も、女物の着物も消え去って宴が始まる前のじゆばん姿に戻っている。

 しかしその中で八十椿の左腕だけは、何度見ても骨の抜けたようにだらりと下がったまま動かないのである。

 己のなさに腹が立つやら情けないやら、竜胆は再び頭を畳の上に擦り付けた。畳の上に置かれていた手は戦慄き、ついには爪を立て畳の目を毟る勢いであった。


「本当に申し訳ございませんでした。何と言ってお詫びしたら良いものか」

「ぼくはそんなきみの姿は見たくなかったな」


 八十椿は素っ気なく言うと身体を起こし、襖の方へ向かった。

 藤潜と惜菫はおやといった表情で互いに顔を見合わせた。しかし八十椿が表座敷を抜けると後を追いかけるように出て行った。八十椿は一切振り向かなかった。

 竜胆は畳の上に頭を擦りつけたまま顔を上げなかった。ただ畳に食い込む五本の指が震えて止まらなかった。私は静かに息を吐いて瞼を閉じた。


 絵双六の宴が済んでからめいめいが部屋に戻り暫く休息を取った。

 昼頃になってから下男三人はのそのそと起き出し、昨晩の宴の後始末と今日の昼餉の準備に取り掛かった。立山と白樺は表座敷へ向かい、檜葉は竜胆を起こしてから台所へ向かった。


「八十椿の腕を取り戻す方法はないかしら」


 野菜を手早く切りながら竜胆が言った。かまどで飯を炊いている檜葉が顔も上げずに返した。


「無理ですね。その方法があるとすれば、先代はとっくにわたくしどもの記憶を取り戻していたでしょう。諦めてご自分の今後の振る舞いをお考えください。あの三人のことを思うのならば血を流すことと肉を裂くことに一刻も早く慣れるべきです」

「自分が何を言っているか分かっているの。とても恐ろしいことをいとも簡単に言うなんて」

「分かっているからこそ言っているんです。現に己の過失で八十椿の腕を一本失っているじゃあないですか。この屋敷で綺麗ごとは通用しないのです」


 竜胆が鍋に切った野菜を流し込んだ。竜胆と檜葉が動くたびに食べ物の匂いと熱気が濃くなっていく。竜胆が鍋に菜箸を突っ込みながら言った。


「それにしたって何故お前たちはこんな恐ろしい仕事を続けているの。商物の三人がこの屋敷を出ていけない理由はわかったわ。でも、お前たちには理由がないじゃないの。記憶を取られてまで続けるのはどうしてなの」

「おそらく……他に行く場所がないからではないですか」

「ではもしわたしが東京で働き口を紹介すると言ったらどうするの。命を取られるかもしれないこの屋敷よりもずっと気楽な暮らしができるというものよ」

「それは」


 檜葉は火吹き竹を吹くのを中断し、炎の前にすくんだ。彼は少し黙っていたが、やがて静かに言った。


「それでもここを辞めることはできないと思います。こんな恐ろしい場所、本当はすぐにでも逃げたいのですが、どうしてもここにいなければいけないような気がするのです。それは恐らく立山と白樺も……」


 竜胆は手を止めて檜葉の方を見た。檜葉は竈の炎を見つめたまま動かない。


くした記憶と関係があるのかしら。ごめんなさい」


 檜葉は返事をしなかった。竜胆は味噌を鍋に溶きつつ言った。


「お父様が病床で長い文をしたためていらっしゃったことを白樺から聞いたわ。その文が誰宛だったのか、そして今どこにあるのかは分からないそうよ。わたし、その文がすごく気になっているの。そこにはお父様がどうしてこんな恐ろしい仕事を始めたのか、どうしてお前たちはこの屋敷から出ていけないのか、そういったことが書かれているような気がするの」


 檜葉は無言のまま火吹き竹を吹き始めた。

 米が炊けた頃になると、表座敷の片付けを終えた立山と白樺が台所にやってきた。できた昼餉を箱膳に盛り付けて、今度はそれを商物の三人のいる離れに運ぶのである。しかし、その前に檜葉が梅形の菓子鉢を竜胆の前に差し出した。


「これも一緒に離れに運べばいいの?」


 檜葉は首を横に振った。

 差し出された菓子鉢は蓋つきである。檜葉が蓋を取るように目で促した。竜胆は素直にそれを持ち上げたが、鉢の中に詰まっていたのは緑色の大量の飛蝗だったので竜胆はとつに蓋を戻した。虫が得意ではない私も咄嗟に目を逸らした。


「金沢では飛蝗を菓子として食べているの……」


 青ざめる竜胆に檜葉が眉間に皺を寄せて否定した。


「この飛蝗は食用ではありません。そしてこれはあの三人用ではなく竜胆用です。竜胆はおかとときになったつもりで、この中にいる飛蝗の手と足と胴体を一匹ずつ捥いでください。そのときの音、手触り、振動、本体の動き、そこにある全てを面白く感じる練習をするのです。血を流すことと肉を裂くことに抵抗があるのならこういったことから慣れていってください」


 飛蝗入りの菓子鉢を両の手で受け取った竜胆はそれをじっと注視した。たかが飛蝗、大した重さなどありはしないのに、その白い手にはまるで大きく冷たい石が載っているかのようである。


「これだけの量の飛蝗を菓子鉢に仕舞ったのは誰なの」

「わたくしです。こういったものを捕まえることは得意なのです」


 檜葉の大きな目がぎらぎらと光った。どことなく誇らしげである。竜胆は少し困ったような顔をした。


「捕まえるのが得意なのは結構だけれど……、次からは菓子鉢ではなくて虫籠に入れてね」


 出た言葉が称賛ではなく注意だったので、檜葉は小さな顔を赤くしてうつむいた。


 藤潜、惜菫、八十椿の商物三人の部屋は裏座敷の渡り廊下を通った離れにある。

 日の当たらぬ隅の小部屋に三人は寝起きしており、その布団は大概敷き放しであった。おかとときから受けた苦痛に浸ることが多いので自然とそうなっているのだ。


「なんだてめえら、昨日は大して怪我を負わなかったのに横着しやがって。今日ぐらい布団を仕舞いやがれ」


 箱膳を持って入って来た立山が開口一番文句を言った。そして箱膳を畳の隅に置いてから、文句を言いつつ布団を畳んで押し入れに仕舞い始めた。藤潜と惜菫はにやにや笑ってそれを見ている。

 立山は口は悪く手も足も出るが、何だかんだと商物の世話を焼いている。そしてどうも商物の方もそれを分かっていて、罵られ殴られてもげらげら笑っている節があった。

 部屋にいたのは藤潜と惜菫だけであった。ここに来るまで竜胆の顔色は白く、表情は思い詰めたように強張っていたが、部屋に八十椿がいないと知るや否や、緊張していた頰は自然と緩んだ。


「八十椿はいねえのか」


 箱膳を配置しながら立山が尋ねた。それに答えたのは藤潜である。


「あいつはふらふら歩きまわる癖があるからなあ。今も屋敷のどこかをほっつき歩いてるんだろう。その内戻ってくるよ」


 立山と白樺は自分の仕事を終えるとさっさと部屋から出て行った。しかし竜胆は出て行かずに畳の上に座った。惜菫が八十椿の座布団に座るよう促したが断り、静かに尋ねる。


「あなた達に聞きたいことがあるの。よろしいかしら」

「腹が減っているんだ。飯が終わってからじゃだめかい」

「急いでいるの。食べながらでも構わないわ」

「お行儀が悪いね」


 藤潜はそう言ったがとっくに箸をつけて貪り食っていた。目の覚めるような美しい顔をしている癖に振る舞いはとにかく粗野なのである。


「お父様がご病気でお亡くなり遊ばしたのはご存じよね。実はお父様は病床で長い文をしたためていらっしゃったそうなの。でもこれは行方不明なのよ。ご存じないかしら」

「さあ、俺は知らん」

「僕も知らない」


刊行シリーズ

八千草の兄妹 言の葉は川に流れるの書影
竜胆の乙女 わたしの中で永久に光るの書影