竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る

三 ②

「では、お父様はどうしてあなた達を引き取ってこんな事をお始めになったかご存じないかしら」


 竜胆の問い掛けに答える声はない。ただ漬物をかじる音と味噌汁をすする音が響くのみである。この二人はそれについても心当たりがないのだった。


「では、お父様と出会ったときのことをわたしに教えてくださらないこと」


 惜菫がお前の役目だと言わんばかりに横目でじろりと藤潜の方を見た。藤潜はお喋りの好きな男である。藤潜は心得たとばかりににやりと笑って箸を一旦置き、竜胆に向き直った。

 藤潜いわく。彼は元は植木屋の見習いであった。しるしばんてんを着て親方兄弟子の後をついて駆けまわっていたのを、御日様の沈む頃、夜の皮を一枚剝がしてやってきたおかとときが彼を引いて向こう側へ連れ帰ったのである。

 おかとときの住まう場所は上も下もなく、また東西もなく、どこまでも空間が広がっていくばかりで気が狂うほどである。しかし深い闇の中に地獄の炎のような赤がほのかに光って不思議に美しくもあった。

 藤潜を引いたおかとときは一人にも見えたが多いときには二十ほどにも増えて見えた。おかとときを識別することは人間には難しい。意思の疎通はもっと難しい。漂うしようのためか玩具には不要だからか、言葉はどんどん自分の内から零れて消えていくようであった。

 その日、藤潜はちようの遊びに付き合わされていた。おかとときは風流好みのため花や蝶をでるが、人間と蝶の違いはよく分からない。おそらく人間のところから盗んできたであろう美しい女物の友禅の着物を藤潜に与え、舞えよ遊べよとはやてた。

 しかしいくら美しい羽を与えられても人間は友禅では飛べぬので、あっちへこっちへとふらつきおかとときの間を震えながら渡るしかなかった。藤潜の足取りと蝶の動きが違うことに物足りなさを覚えつつもこれはこれで愉快なのでおかとときは手を叩いて喜んだという。

 蝶遊びに飽きたおかとときは友禅を剝がそうとして藤潜の肩ごと外した。藤潜が想像を絶する痛みに声を張り上げると、おかとときは今度は美しい調べでも聞くようにうっとりと聞き入った。悲鳴と音楽の違いもまたおかとときには分からないのである。

 そこに突如現れたのは先代の竜胆であった。

 紫色の羽織を纏い、竜胆の花の模様の入った提灯ちようちんをぶら下げて、まるで散歩でもするかのように足取り軽く、おかとときの住まうこの場に単身歩いて来たという。


「お父様はおかとときの住まう場所に行き来できたというの」


 竜胆は反射的に大声を出した。藤潜はその反応がうれしかったのか、したり顔でしっかりと頷く。

 先代の竜胆は痛みにのたうち回る藤潜を指さして、あれを自分に譲ってほしいとおかとときに言ったという。

 あなた達は風流を愛でる心はあるがそれを自ら満たすことはできぬのではないか。自分ならあれを使ってもっと面白いものを見せることができる。あなた達が満足できるように持て成すので是非自分に譲ってくれ、と。そのときの先代のなんと口の達者なこと。

 先代の話しぶりにおかとときも思わず目の前の男にき込まれた。怪しくないといえば噓になる。通常こちらに来た人間は瘴気のためにまともに立ってはいられなくなるほどやわだというのに、この男は悠々と歩いて言葉まで紡ぎ、さらに全くものじせず我々と対面する。とはいえこの男の言うことはそれを差し引いても魅力的である。

 確かに風流心を己で満たすことは難しい。これはすべてのおかとときに共通することであった。和歌をたしなんでも花をけても己の振る舞いではどこかむなしさを覚え、憧れともどかしさが募るばかりだ。

 人間が同じ蝶一頭一頭の区別がつかぬように、またおかとときも人間の区別がつかない。藤潜に愛着は元より無い。もはや藤潜を先代に譲らぬ理由はどこにも無かった。


「そういうことがあって俺はこの屋敷にいる。もっとも、以前言ったように先代が譲り受けたといっても俺はまだおかとときの所有にあるんだ」


 藤潜の左の足の裏に刻まれた花の徴は記憶に新しい。


「この屋敷は地獄だがそれでもあそこよりは随分温い。俺はいつ例のおかとときが気まぐれを起こして俺を引き取りに来るか恐ろしくてたまらない」


 言い終わると藤潜は今度はそっちの番だと言わんばかりに惜菫の方を見た。


「僕はいいよ。そうやすやすと自分のことは言わない主義なんだ」


 そう言って惜菫は味噌汁の椀に口をつけた。惜菫の眼鏡が湯気で曇った。竜胆は暫く待ってみたが、惜菫は宝石のように美しい目を伏せて憂いを纏うばかりで一向に喋りそうにないので、それ以上深追いせずに立ち上がった。


「お食事の邪魔をして御免なさい。それでは失礼」


 そう言って竜胆は商物三人の部屋を後にして渡り廊下を歩いて行った。私もその後ろを付いていった。


 昼餉の片付けも済んだ頃、竜胆は例の菓子鉢を持って大広間へ行った。

 硝子戸を開き、縁側に腰を下ろして菓子鉢の蓋を取る。檜葉の言葉はもつともではあるが、やはり命を奪うことは忍びないので、大量の飛蝗をこっそり庭に放すつもりでいた。しかしいくらかの飛蝗は既に鉢の中で息絶えていた。

 元気な飛蝗は喜んで外に飛び出していった。なかなか出て行かぬものは竜胆が直接手に持って放してやった。鉢には息絶えた飛蝗だけが残った。

 竜胆は鉢に向かって静かに合掌した。そうして暫くはそのままもくとうしていたが、やがて一匹をてのひらに乗せてその足を一本捥いだ。

 命を奪うことは忍びない。しかし八十椿の失われた腕を思うと今の状態ではいられない。次は藤潜や惜菫にまで危険が及ぶかもしれない。自分だけが綺麗なままでいたいと思うのはわがままだった。

 飛蝗の細い足がはらりと落ちた。そしてぷつりと切れたときの感触が娘の手の中に残った。その辺りに生えている草の葉を茎から千切るのと大きな差はないように感じられ、それが娘をぞっとさせた。おかとときも人間を傷つけるときは何でもない心持でいるのだろうかと疑った。

 飛蝗の残った足をすべて捥ぎ取ってから、次は胴体を半分に折ってひねり切った。足を捥いだときと胴体を捻ったときの音と感触が全く違う。それに気付き、素直に感心した。次の飛蝗に手を伸ばし、今度は右と左に分かれるように胴体を割った。今までにない音と感触、そして現れた不思議な断面。心が惹きつけられた。これら一匹一匹に生命が宿り、宇宙のようなものが広がっているのに、それが自分の小さな掌の上で簡単にじゆうりんされている。

 しかしそれを何匹も続けたとき、竜胆は自分があちら側に吸われ始めているような気がして、ぞっとして手を止めた。とんでもないことをしている自分に気付いたのだった。

 竜胆は震える手で残りの飛蝗の死骸を草の中に落とした。自分の息が上がっていること、心臓が早鐘の如く鳴っていること、手汗が酷いことに、今頃気が付いた。そしてこれが恐怖でそうなっているのではなく、興奮と熱狂のためにそうなっている事実に衝撃を受けていた。飛蝗を落としている間、自分の身体が黒い影となっておかとときの一部になっていく姿が脳裏に浮かんでは消えた。


「ここにいたのか。捜したよ」


 突然背後で声がした。竜胆は飛び上がって驚いた。

 振り向くと八十椿が立っていた。左腕は骨が抜けたようにだらりとぶら下がっていて、あまりの痛々しさに竜胆は無意識にそこから目を逸らした。


「わたしに何か御用かしら」


 慌てて笑顔を作り八十椿に向ける。心臓はまだ激しく鳴っていた。


「うん、少しね」


 八十椿は竜胆の隣に腰を下ろし、右手に持っていた小瓶を差し出した。中には紅白の金平糖が入っているが、蓋はきつく締められていた。


「立山がぼくに買ってきてくれたんだ。でもこの腕じゃ開けることができなくて。きみ、開けてくれないか」

「お安い御用よ」


 竜胆は明るくほほんで蓋を開けた。しかし瓶を差し出しても八十椿は受け取ろうとしなかった。彼は受け取る代わりにこう言った。


「赤いやつだけってぼくにくれないか」



刊行シリーズ

八千草の兄妹 言の葉は川に流れるの書影
竜胆の乙女 わたしの中で永久に光るの書影