竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る

三 ④

 反射的に白樺が脚を止めた。車は突然止まり竜胆の身体は崩れ、提灯は傾きあわや大惨事になるところであった。


 竜胆を乗せた腕車はのろのろと屋敷に戻って行く。


「行った後の方が恐ろしかった。行けなかったのは不幸中の幸いだと思いましょう」


 竜胆を出迎えた檜葉は慰めのようなことを言った。

 白樺と檜葉は裏座敷に戻った。竜胆も自分の部屋に戻ろうと洋灯片手に一人廊下をのろのろ歩いた。するとうしどきも過ぎた頃だというのに、黒い人影がぽつんと廊下に立ってこちらを凝視している。これには竜胆も私も飛び上がるほど驚いた。


「おかとときの住まう場所には行けたの」


 声の主は八十椿であった。正体を知った竜胆はほっと胸をろし、息を吐いた。どうやら彼は寝ずに竜胆の帰りを待っていたらしかった。竜胆は微笑みを向けたがしかし残念そうに小さな声で言った。


「あちら側ね、行けなかったわ。あなたの言うとおりよ。わたしはずっと失敗続き」


 竜胆の身体は今宵はひときわ小さく見えた。八十椿もかける言葉が見つからないのか、あるいは最初からその算段だったのかこう言った。


「失敗でもお勤めお疲れ様でした。夏の終わりとはいえ夜明けは冷える。白湯でも飲んで一旦落ち着こう」


 私たちは八十椿の導くままに大広間の宴会場へと移動した。隅に置かれた長火鉢には既に炭が敷かれており、傍には鉄瓶と湯のみが二つ用意されていた。


「悪いけれども竜胆、片手の自分ではここまでしか用意できなかった。両手でないと火を起こすことはできない」


 八十椿がそう言うので竜胆は燐寸まつちを擦って炭に火をつけた。暗がりの中で小さな赤い火がぼんやりと光る。炭はじきに燃えたが何やら普段より煙を強く感じ、息苦しい心地がした。竜胆も顔を顰めているが、しかしそれは煙のせいではなく心が弱っているせいかもしれなかった。

 耐え切れなくなったのか竜胆は硝子戸を開けて夜の冷えた空気を座敷に招き入れた。夜空を見上げると月が目に入る。ひょっとして綻びはあの辺にあっただろうかと今も尚竜胆は思いを巡らせているかもしれない。

 八十椿は慰めの言葉も追い打ちの言葉も竜胆にかけなかった。煙はますます強くなるようである。

 強い煙を不思議に思った竜胆は長火鉢の前に立った。燃える炭の奥に何か細かなものが見える。目を凝らしてよく見ると、それは散り散りになった紙片だった。冬の一番寒い時期に降る大粒の雪程度の大きさで、それこそ雪のように大量にあった。紙片は炎の中で踊っては黒くくすんで縮んでいく。煙は夜の闇にのぼっていくが夜の黒には馴染まぬようである。


「八十椿、一体何を燃やしているの」


 返事は無かった。

 竜胆は火鉢の中で燃え行く紙片を見つめていた。白い紙片は生き物のように身を寄せ合い、炎に触れると身をよじらせて黒く変色していく。それを眺めているうちに、竜胆はあることに気付いた。紙片に手書きの文字が見えるのである。


「ぼくは失敗するきみがもっと見たいんだ。失敗した後、きみがどうするのか、ぼくはすごく興味がある」


 八十椿がそう言うのを竜胆は正面から見据えた。一旦睨みつけたあと、火を消そうと鉄瓶の中をすべてぶちまけた。しかしその頃には炎はすべてを灰にし紙片は跡形もなく消えてしまった。少し風が吹いて白い灰が舞い上がる。


「道具部屋の奥にある簞笥、あれは下から二番目に仕掛けがあるんだ。そこの引き出しだけ他のより少しだけ短く作られていて、それを引き抜くと奥に隠し箱がある。先代は大事なものはそこに仕舞っていたんだ。箱の鍵は小面の能面を取ったところにある。このことは下男の三人だって知らない。ぼくはすべて見ていたから知っている。先代の文はその箱の中にあったよ」

「わたしのせいで腕を失ったこと、あなたはやはり恨んでいるのね。だからこんなふくしゆうめいたことをわたしにしたのね」

「違うよ。恨んでなんかいない。復讐なんてもつてのほかだ。さっきも言ったけれど、ぼくは失敗するきみが見たいだけなんだ。本当にそれだけだ」


 八十椿の燃やしていたもの、それは先代の竜胆が病床でしたためていた文であった。

 竜胆の小さな身体を黒く恐ろしい感情が覆っていく。それがあまりにも重く苦しかったため、ついに竜胆はその場にくずおれてしまった。八十椿の頼みとはいえ、竜胆は自分の手で燐寸を擦り大事な文に火をつけてしまったのだ。


「竜胆、きみはまたひとつ失敗をしてしまった。ねえ、今なにを思っているの。どんな気持ちなの。どうかそれをぼくに教えてほしい」


 竜胆は衝動的に身体を起こし、火箸を摑んで長火鉢におおい被さった。何をするのか察した八十椿は右腕で力の限り竜胆の袖を摑んだ。片腕でも男の力は強い。暴れる竜胆を畳の上にあっと言う間にねじ伏せる。


「竜胆、それはだめだ。火傷やけどじゃ済まない。ぼくはきみが怪我をするところは見たくない」


 娘は声を上げて泣き始めた。


「あの文は確かに娘であるきみ宛だったよ。竜胆の仕事についてと、きみへの情愛の言葉が書かれていた。いい文章だった」


 八十椿の穏やかな言葉に娘の口から悲鳴のような声が漏れた。嘆きと苛立ちと後悔とありとあらゆる悲しみの感情が娘から溢れて止まらなかった。一片でいいから父の文が欲しい。たとえ灰でも構わない。両腕いっぱい抱えきれるだけ持って帰ってその中で眠りたかった。しかし八十椿が馬乗りになっているためそれは叶わない。

 娘の熱い頰に夜風が冷たくそよぐ。灰と涙がぼろぼろと夜の闇の中に零れて端から消えていくのを私は黙って見ていた。

【四一分二四秒】




刊行シリーズ

八千草の兄妹 言の葉は川に流れるの書影
竜胆の乙女 わたしの中で永久に光るの書影