竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る

四 ②

 しかし竜胆の方もまるで心当たりはない。藤潜はうなり声を上げて大袈裟に首を捻った。惜菫はもう飽きたのかいつもの憂いを纏って窓の外に目線を注いでいた。

 竜胆は暫く惜菫の美しい横顔を注視していたが、静かに口を開いた。


「惜菫、あなたにもう一つ聞きたいことがあるの。あなたがここに来た経緯を教えてくださる」


 惜菫は目玉だけを動かしてじろりと竜胆を睨んだ。竜胆はそれには怯まなかった。


「以前話したお父様の文、見つかったわ。見つかったけれど、昨晩八十椿に燃やされてしまったの。内容はわからないままよ」


 それを聞くと藤潜と惜菫は驚いて互いの顔を見合わせた。


「あいつがやったのか。そうか、ひ弱そうな奴だと思っていたが、なかなか大胆なことをする。左腕を取られた報復だろうか」


 おどける藤潜の隣で惜菫が慎重に言った。


「それは……たいへん御気の毒に。なかなか辛い思いをしているでしょう」

「それはもちろん。八十椿いわくあの文には竜胆の仕事についても書いてあったそうよ。なのに燃やされてしまって、この先どうしていいかわからず立ち往生しているところなの。わたしは少しでも多くお父様のお仕事について知る必要があるわ」

「だから僕の話を聞きたいと」

「頼みます」


 竜胆が深く頭を下げた。

 惜菫は深く下げられたマガレイトを眺め、白く美しい顔に苦々しい表情を浮かべていたが、やがて歯切れ悪く言った。


「僕の話が竜胆の役に立つかは分からないが……」

「構いません、お願いします」


 竜胆が顔を上げた。明るい表情をしている竜胆とは対照的に惜菫の表情は暗い。


「僕は藤潜と違ってあちら側には行かなかった……。僕がおかとときに徴をつけられ、丁度あちら側に引かれそうになっているところに、たまたま先代が通りかかった。あとは大体は藤潜と同じだ。先代は口の達者な人だからね。調子の良いことを言っておかとときから僕を引き取ってこの屋敷に連れ帰ったんだ。これ以上詳しくは言えない。もしもおかとときに聞かれて辿られたらまずいんだ」


 この話は藤潜も初めて聞いたと見え、派手な目を丸くして惜菫を見ている。


「お父様と出会ったという場所は一体どこなの。お父様の行動範囲を知りたいわ。聞かせて頂戴」

せ、それ以上は無理だ」


 そのとき空が急に陰り、辺りは夜のように暗くなった。空には一面に黒い雨雲、あっと思った瞬間にざあと強い雨が降る。部屋の中が夜のように暗くなったので一同は驚いて一瞬だけ押し黙った。


「金沢は本当に雨が多いな。高知生まれの俺には信じられねえや」


 藤潜が静かに零したのを惜菫がぎょっとして見た。


「馬鹿、かつに喋っておかとときに辿られたらどうする」

「知るもんか。俺が引かれてから十七年経ってるんだ。今更故郷を辿られたからなんだってんだよ。待ってる人間がいるわけじゃなし」


 惜菫は押し黙った。


「お前にはいるのか。待っている人間が」

「さあ、どうだか……」


 藤潜は探るような目をして惜菫の顔を盗み見た。闇に沈んでいるためにその表情はよく見えないが、珍しく自分のことを話した惜菫を面白く感じ、もう少しつついてやろうと思ったらしい。意識して意地悪い物言いをする。


「だって惜菫、もう十七年経ってるんだぜ。お前のことなんて忘れてるさ。人間なんて情が移りやすい上に薄情なんだから。もう次の人間に情が湧いてそいつと楽しくやってるさ」

「そんなことはない、そんな薄情な人じゃないんだ」

「はあ、さてはその言い方、女だろう。女なんて心変わりする最たるものじゃないか。お前の女の隣にいた隙間は今じゃすっかり別の男が収まってるさ。甘えた声を出してしなだれかかっているだろうね。収まった先はさあどの男だろうか」

「馬鹿野郎、てつ子さんを侮辱するな!」


 惜菫ははっとして口元に手をやったが時既に遅し。

 雨雲で生じた影は黒く闇の如き様相、その闇を見つめるほどにゆらゆらと揺れ糸の如くほぐれ、次第に無数の指となって惜菫の影に覆い被さる。黒き無数の指は惜菫の影の口を強くこじ開けて無理に入り、喉の奥で音をつまんでは引きつまんでは引きを繰り返してありの如く行列を作り這い出てくる。


「てつ子さん、てつ子さん、てつ子さん」


 黒き指の先につままれた音は悲鳴を上げて行列を賑やかに彩り、指は虫が這いまわるのによく似た動きで雨雲の作った影の闇にその名前を連れて帰った。呼吸三度程の僅かな時間であった。

 途端に雨はぴたりと止んで、黒い雨雲は静かに風に流れ青い空が戻って来た。戻る日差しに照らされるのは恐怖に打ち震える惜菫の姿であった。夏の終わりだというのにあわれ惜菫は凍え死にそうなほどに震えていた。


 十日ほど経ってから、松の木におかとときの知らせがあった。

 やかましく廊下を走る足音と共に檜葉が竜胆の部屋に飛び込んできたので、私たちは急いで大広間へ行って庭を見た。丁度立山と白樺が松の木に向かうところであった。夕方の風のもと紅白の布が松の木の下ではためいている。


「何かしら。遠目には打掛のようにも見えるけれど」

「あれは暖簾のれんですね。竜胆は東京からいらしたから御存じないでしょうが、あれは暖簾の中でも花嫁暖簾といって金沢で使われる嫁入り道具のひとつです。大方見た目が華やかだから気に入って盗んで来たんでしょう」


 大きく立派な暖簾なので立山と白樺、二人掛かりで松の木から外す。すると紅白の濃淡の中で家紋が堂々として眼前に広がった。二人の男の手の下で紅白の濃淡が強い風を受けはためく。その様子のなんと華美なこと。しかし二人の表情は重々しく硬かった。


「竜胆、どうぞ手に取ってご確認ください」


 宴会場に運び込まれた花嫁暖簾に竜胆は震える指で触れた。

 触れた指先から竜胆の内側に広がっていくのは夢とも幻ともつかぬ映像、おかとときから送られた膨大な情報が閃いて眩しく、竜胆の頭の奥がしびれる。しかしいつもとは違う良からぬ雰囲気に、竜胆はたまらず暖簾から指を放した。


「なんだかとても嫌な予感がするわ」


 竜胆がやっと吐き出した言葉はこれであった。

 次にやって来るおかとときは小さな客間で事足りるが、少々変わったことに商物と遊びを指定してきたのである。商物は惜菫ただ一人、他の商物は要らぬという。そして遊びは絵葉書の花かるたが良いというのである。


「商物と遊びの指定は前例が無いわけではありません。どうぞ動揺なさらぬよう」


 檜葉がそう耳元で告げたが、彼もまた暖簾に触れた後であるので緊張で声が震えていた。

 暖簾を通して伝えられたものは、おかとときの要望のほか、背後にうっすらと膜を張った底意地悪いたくらみのようなものであった。その内容ははっきりとせず、受け取る側の嫌悪だけが際立つだけだ。そのため一層気味悪く背筋が凍る心地がするのである。


「おかとときが商物と遊びを指定してきたということは、明日やって来るおかとときは得意客ということになるのかしら。知らなければ指定するということはできないから」

「その可能性もありますが、断言はできません」

「惜菫を指定してきたのは惜菫を知っているからではないの」

「普通に考えればそうなりますが……。別のおかとときから話を聞いて興味を持つこともあると思います。我々はおかとときの個の判別がつきませんから、得意客か一見さんなのか判断はできないのです」


 そこで竜胆は先日の昼に起きた惜菫の不思議な出来事を下男三人に打ち明けた。それを聞くなり三人は血相を変えた。


「なんと。では惜菫がおかとときに言葉を辿られたというのですか。あれほど気を付けるようにと日頃から念を押してきたというのに、あの木偶の坊どもときたら!」

「あまり言わないであげて頂戴。わたしが無理に惜菫に頼んだのも悪かったのよ」


 竜胆は心苦し気に言った。立山と白樺は眉間に深い皺を刻んでいる。


「ねえ、言葉を辿られた惜菫にこれから何が起きるの。惜菫はいったいどうなってしまうというの」

「分かりません。辿られた名前は惜菫のものではありませんから。それに名前の持ち主はこの屋敷にはいませんし、その女が誰なのかも我々は知りません。おかとときがその名前を辿ってどうするのかなんてのはもっと分かりません」

「明日来るおかとときと関係はあるのかしら」

「それも分かりません」



刊行シリーズ

八千草の兄妹 言の葉は川に流れるの書影
竜胆の乙女 わたしの中で永久に光るの書影