竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る

四 ⑤

 竜胆が控え目に微笑んだ。ちらりと横目で確認したが小男は微動だにしなかった。

 あの小男が何かを起こすのだろうか。それはおかとときがちらつかせた幕引きと関係があるのだろうか。彼の存在は疑心暗鬼に陥った私たちの心をかき乱していく。

 今宵のおかとときは少人数、一人から七人の間を行ったり来たり膨張と収縮を繰り返し、時には煙のようにたなびいたと思えば渦を巻いて竜胆らを取り囲む。彼等は機嫌よく高笑いを続けその声は絶えない。

 屋敷の人間もつられて笑うがどうにも頰は引きつるばかりである。竜胆も下男も普段のお愛想笑いを装いつつも、目の奥で狂気を含んだ光が破裂し続けるのを隠すことができなかった。私たちはとにかく恐ろしかった。笑い声はやたらと大きく常軌を逸していた。


「さあ皆様、絵葉書の花かるたの始まりでございます」


 竜胆が声を張り上げ惜菫をおかとときに見せた。おかとときが一斉に惜菫を囲んでいく。

 一人のおかとときが惜菫の皮膚から一本の枝を引いた。

──これは南天かね? 枝が赤く染まっているから。


「いいえお客様、南天は冬の植物でございまして、今宵は用意がございません。枝が赤く染まっているのは大変失礼いたしました。それはうちの玩具が勝手に染めたものでございまして」


──そうかい、じゃあはずれということだね。

 おかとときはそう言うと枝を惜菫の肌に突き刺した。腰紐のさるぐつわから惜菫の悲鳴が漏れた。答えが外れたというのにおかとときは悲鳴を聞いて満足げである。もしも惜菫の目が兵児帯で厚く覆われていなければ、おかとときは喜々として彼の目に植物を差し入れただろう。

 他のおかとときが割り込んできた。

──あらだめよ、あなた絵葉書をちゃあんと御覧なさいよ。南天はこの中に無いでしょう。あたくしこの遊び好きだから詳しいのよ。ねえ竜胆、あたくしねえ、木槿の花が欲しいのよ。白くって、内側が紅色で、とっても美しいわ。


「ええ、左様でございますね。木槿は庭木でございます。したがって枝はやや細め、人差し指程度の太さの枝にそれより細かな枝がたくさんついております。そして寂しい秋の色をしております」


──わかったわ、これね。

 おかとときが一本惜菫の皮膚から秋色の庭木を抜き取った。途端に裸だった枝から葉と花が生えて見事な木槿の木になった。おかとときが望んだ白の木槿の大きな花がいくつも枝にぶら下がって重そうである。

 おかとときが見事正解したので下男たちは歓声を上げて手を叩いた。竜胆も普段より高い声でほほほと笑う。おかとときは満足げに笑っている。


「お見事でございます。お客様のお選びになったそれがまさしく木槿の花でございます」


 木槿の枝で穴の開いていた惜菫の皮膚は塞がり元通りになっている。おかとときが当てれば皮膚の傷は癒えることになっているらしい。

──さあ次は自分が当てて見せようか。

 次のおかとときが惜菫に手を伸ばした。

 竜胆が大袈裟に笑って持て成しているというのに、下男たちもわざとらしく騒いで盛り上げているというのに、おかとときも笑っているというのに。やはりこの場の空気に底意地悪い企みがうっすら膜を張っていて、一刻も油断ならない。竜胆も下男たちも背中にじっとりと汗をかきながら恐ろしい綱渡りをしている心地である。

 後方でじっと正座をしている紋付き袴の小柄な男、やはり気になって仕方がない。小男の身体はおかとときのように伸びたり縮んだりを繰り返すことはない。ひょっとしたら人間なのかもしれないと竜胆も下男も疑った。しかしその顔は藍、臙脂、緑、黄土、紫五色の布に覆われているために確認できないのである。

 一本、また一本と茎と枝が抜かれ葉と花が咲き、客間は瘴気と咲き乱れる晩夏と秋の花で溢れんばかりであった。

 最後の一本であるふじばかまが派手に咲き乱れたとき、おかとときの一人が紋付き袴の男を呼び寄せた。

──さあお前、こっちにおいで。

 私たちは思わず息を吞んだ。

 紋付き袴の男はゆっくりと立ち上がった。そしてのろのろとこちらに近づいてきた。よく見ると足が震えている。震えのために上手く歩けないのだった。

──今まで放っておいて悪かったよ。お前にも楽しいことをさせてやらないとね。

 一人のおかとときが小男の耳元で囁き、惜菫の前に立つよう促した。

 小男は、目を覆われ口を塞がれている惜菫の前に立った。

──もっと近くに寄りなさい。

 小男が一歩近寄る。

──もっと、もっとだよ。

 おかとときが囁き、小男が一歩寄る。もっと。一歩寄る、もっと。

 場はしんと静まり返っている。この先何が起こるか分からないので竜胆も下男も身動きを取れないでいる。ただ、うっすらと膜を張っていた底意地悪い企みが形になってこの場に降りてきたことは肌で感じていた。良くない予感を覚えつつ、これから始まることを固唾を吞んで見守るしかなかった。

 小男がもうこれ以上惜菫に近寄ることができない距離に来たとき、おかとときが言った。

──さあお前、そいつのくつわを外してごらん。

 小男が恐る恐る手を伸ばした。男の手は思ったよりも白くなよやかである。

 惜菫が嚙まされている腰紐は後頭部できつく結ばれていた。そのために男は惜菫の頭を抱える形になる。暫くして腰紐はぱさりと畳の上におちた。薄桃色の腰紐は惜菫の唾液を含んだ部分だけ濃い赤色に染まり、少しだけ糸を引いていた。

 口が自由になった惜菫は二、三度大きなせきをして、喉から奇妙な音を漏らした。それは嵐の晩の風の音にも獣が唸るような声にも似ていた。可哀想に、この頃にはもう喉は渇ききって人間の声が出ないらしかった。この奇妙な音は惜菫が呼吸をする度に漏れた。時計の秒針のような調子であった。

──さあお前、今度は目隠しを外してごらん。

 おかとときが男に囁くと、彼の顔を覆う五色の布の奥から乱れた呼吸の音が聞こえた。男の白い手は震えきっていたので、惜菫の目を覆う兵児帯はなかなか外れなかった。

 柔らかな兵児帯が漸く惜菫の視界を解放したとき、男はひ、と悲鳴を上げてった。その声を聞き、竜胆をはじめその場一同はっとした。


はるさん……」


 彼はそう言って震える両手を自分の胸元にやった。しかしその声はどう聞いても女のものだった。

 おかとときの影が興奮したように膨張と分裂を繰り返し二人を取り囲んだ。

 途端に紋付き袴の人物の顔を覆っていた藍、臙脂、緑、黄土、紫五色の布は強い風を浴びたかのように鮮やかに高く舞い上がり、人物の顔を露わにした。その顔の正体は三十半ばほどの女であった。

 女の顔を見た惜菫は狼狽し、何かをしきりに声に出したが、嵐か獣のそれにしかならなかった。漸く声になったとき、ひとつの名前が紡がれた。


「てつ子さん……」


 花かるたの遊びでしようすいしきった惜菫は意識がもうろうとしていた。

 立山が部屋の隅から薬缶やかんを奪って惜菫にじかに水を飲ませた。水のもとで咳き込む惜菫の傍に、てつ子はけなげにも腰を下ろす。その肌が、衣服が、惜菫の口からだらしなく垂れる水で汚れようとも構わぬ様子で、涙を浮かべまくし立てた。


「嗚呼、婚儀のさなか、晴巳さんがこつぜんと姿を消してからもう十七年、もう諦めていたけれど、こんなところにいらっしゃったのね。お可哀想に、こんな得体のしれないところでこんな責め苦を受け続けていたなんて。わたし、わたし、ずっと晴巳さんを待っていました」


 おかとときに引かれ時間の止まった惜菫は二十半ば、しかしてつ子は時を重ね今や惜菫よりも年上になっていた。

 それでも惜菫にとってはそんなことは何の問題にもならなかった。十七年ぶりに顔を見たかつての婚約者に胸がいっぱいになっていたのである。

──どうだい、感動的な再会じゃあないか。

 おかとときが喜びのあまり分裂を繰り返してしきりに手を叩いた。

──思い出すわ。夜のとばりの裾の方で何だか賑やかな音がするから、行って見たら結婚式というやつだったのよ。

──そしたら花婿と花嫁とがそれは綺麗な格好をしているじゃあないか。二人連れて帰ろうと思ったんだ。

──だけどもね、途中で通りかかった先代の竜胆に言いくるめられて花婿の方しか連れて帰れなかったのよ。


刊行シリーズ

八千草の兄妹 言の葉は川に流れるの書影
竜胆の乙女 わたしの中で永久に光るの書影