竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る

四 ⑥

──あの男は口が上手いからね。確かに暫くは楽しいものが見られたけれど。

──とはいえあの男の企みが知れ渡った今、もう幕引きなのよ。だから自分の玩具を迎えに来たというわけ。その男に刻まれている徴は正真正銘あのときあたくしが刻んだものだわ。

 惜菫は反射的に左足の徴に手を触れた。

──迎えが怖いかい。だが安心するがいいよ、お前ひとり連れて帰るんじゃない。花婿が一人ぼっちじゃ寂しいだろう。今回はちゃんと花嫁の方も連れて帰っていくから。

 途端に惜菫は取り乱し、おかとときに向かって頭を畳に擦り付けた。


「あ、嗚呼、どうかお許しを。連れて行くというなら自分一人だけで十分です。てつ子さんだけはどうぞ見逃してください。後生ですから」

「晴巳さん、あなたが行くというのならわたしもお供します。もう十七年も待ったんです。今更あなたを独りにはしないわ」

「てつ子さん、あなたは事の重大さが分かっていないんだ。これから行くのは地獄のような恐ろしい場所だ。そこでは僕がさっきされていたようなことをされてしまうのですよ。嗚呼、言葉を辿られてしまったばかりにこんなことが起きるだなんて」

「いいえ晴巳さん。どんな責め苦を受けようとも、あなたのいない苦痛に比べればずっとましです。地獄であろうと何であろうとわたしはお供いたします」


──いやあ麗しい夫婦愛。じつに泣けるじゃないか。

 おかとときは満足げに笑った。黒い影が膨張して高笑いをしながら夫婦二人を囲もうとする。

 そこに割り込んだのは竜胆である。竜胆は惜菫とてつ子を背で守るように立ちはだかった。


「さすがお客様、離れ離れになっていた夫婦を引き合わせるとは、まことに素晴らしい趣向にございます。わたくし感動のあまり震えが止まりません。しかし、惜菫はわたくしの商物、取られてしまっては今後の商売が成り立ちません。どうにかお許しいただけないでしょうか」


 竜胆はかんと笑いながら声を張り上げた。しかし歯の根が合わずがちがちと鳴る。

──あら、幕引きの意味、ご存じないのかしら。もうお前たちの商売は終わりなのよ。これまでお前たちをのさばらせてきたこと、みんな後悔しているわ。


「まあそんな寂しいことおっしゃらないでください。先代からのよしみじゃございませんか」


──その先代に我々はしてやられたのだよ。散々上手いことを言っておいて、我らが主の所有にある梗子殿に手を出した。まさかお前が梗子殿と先代の間に生まれた忌み子だったとはね。

 竜胆は眉を顰めた。


「は、わたくしが、でございますか……」


 竜胆は母親を知らなかった。生まれたときから存在は無く、父に尋ねても母の顔も名前も知らされなかったのだ。それが今、梗子だと明かされている。


「それはどういうことですか、主とは、梗子殿とはどなたなのですか……」


──我々には秩序がある。我らが主は絶対的存在。主のことをおいそれと教えてやるわけにはいかぬのだ。


「お待ちください。その主という方と、わたくしが引かれないということと、なにか関係はあるのですか」


──もう頃合いでしょ。

 突き放すような物言いに、その場にいた一同が身を硬直させた。背筋の中に細い氷の柱がぴんと張り詰めるような感覚であった。


「竜胆、僕はてつ子さんとあちら側に行きます」


 竜胆の背後で声がした。竜胆ははっとして振り向き、半ば取り乱しながら惜菫の袖を摑んだ。


「惜菫、あなた藤潜の話を聞いていたでしょう。あちら側がどんな恐ろしい場所であるか、あなたはよく知っているじゃないの」

「確かにあそこは恐ろしい場所だ。でも、てつ子さんのいない恐怖に比べれば大したことはない」


 惜菫がてつ子の手を取って立ち上がった。傍らに立ったてつ子は真っ直ぐ惜菫を見つめ、惜菫もまたてつ子を見つめる。それは憂いを纏う普段の惜菫からは想像もできぬほど慈愛に満ちた柔らかな表情であった。そこに立っているのは「惜菫」ではなく「晴巳」であった。

──そろそろ夜が明けるわ。お開きとしましょう。さあ、引いていくわ。

 おかとときが腕を振り上げた。てつ子の左足が赤く光り、足の裏に惜菫と同じ徴が刻まれていく。


「てつ子さん、これから僕の傍にいてくれるかい」

「ええ晴巳さん。ずっとこの日を夢見てきました」


 寄り添った二人はおかとときの黒い影に覆われて次第に姿が見えなくなった。二人を吞み込んだおかとときは暴発するかのような膨張を一度すると、黒い糸がほつれるように徐々に姿を解いていって、しまいにはすっかりその場から消えてしまった。

 天井からばらばらと銭と紙幣が降ってくる。竜胆、檜葉、立山、白樺、この四人はそれを拾うこともせず、ただぼうぜんとそこに立ち尽くすのみであった。

【六五分三三秒】




刊行シリーズ

八千草の兄妹 言の葉は川に流れるの書影
竜胆の乙女 わたしの中で永久に光るの書影