竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る
五 ①
八畳の裏座敷、邪魔だと言わんばかりに足を畳まれた
「
「もしもそうだとして、藤潜と八十椿まで居なくなったとしたら、その先おれ達は一体どうなるんだ。商物がなくなったら商売はできない」
「おかととき側が幕引きだと言っていたということは、おれ達は晴れてお役御免になるってことだろうか」
「そんな吞気な結末を迎えりゃいいが、実際のところそうとはとても思えない」
竜胆は会話には加わらなかった。三人の
椅子に腰掛けた美しい娘と、その膝に座る一匹の黒猫、娘の頭上で遊ぶ二羽の金糸雀が裏座敷の古ぼけた畳の上に広がった。
艶やかな黒髪の廂髪、伸びた背筋、添えられた白い指のなよやかさ。何度眺めてもこの娘から溢れる優しさと温かさに心安らぐ思いがするが、よもやこの娘が己の母親であるとは竜胆は想像だにしなかった。
おかとときの話では、梗子はおかとときの絶対的存在である「主」の所有にあるといい、父はその梗子に手を出したという話である。
父がどういういきさつでそんなことをするに至ったか、そして自分は一体何者であるのか、それを知りたいと思うほどにつけ強くなるのは失われた文の惜しさである。
亡くしたばかりの父と会ったことのない母への思慕が募るあまり、竜胆はふいに面を上げ、下男の三人に向かって言った。
「この掛け軸に描かれた方はわたしのお母様だった。わたしは生まれたときから一度もお母様にお会いしたことはないし、お名前さえ聞かされなかったけれども、ねえ、お前たちはわたしのお母様と何か深い縁があったのよね。お父様とお母様とお前たちと、何かひとつでも思い出せるものはないかしら。あったら是非聞かせて貰えないかしら」
途端に下男三人の会話がぴたりと止んだ。
白熱した議論の後に訪れた突如の静寂に、竜胆ははっとした。三人に掛け軸を初めて見せたときのことを思い出したのである。掛け軸を見た三人は息も絶え絶え、今にも死にそうな様子であった。もうこれ以上見たくないと竜胆に懇願してくる姿は実に痛ましいものであり、竜胆の心を強く動かしたはずであった。
軽率なことを口走ってしまったと思い、竜胆は慌てて撤回する。
「いいえ、聞かなかったことにして頂戴。お前たちの身体に酷だわ」
竜胆は美人画が三人の視界に入らぬよう隠すようにさっと仕舞った。しかし下男の三人は無言で立ち上がり、竜胆の手から掛け軸を取った。
再び娘の姿を見た三人の顔に浮かんだのは、緊張ではなく涙であった。三人は掛け軸を手にしたまま静かに泣き始めた。
「竜胆、どうか八十椿にお尋ねください。あいつは竜胆の文の内容を知っている。この方のことも書いてあったかもしれない。この方は竜胆にとって大切な御母様でいらっしゃいますが、おそらく我々にとっても大切な方なのです。我々がどうしてもここにいなければいけない理由は、きっとこの方にある」
端整な容貌の剝製を被ったような三人だが、目から溢れて止まらない涙は熱く、悲しく、本物としかいいようがなかった。
私は竜胆と裏座敷を後にした。裏座敷は火が消えたように静まり、先程のような白熱した話し合いが再開される様子はなかった。
惜菫が婚約者のてつ子と共に本来の持ち主であるおかとときに連れ戻されたことを知り、激しく動揺したのは藤潜である。
藤潜は己にも本来の持ち主であるおかとときが迎えに来るのではないかと怯え始めた。
竜胆が離れを訪れた際も、襖の開く音、畳の擦れる音、ひとつひとつに怯えて会話にならなかった。
「藤潜。落ち着いて頂戴。今日は松の木には何の知らせも無かったわ。少なくとも今日と明日はおかとときはやって来ない。あなたを脅かすものは何もないわ」
しかし竜胆がそう言っても藤潜は納得しない。ひどく錯乱して一言も声を出さないようにしている。
「下手に声を出しておかとときに辿られたらと思うと怖いんだよ。惜菫はそうやって迎えに来られてしまったから」
八十椿が二つの箱膳を見やりながら投げるように言った。
箱膳の一つは食器は空になっていたが、一つはまだ味噌汁も煮物も残っておりすっかり冷えていた。藤潜は一切口をつけなかった。いつも三つ運ばれてくる箱膳が二つしかないのを見て、ひどく動揺してしまったのである。
「八十椿、あなたは藤潜と違って堂々としているのね。あなたはおかとときの迎えが怖くないの」
「うん、まあ」
「それはお父様の文を読んでいるからなのかしら。文にどうしたらいいのかが書いてあったから、知っているから、落ち着いていられるのね」
「そういう意地悪を言わないでほしいなあ」
八十椿はのんびりとした声で竜胆の感情的な声を制した。
「確かにぼくは全てを知っているけど、問題を解決できるわけじゃないよ」
「全てを知っているというのなら、お母様の、梗子のことも知っているということね」
「うん、知っている。きみのお父っさんのことも、おっ
八十椿が挑発するような物言いをするので、竜胆はますます感情的になった。
「だったら早く教えてくださる? みんな困っているのよ。わたしも、檜葉も、立山も、白樺も。藤潜だってあんなに震えている。惜菫は納得して行ってしまったけれど、藤潜は迎えを怖がっているわ」
竜胆が燃えるような声で言った。その炎をかき消すように八十椿が素っ気なく返す。
「でも教えることはできないよ、竜胆。だって言ったろう。ぼくは、失敗するきみが見たいだけなんだって」
二人は暫く見つめ合った。
「あなたはどうしてわたしをそんなに失敗させたいのかしら。あなたは腕を失わせたわたしを恨んでいないと言ったわ。お父様を憎んでいる様子もない。じゃあ、一体何があなたをそうさせるの」
竜胆が静かにそう言った。
「あなたは何か大きな秘密を抱えているわね。それも、ひとりきりで。そこにわたしを巻き込もうとしている」
八十椿が少しだけ怯んだように見えた。
「あなたの抱える秘密の向こう側に本当のあなたが見えるわ。今はまだ靄のようなものだけれど、八十椿、わたしはいつか本当のあなたに会うことができるのかしら。金平糖を拾ったときから、わたしはあなたのその寂しそうな目が気になっているの」
八十椿の表情が
「寂しそうな目をしていた? あのときのぼくが?」
それはいたずらを見透かされた子供が拗ねている姿にも似ていた。八十椿は何か言い返してやろうと思ったらしかったが、返す言葉が見当たらないらしかった。
ややあって八十椿が苦し気に言った。
「きみは文を台無しにしたぼくが憎いかい」
竜胆は答えなかった。
「きみもぼくにおかとときみたく酷いことをしたいと思っているかい」
この問いにも答えなかった。
誰も話さなくなったので竜胆は箱膳を片付けることにした。普段は下男の三人、大抵は立山と白樺が決まった時間に離れにやって来て台所まで持っていくのだが、今日は藤潜が食べないので予定が狂ってしまった。藤潜はきっと今夜は食べないだろうと私たちは判断した。
竜胆が箱膳を持って離れを出ていこうとしたとき、八十椿が突然大きな声を出した。
「待って!」
洋灯が急に点滅し始めた。
藤潜が絶叫に近い悲鳴を上げる。
辺りを見渡すと確かに何かが起こっている気配がする。何かがこちらに忍び寄ってくるような微かな音と空気がするのである。竜胆は箱膳を置いて廊下を覗き込んだ。しかし変わった様子は何もない。
「いらしった」
八十椿が言った。



