竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る

六 ①

 梗子は金沢の門閥の生まれであったが、生来足が不自由であった。そして母と乳母は梗子の幼い頃に運悪くり病で亡くなってしまった。

 母と乳母の訃報を聞いて血相を変えたのは祖父であった。この厳格な祖父は左の足を引き摺って寄ってくる孫娘を忌み嫌っていた。母と乳母の死を悼む気持ちも相まって、この不吉な孫娘を一族の住む屋敷から離れた場所に移した。そこに通って良いのは数人の女中のみ、共に暮らすのは黒猫一匹と金糸雀二羽、足の不自由な梗子にとってそれは事実上の幽閉であった。

 父も兄も梗子のすみを訪れることはなかった。梗子が顔を合わせる人間は数人の女中であったが、祖父からきつく言われているのであろう。彼女たちは梗子とは必要最低限のこと以外は口を利くことはなかった。

 孤独な梗子の心を慰めるものは記憶の中にある母と乳母の優しい手と声、そして黒猫のネロオ、金糸雀のクレイとワアドであった。この黒猫と金糸雀は、梗子が物心ついた頃には傍にいた。彼等は勝手気ままに梗子の膝や肩に乗り、鳴いたりさえずったりで賑やかであったが、誰ひとりとして梗子の足を悪く言うものはいない。それは梗子には何よりも嬉しいことであった。

 黒猫と金糸雀とじゃれ合っている内にも時間は確実に過ぎてゆく。梗子の足もまた悪化の一途をたどり、とうとう右の足までもが思うようにいかなくなった。梗子が十七になった頃のことである。

 女中が帰り、日が沈んで夜の帳が降りた頃、梗子はひっそりと庭に出て歩く練習を始めた。

 その日は雲が多く月の光が弱弱しかった。梗子はつえにしがみつき、がむしゃらに右足を突き動かした。後ろでネロオが梗子の名を呼ぶように鳴いているのが聞こえたが、振り向く余裕はなかった。この間まで血の通っていた温かい右足が、だんだんと木の幹のように固くなっていく恐ろしさは梗子にしか分からない。

 結局のところ梗子の足は動かなかった。いくら練習しても無駄だったのだ。

 足の甲に一滴、二滴としずくが零れる。足が不自由である己を誰よりも忌み嫌っているのは祖父ではなく梗子自身であった。どれほど憎く思っても、悔しく思っても、梗子の足は動かない。

 そのとき夜風が強く吹いた。

 左の足がまるで水に踏み入れたときのような感覚に陥った。今までにない新しい感覚である。暗い夜の冷気に足を浸したような気持ちだ。

 寄せる波と砂浜との間に境界があるように、夜にもまた現世と異界の境界がある。梗子の左足の皮膚が夜風の輪郭を撫でていく。それは寄せる波の白い輪郭をなぞる感覚に似ていた。風をそう錯覚した瞬間、梗子は見たこともない世界に立っていた。

 そこは上も下もなく西も東もないような黒い世界であった。

 どこまでも広がる漆黒の中にうっすらと紫の入り混じった靄がかかっている。目を凝らせば金剛を砕いたような光の粒が砂嵐のように流れていくのが見える。夢のように美しいがどこか寒々とするものがあり、梗子はぐにここが現世ではないことを悟った。

 奇妙なことにここでは梗子の両足は自由に動いたのである。右足が元のように動くのはもとより動いたことのない左足までもが動くのが嬉しくなって、梗子は気が付けば紫の漆黒の中を駆けまわっていた。

 夢のように美しい世界だが本当に夢の中なのかもしれない。しかし今はそんなことはどうでもいい。これまでの分を取り戻すかのように梗子は夢中で走った。

 どれだけ走れば元が取れるだろうかと思ったところに、前方に光が見えた。漂う光とは違い見慣れた人工の光である。それが提灯の光であるとすぐに気付いて、梗子はその持ち主に声を掛けた。恐怖は無かった。自分の足で駆けることのできた喜びが勝っていたのである。


「すみません、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


 梗子の声に振り向いたのは自分よりも少し上の年の頃の男である。男は梗子の姿を見るなり驚いて、間髪をれずに言った。


「お嬢さん、どちらからいらしったんですか。初めて見る顔ですね。ここは危ない場所です。すぐにお帰りなさい」


 男は紫色の羽織を着ていた。提灯はよく見ると竜胆の花の紋が入っている。


「帰りなさいと言われましても、でもわたし、どうやってここに来たのか分からないんですの。来た道が分からないのですから帰る道も当然分かりませんわ。それに、ここはそんなに危険な場所なのでしょうか。ここに来てから悪かった足が治って自由に歩くことができます。こんなに歩けたのは生まれて初めてなので、心躍るようです」

「気持ちはよくわかりますよ。ここに迷い込む人間は決まってそうでね、きみは大方足が悪いんでしょう。でもここに来ると悪かったはずのところが却ってわたるんだ。僕の左耳だってここでは右耳以上によく聞こえる。きみの足みたいにね」


 男は自分の左耳を人差し指でとんとんと叩いた。


「でもね、ここはまだ境目だからいいけれども、更に奥へ行くと取り返しのつかないことになりますよ。あちら側は地獄のような場所です。もしもあちら側に住む異形に連れて行かれてしまったら、きみは二度と元の家には戻れない。お父っさんおっ母さんの顔も二度と見られないことになりますよ」

「つまりわたしは死んだのでしょうか?」


 梗子が言うと男は急に大きな声でかかかと笑った。


「そういう意味じゃあない。でも僕の説明が悪かったな。あれじゃここがさんかわだと勘違いするのも無理はない」


 笑い続ける男に梗子はさらに尋ねた。


「奥へ行くと取り返しがつかないということは、もうこれ以上は進まない方がよろしいのでしょうか」

「いやあ、奥というのはそういう意味じゃないんだ。ここは言葉で説明するのは無意味だからなあ。上手くいかなくてもどかしいよ。ここはどこまでも開けていてどこまでも行けるような気がするが、縦横斜めどこへ行っても実は輪になった一方通行の道なんだ。例えばきみがここから右に向かって真っすぐ走って行ったとしますね。するといつかは立ち止まっている僕の背中が見えてくることになる。運動場をまわり続ける感じといえばいいか」

「どういうことでしょうか」

「じゃあちょっときみ、前に五歩進んで後ろを振り返って御覧なさい」


 梗子は言われた通り前に五歩進んでから後ろを振り返った。すると、さっきまでいた男の姿はどこにもなかったのである。梗子はぎくりとした。


「僕の姿が見えなくて驚いたでしょう。そういうことなんです。ここは広いように見えてただ同じ場所をぐるぐるまわっているだけなんだ」


 背後から男がぬっと現れた。置いて行かれたわけではないとわかり梗子は安堵した。


「これより奥に行けるのは人間じゃない連中だ。人間なんか普通は行けないけれどもね、何かの拍子に行ってしまうといけないから、だからすぐに戻った方がいいんだ」

「でも一方通行で同じ場所をぐるぐるまわるだけなら戻ることもできないんじゃないでしょうか」


 梗子がそう言うと男はふふふと笑った。その笑い方が存外優しかったので梗子は少しどぎまぎした。ネロオ達以外と話すのは久しぶりだからかもしれない。それにしたってこの胸の高鳴りはこれまで感じたことのない類のものだ。


「それに答えるにはもう少し説明が必要だね。まあちょっと御覧なさい。そら、そこの蠟燭、消えているでしょう」


 男が指さした先には蠟燭立てがあり、そこに竜胆の花の絵が描かれた蠟燭が突き刺さっていた。男の言うように火は消えている。


「これはさっき僕が火をつけたやつなんですがね、一周して戻ってきた今、火は消えている。火が消えているというのは異形の連中が通って奥へ行った証なんです」


 梗子が少し身構えた。


「なあに心配は要りません。連中はもう奥へ行ってしまいましたからね。それよりほら、よく見てください」


 男は梗子がよく見えるように提灯を先へやった。その先に落ちているのは鹿子がのこの座布団であった。


「連中はね、この世で美しいと思ったものは何でも異界に持って帰ってしまうんですよ。だけど、持って帰る途中でここに落っことしていくことがあるんです。物だって急にさらわれてこんなところに落とされたんじゃ気の毒だ。持ち主のところに帰りたいでしょう。だから僕は元の場所に戻してやっているんです」



刊行シリーズ

八千草の兄妹 言の葉は川に流れるの書影
竜胆の乙女 わたしの中で永久に光るの書影