竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る
六 ②
男は提灯を梗子に渡し、代わりに緋鹿子の座布団を拾って左耳に当てた。
男は左耳を当てたまま瞼を閉じた。静謐な時間であった。男は座布団の持つ空気や温かさやそれの持つ時間の厚みを左耳を通して聞いているらしかった。
暫くしてから男は座布団から耳を離して、今度は金剛の光の粒の舞う紫色の靄に向かって耳を澄ませた。上でもなく下でもなく東でもなく西でもない場所にまんべんなく、緋鹿子の座布団から受け取った音と一致するものを探しているのである。
「ああそこか、見つけたぞ。お前はそこから来たんだな」
そう言うや否や男は緋鹿子の座布団を右斜め後ろの方へ放った。
「あの座布団の正体は金魚だったのですか」
「いいえ、逆です。僕が座布団を金魚にしてやったのです。持ち主のところに戻ったらまた、座布団に戻るはずですよ」
「あなたは物の形を変えることができるのですか」
「ええ、ちょっとした特技です」
「はあ」
梗子はまるで手品でも見ているかのような心地でいた。
「あなたはいつもこんなことをしていらっしゃるんですか」
「そうですよ。攫われた物が落ちていれば元の場所に帰してやるし、迷い込んでいる人がいれば帰してやるし」
「お優しいんですのね」
梗子は言った。自然に発せられた言葉だが思いのほか自分の声が柔らかだったので妙な恥ずかしさを覚えた。熱くなる頰に手をやっていると男が言う。
「別に優しくはないですよ。中途半端です」
梗子がおやと思っているとふいに提灯の光が明滅を繰り返した。火が大きくなったり小さくなったり、かと思えば急に消えたりついたりするのである。
「あっ、まずい」
風もないのに妙な話である。梗子が首を傾げている隣で男は慌て始めた。焦っているのかやや早口で、さっきまでの悠然とした語り口とは打って変わった様子である。
「いけない。火を消して、身をかがめて、どうか静かに。いいですかお嬢さん、連中の姿がどんなに恐ろしく感じられても絶対に声を出してはいけませんよ。あとは僕の言うとおりに」
梗子に火を消してと言ったくせに慌てた男は自分でふっと一息に火を消した。途端に黒と紫の靄と光の粒が降りてきて色濃くなった。紫の靄が煙のように二人の身体に纏わりつく。光の瞬きが繰り返されるのを見ていると随分と黒が濃くなってきたなと思う瞬間が訪れた。その矢先のことである。
静かに、尾を引くようにして、夜の闇とは違う色の濃い闇がいくつもいくつも目の前を横切っていく。それはぬっと現れては人の形になるようだけれども、じっと見れば靄とも雲ともなって形が定まらない。伸びたり縮んだりを繰り返すが、目を凝らして見ると背に冷たいものがぞわぞわと這いまわるようである。梗子は思わず目を逸らし隣にいる男の
「無理をしてまで見ない方がいいですよ。僕の後ろにでも隠れていなさい」
言われたとおり男の背中に隠れようとそっと頰を横に向けたとき、目に入ったのは印半纏を羽織った男の背中であった。普段は威勢のいい職人なのかもしれないが、今は異形に囲まれしょんぼりと背中を丸めて歩いている。顔はここからでは見えない。彼は伸びたり縮んだりを繰り返さないれっきとした人である。
「ねえ、人が交ざっているわ」
「分かっています。いいから黙って」
男が梗子の声を遮るのとほぼ同じ頃、異形のひとつが声を出した。
──おや何やら音がする。なんだろうか。
梗子ははっとして口元に手を当てた。しかし妙なことに見つかった恐怖よりも異形の声を恐ろしく思う気持ちの方が勝った。その声は男とも女ともつかず、また二重にも三重にもなって響く居心地の悪い響きを伴っていた。重く太い声で響くのに、耳を澄ますと中に一本氷のような硬い芯が通っていて気味が悪い。
紫の羽織を着た背中が、震える梗子を隠すようにぴんと伸びた。梗子とは対照的に男は落ち着いていた。男は声を張り上げた。
「御無礼をどうぞお許しください。わたくしは紛れ込んだ秋の風。寂しくか細い秋を告げようと月の光を追っていたらこちらに迷い込んでしまいました。すぐに過ぎますのでどうぞお見逃しください」
──なるほど秋風か。聞くところによると風でも特に秋の風はとてもよく喋りよく歌うと聞いている。
──あたくし風は好きだわ。秋の風は特に好きよ。家
闇の塊が膨張を繰り返しながら秋風を名乗った男に迫った。
──お前は風か。
「そうでございます」
──ではお前の隣にいるのは何かね。
異形は紫の羽織の後ろに隠れている存在に目ざとく気付いた。異形の声は冷たく鋭く梗子の心を刺す。梗子は恐ろしさのため声も出せない。
「これはわたくしの妹の雪でございます。冬はまだ遠く
──ではやってごらん。
男が梗子の袖を引いて目配せした。叱責するような鋭い目で睨まれるかと思っていたが、意外にも慈しむような優しい目をしていた。まるで本当の
──なるほど悪くないわ。
──生まれたばかりの今でこれなら冬になったらさぞ美しかろう。気に入った、持って帰ろうか。
「いいえお待ちください。妹は雪、形なきものを連れて帰ることはできません。それに雪は溶けて水となります。持って帰った頃には別物になっているかと」
──美しさは維持できないというのかね。
「ええ、ええ、風流好みの皆様がお持ちになるものではございません。どうぞおやめください」
途端に異形は興味が失せたと見え、破裂するほど大きく膨張した。かと思うと分裂を始めて人に似た形をたくさん作り行列となった。それはまるで狐の嫁入りのように行列をなして梗子たちの前を横切って消えて行った。霧のような消え方である。印半纏を着た男の姿も異形と共に消えていった。
「終わったのでしょうか」
「何とか終わりました。しかし間一髪だった。もう少しでお嬢さんを持って帰られるところだった」
「あの、あなたは秋の風なのですか」
「まさかまさか。僕が秋の風ならきみも生まれたばかりの雪になってしまいますよ。僕たちはれっきとした人間です」
れっきとした人間という言葉が梗子には力強く感じられた。それは異界の光の粒よりも蠟燭の火よりも強く明るく輝いて見えた。
「あの、危ないところを助けて守ってくださいまして
「なあに、礼には及びませんよ」
「でも、あの、ねえ、あの人。連れていかれてしまったわ」
「ああ、印半纏のあの男か。気の毒だが、彼はきみのように迷い込んだ人と違って既にあの異形の所有にあるんだ。ああなると僕の手に負える
そう言うと男は口を
男は梗子に見つめられていることに気付いたらしかった。しかし見られている理由が梗子が不安に思っているからだと勘違いしたらしく、梗子を元気づけるように力強い声で励ました。
「安心なさい。きみはちゃんと家に帰してあげます」
男は提灯の蠟燭に再度火をつけると、梗子の足元をじっと見つめた。
「どちらの足がお悪いんですか」
「お恥ずかしい話ですが両方です。左の方が特に悪いんですの」



