竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る

六 ③

「では左の足を少しだけ上げて、夜の帳の境界線をお探しなさい。ここに来た時のことをようく思い出して同じことをするんです。来ることができたなら帰ることもできるはずです」


 梗子は言われたとおりここに来たときのことを思い出そうとした。そして一旦取りやめた。


「待ってください。あの、ひとつお願いがあるんです。わたしは両の足が悪いのです。元の場所に戻ったとしても、独りで家の中まで辿り着くことができません。どうか一緒に来て、わたしの手を家の中まで引いてくださいませんか」


 両の足が悪くとも杖があれば時間はかかれど戻ることはできる。杖がなくとも這いつくばって戻ればよい。異形扱いで生きてきた梗子が夜中に地面を這おうとて今更何の問題があろうか。

 梗子はささやかな噓を吐いた。


「ああ、そういうことでしたか。わかりました」


 男は朗らかにそう言った。男の顔に疑いはない。ただ善良なる親切心が紫の羽織を着て歩いている。梗子は疑われなかったことに安堵したが、しかし少し憎らしい気持ちも感じていた。こんな気持ちは初めてだった。

 梗子が知る世界は祖父が買い与えたあの小さな離れ家と、そこにネロオとクレイとワアドと口を利かない女中たちと過ごした十七年ですべてであった。しかしその中に突如紫の羽織を着た男が現れたのである。出会ってたった数分しか経っていないというのに、この男は十七年の厚みをぽんと飛び越えて梗子の前に立った。母と乳母と祖父のために流したあんたんたる涙、それはついさっきのことだというのに、今はどうしても思い出せない。この紫の男のことしか考えることができないでいる。

 己の気持ちに翻弄されている内に梗子は夜の帳を抜けていた。

 はっとする梗子の手を男は約束通り取って、家まで引いてくれた。男に手を引かれながら、ああここはさっき涙を落した庭だとぼんやりと考える。縁側でネロオがおおんと鳴いた。その声がいつもよりもいとしく感じられるのが不思議だ。


「おや猫がいますね。あれはあなたの猫ですか」

「ええ、ネロオといいます。急にわたしが消えたから心配して待っていたんですわ。あれは猫のくせに本当に心配性なんですよ。クレイとワアドという金糸雀も二羽飼っているんですけれど、そっちはネロオと違って能天気なんですけれどもね」


 意気揚々と喋る梗子の姿に男がふふと笑った。また優しい笑みである。


「きみは見た目に反して随分お喋りなんですね。人形みたいな姿をしているからもっとおしとやかだと思っていた」


 言われて自分がお喋りな人間なのかどうか考えた。人と喋ったことがないからわからない。しかしそういう面もあるのかもしれない。この男と話していると次々と新しい自分に出会う。

 男は障子戸を引いて梗子を縁側から中に入れてやった。ネロオが待っていたとばかりに梗子の足元に纏わりついてぬあぬあ鳴いた。


「今日は疲れたでしょう。恐ろしいことに巻き込んでしまってすみません」

「あなたが謝ることではないわ。あなたはわたしを助けてくださったのよ」

「しかし連中に顔を見られてしまった。僕はそれがどうも気がかりで。おそらくきみは連中好みなんだろう。もう二度とあそこには行かない方がいい」

「ではもうあなたには会えないということですか」

「僕に会うのはどうでもいい。あそこに来て自由に歩けることは嬉しいだろうが、身の安全を第一に考えなさい。きみが所有されたら僕でも助けられない」


 それから男は少し黙った。何か深刻に思い悩んでいる様子であった。


「そう、助けられないんだ。やはり顔を見られたのはまずかったよ。ひょっとしたら今日会ったのから話が広まってきみを欲しがる連中が増えるかもしれない。きみが欲しくてこちら側にまでやって来るのが出てくるかもわからない。心配だ」

「お待ちになって」


 梗子は家具伝いに部屋の奥まで入り、引き出しから手鏡を取り出した。桔梗の模様の美しい手鏡である。手に持ち傾けると洋灯の下できらりと輝いた。梗子は男に託し言う。


「心配ならばこれを使ってわたしにときどき会いにいらして。あなたはその耳でもって持ち主の場所を知ることができるでしょう」


 男は驚いたように梗子の顔を見ていたが、すぐに頼もしい表情で手鏡を受け取った。


「そうか。それは悪くない案だ。しかし僕は夜しか来ることができないよ。あそこは夜しか開かないから」

「夜で構わないわ。わたし、毎晩待っています」

「おかしなお嬢さんだ。まるで遠足前の子供みたいにそわそわして」


 男はそう言うとふふと笑った。さっきまで緊張で刃先のように鋭かった表情が今はすっかり解けていた。男は手鏡の背面の桔梗の模様をまじまじと見つめた。そこに彫られている名前に気が付いたようだった。


「これはお嬢さんのお名前ですか」

「ええ、梗子といいます。あの、あなたは何と」

「叡一です」


 男の名は梗子の耳を通り胸の内に深く刻まれた。その感触の何と温かく甘美なことか。梗子は口の中で叡一という名を呟いた。聞こえない程度の声で、金糸雀が歌うように幾度となく繰り返した。

 そのとき風が大きく吹き木々が一斉に揺れた。起きた音は太い束となって二人を殴打した。よろける二人の後ろで夜が剝がれた。そんな気がして振り向いたが、夜は静かにそこにあった。弱弱しい月の光が秋の庭を照らしている。


「今のは風の音かしら。随分大きくてまるで地震のようだったわ」

「なんだろう、良くない感じがする。あんなのは僕も感じたことはない。気のせいだといいんだが」


 そう言って叡一は聞こえないはずの左耳を押さえた。さっきの音の衝撃でひどく痛んだらしかった。


「やっぱりときどき会いに来るんじゃ心配だ。僕は毎晩来ることにします」


 叡一はそう言い提灯と手鏡を持って夜の庭へ戻った。追いかけようとして傾いた梗子の身体が障子戸にもたれた頃には叡一の姿はもう消えていた。梗子は弱弱しい月の光を浴びながら誰もいない秋の庭を暫く見つめていた。

 それから叡一は毎晩梗子に会いに来るようになった。しかし夜の隙間から姿を現したかと思うと、縁側に立つ梗子の姿を見てすぐに帰ってしまうのだった。夜に男女がおうを重ねるのは体裁が良くない。そのことは梗子もよく理解していたがそれでも味気ないと感じてしまう。


「わたしは叡一さんと一分でも一秒でも長くお会いしたいというのに、叡一さんは幻のようにすぐに消えてしまうのよ。ああ、また叡一さんと以前のようにお話しできたらいいのに。お前たちのように楽しくさえずることができたらどれだけ楽しいかしら」


 梗子は二羽の金糸雀に話しかけた。するとクレイとワアドは身を寄せ合い、ぴぴぴと囀った。それはまるで相談するかのような仕草であった。

 果たしてその晩、叡一が現れた瞬間にワアドの方が障子戸の隙間から飛び立った。月の光をふんだんに浴びたワアドは叡一に向かって真っ直ぐ飛び、彼の提灯の柄に止まった。叡一はきょとんとした顔でワアドを見つめている。


「叡一さん、ワアドを逃がさないで。こちらまで連れてきてください」


 梗子はワアドがこのまま月まで逃げて行くのではないかと気が気ではなかった。梗子の気迫が伝わったのか、叡一はゆっくりと梗子のいる方まで歩いた。ワアドは提灯の柄に止まったまま動かなかった。


「金糸雀の羽は切っていないんですね」

「ええ、本当はそうしなければいけないんでしょうけれど、わたしの足がこうだからこの子たちの羽を切ることは可哀想でできなかったんです。普段は二羽とも外に飛び出すことは絶対にないんですけれど、今日は一体どうしたのかしら」

「鳥は夜は目がきかないというけれど迷信もいいところだな。元気が余っていたのかもしれない」

「わたしが最近夜更かしだからですわ。この子たちも一緒に夜更かしになってしまったんです」

「じゃあ本をただせば僕のせいか」


 黒猫のネロオがおああと鳴いた。同意するような間合いだったからか叡一は笑った。


「元気にしていましたか梗子さん」

「ええ、おかげさまで」

「日常を脅かすような違和が起きていませんか」

「起きていません」


 ワアドがぴぴぴと鳴きながら叡一の腕や肩に乗った。ややあって叡一が静かに切り出した。



刊行シリーズ

八千草の兄妹 言の葉は川に流れるの書影
竜胆の乙女 わたしの中で永久に光るの書影