竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る
六 ④
「梗子さんとこうして話をするのは久しぶりだな。本当はさっきみたいなことを毎晩確認すべきだったんだ、顔を見てすぐに帰るんじゃなく」
「そうですよ。叡一さんが、異界から誰かがわたしを欲しがりにやって来るなんて脅かすから、わたしは毎晩怖くて眠れない思いをしていたんですよ。なのに叡一さんったら、顔を見るとすぐに帰ってしまうんですもの。薄情な方だわ」
梗子は冗談めかしてこう言った。梗子が夜眠れないのは叡一に会いたい気持ちが募るからであって、異界の存在が恐ろしいからではない。叡一を笑わせたくてわざと大袈裟に言ってみせたのに、叡一は真剣な面持ちで黙ってしまった。梗子は狼狽えた。
「それはそうだな……」
「叡一さん、冗談ですわ。怒らないでください」
「怒ってはいません」
そうは言ったが叡一は思い詰めた顔をしていた。それからぽつりぽつりと言葉を紡いだ。不器用で洗練されていない言葉だった。
「梗子さん、どうか笑わないで聞いてください。僕は本来の目的を忘れそうになる自分が怖くてきみに話しかけることができなかったんだ。初めて会った日から僕はきみのことを考えてばかりいる。きみの身を守るために来ているはずなのに、いつの間にかきみに会いたくて来るようになってしまった。僕はどうかしている。昼間だって、道端に桔梗の花がないか探しているんだ」
そこまで言うと叡一は言葉を切って帰り支度を始めた。
「喋り過ぎたな。無事ならいいんです。帰ります」
「待ってください」
叡一を追いかけようとした梗子の身体が大きく前に傾いた。梗子の身体が頽れる前に叡一は身を翻して受け止める。叡一の胸に深く身を埋めている梗子の耳に入るのはネロオとワアドとクレイの鳴き声だけだ。その内、耳にする音の中に叡一の心臓の音が交ざっていることに気付き、気付いたらもう叡一の心臓の音しか聞こえなくなった。
二人はこれ以上言葉を重ねることはしなかった。互いの心が重なった今、言葉を重ねる必要はどこにもなかった。
二人は逢瀬を重ねていき、出会った頃に吹いていた秋を告げる風は、いつの間にか秋の終わりを告げる風へと変わっていた。
ある夜のことである。縁側で梗子が叡一を待っている間、突如足に静謐な冷たさを覚えた。光の粒にきらめく水に足を浸している画が脳裏に閃き、不思議だと感じた瞬間、強い眠りに引き込まれた。
叡一に会うのに眠ってはいけない。眠気に
瞼を閉じているというのにはっきりと目に見えるものがある。夜の帳が秋風に一斉に翻ったかと思うと、夜の裏側から水車のように大きな桔梗の花が一斉に咲き乱れた。咲き乱れる桔梗の花の中に細面の男の姿が浮かび上がる。美しい錦の着物を身に纏い、顔はよく見えない。
──会いたかった。桔梗の名を持つ美しい乙女よ。さあ、共に行こう。
男の声と共に白い指が梗子に差し出された。梗子の身体は眠りに落ちているために動かない。男の背後で桔梗の花は水車のごとくゆっくりと回っている。熱を出したときに見る美しい悪夢のようだった。男の美しい指が梗子に触れるか触れないか、そのときである。背後で新たな声が響いた。
「恐れ入ります高貴な御方。話に割り入る無粋な真似、どうぞお許しください」
梗子の瞼の裏で竜胆の紋の入った提灯が光るのが見えた。
──誰だ貴様は。
「わたくしは梗子の兄でございます。妹があなたのような高貴な御方の
──その花はいつ咲くのか。
「来年の秋でございます高貴な御方。この世で最も高貴な花は桔梗でございますが、月下美人は一度しか咲かぬ貴重な花。どうぞ妹の気持ちを汲んでお許しください。何卒、何卒」
水車のごとくまわる巨大な桔梗の群れの中、小さな竜胆の提灯が揺れている。横たわる梗子を名残惜しそうに
──では一年後必ず迎えに来る。もしも約束を破ったらそのときは命はないものと心得よ。
「もちろんでございます。御温情まことに感謝いたします」
巨大な桔梗はゆっくりと回転して花を閉じて
梗子がはっと目を覚ますと、ネロオの心配そうな顔があった。首を傾けるとクレイとワアドがぴぴぴと鳴きながら梗子の身体の上を飛び跳ねている。梗子の耳に届くのは誰かの悔し泣きの声である。見ると庭で叡一が顔を覆って立っていた。
「梗子さん、すまない。きみを守れなかった。あれは連中の中でも別格だ。あんなのはこれまで見たことがない。僕も話をしていて気を失うかと思った。口から出まかせに期限を延ばすことで精いっぱいだった。一年後きっかりにあいつはきみを迎えにやって来るだろう」
梗子は左足に尖るような熱を感じた。叡一に頼んで足の裏を見てもらうと叡一の顔の色がさっと白くなった。叡一は震える声で言った。
「所有の証が刻まれている。いつか見た印半纏の男を覚えているかい。あいつも左足にこういう証が刻まれていたんだ。つまり、きみは既にあいつに所有されている。僕に手が出せる領域ではないということだ」
「そんな。わたし、叡一さん以外の男の人と一緒になるなんて嫌です」
「そうだ、そうだとも。僕だってきみをあいつなんかにやりたくない」
「何とかならないんですか。あまりにも酷い」
叡一は沈んだ表情で唇を嚙んでいたが、ふいに震える声でこう言った。
「ひとつだけ方法がないこともない。ただし可能性は極めて低くとても危険だ」
梗子は叡一の説明を神妙な面持ちで聞いた。確かに危険な方法であったが、静かに頷いて案を吞んだ。
その後まもなく梗子は身籠った。梗子が決して父親の名を明かさないので祖父は激怒し、やはり梗子が忌み子であると罵った。梗子が夜に魅入られたことを感づいていた女中たちは、梗子が人ならざる存在の子を身籠ったと噂を立てた。祖父は子供が生まれたらすぐに手にかける算段でいたが、梗子が真夜中に出産してすぐに、紫の羽織を纏った男が現れて赤子を攫って消え去ってしまった。
「梗子さん、僕はきみを助ける方法をきっと見つけてみせる。ネロオとクレイとワアドとでいつかきみをきっと迎えに行く。だから待っていてほしい」
叡一は生まれたばかりの娘を抱いて、黒猫と二羽の金糸雀と共に夜の裏側に消えて行った。懐には桔梗の美しい手鏡が大切に仕舞われていた。
錦の男との約束の日から一年後、梗子は忽然と姿を消した。祖父と女中がどれだけ捜しても見つからなかった。桔梗の咲く秋の日のことであった。
「わたしを迎えに来たのは異界の連中の王といえるような大きな存在でした。彼はわたしを所有しようとしたけれど、お前がそこにいなかったからできなかったの。お前はわたしから生まれた娘、いわばわたしの身体の一部ともいえる存在。娘まで所有しなければわたしのすべてを所有することにならなかったの」
「おかとときの住まう場所はそれはそれは恐ろしいところだと聞いています。お母様も酷い目にお遭いになったのでしょうか」
竜胆が目を潤ませて梗子の手を握るのを私は見た。梗子は娘の手の温かさに目を細め、
「いいえ、あの方はわたしに酷いことは決してしなかった。わたしは玩具ではなく花嫁として迎えられたのです。しかし先程も言ったように、わたしの身体の一部であるお前が手に入らなかったので契りを交わすことはできなかった。わたしが想うのは今も叡一さんただ一人、異形に嫁入りなどしたくはない」
「お母様は竜胆の咲く季節になったらここにいらっしゃるようお父様に言われていたのですよね。お父様はお母様をここにお呼びになってどうなさるおつもりだったのでしょうか」
「それはわたしにもわかりません。わたしは叡一さんからそれ以上のことは何も聞かされていないの」



