第一章 ②



 結局、その日のリハビリはまるではかどらなかった。

 鉛のような疲労と敗北感を携えて、病室に戻る。車椅子をベッド脇に滑りこませると、とどめのように棚上のアクリルフレームと目が合った。

 ヒットタイトルが記された映画賞の賞状、注目俳優特集のスクラップ記事、雑誌の表紙に使われたポートレート。

 その中に一枚の集合写真があった。

 年齢も背格好も様々な男女が肩を組んでいる。服装が時代がかっているのは、撮影の合間に撮ったからだろう。余白には蛍光ペンでメッセージが記されていた。『治療、頑張れ!』『復帰、待っています』『ミギリならできる! ファイト!』

 ──二〇二×七月、共演者一同。

 刻まれた日付はもう一年近く前のものだ。入院当初こそ、あししげく通ってきた俳優仲間も、時がたつにつれて疎遠となっている。多分、彼らは彼らで新しい舞台と仲間を見つけて、ミギリのことなど忘れ去っているのだろう。

 さっきのリハビリルームの患者達と一緒だ。むくミギリ、いたよね、そんな人も。

『時の人だったのにね』

 絶望の痛みは〝何を失うか〟ではなく〝どれだけ失ったか〟で決まる。得ていた栄光が多いほど、転落の衝撃も大きい。

 たった二年前、自分はスポットライトの中を自由に跳び回っていた。誇るべき技術と仲間、居場所を持っていた。

 今は何もない。夜が明ければ待っているのは、更なる喪失だ。失って、失って、失って、やがて死に至る。

 ──死。

 まいを覚えてめいもくする。何かの間違いだろうと叫びたくなる。だってほら、目を閉じれば今でも思い浮かぶ。縦横無尽に舞台を動き回っていた時の、きらめくはくじんの中を駆け抜けていた時の風景を。

身体からだだって)

 足を床に下ろす。

 両手で車椅子の手すりをつかむ。長年かけてたたきこんだ動きは、年単位のブランクがあっても忘れるものではない。

 送り足、継ぎ足、引き足、。そう、やる気にさえなればすぐに再現できる──

(あ)

 と思った時にはもう手遅れだった。

 視界が傾き、足の感覚がなくなる。慌てて伸ばした手は棚をたたき、載っていたものをぶちまける。

 ガシャァン。

 肩から床に墜落して放心する。

 なぜそんな姿勢になっているのか、横たわっているのか、理解できなかった。別に大したことをやろうとしたわけじゃない。まずは立ち上がろうとしただけ。なのに、右半身を下にして倒れている。ぴくりとも動けず、硬まっている。

 起き上がれない。

 ナースコールさえできない。

 あえぎ声が漏れた。

 情けなさと悔しさで涙が出てくる。

 一体自分が何をしたというのか。どうしてこんな仕打ちを受けねばならないのか。

 ──もう一日頑張れば、努力を続ければ、何か予想外の奇跡が起きて。

 分かっている、そんなことは起こらない。初めに医者に言われた通りだ。治療法はなく、進行をいかに遅らせるかが勝負。失ったものは二度と戻らない。

(畜生)

 絶望に打ちひしがれうめいていると、ふっと異音が聞こえてきた。

 ジィジィという鈍い機械音。

 視線を向ける。散らばった私物の中に、曲線的なシルエットのデバイスが見えた。

 バイザーとヘッドホンが一体化したような、独特の外観。

 VR端末だ。

 落ちた衝撃でか、電源が入って起動処理を始めている。側面のLEDがちかちかとまたたいていた。

 ──そうだ。

 真っ暗な日常でも、なんとか正気を保てたのは、これがあったからだ。ダーケスト・レルム、神経インタフェースでアバターを操る、体感型のVRネットワークゲーム。

 最初はリハビリの一環として共演者から薦められた。身体からだの動かし方を忘れないように、仮想空間でもいいから、運動してみたらと。

 馬鹿にするなと内心でいきどおったのは事実だ。ゲームくらいでこの鬱屈が紛れるとでも? ふざけるなと。だがすぐに没頭し、ヘビーユーザーの仲間入りをした。

 他に類を見ないスムーズな身体操作、五感へのフィードバック、没入感。

 あたかも病が完治したかのように、プレイ中は、身体からだの不自由さを忘れられた。昔のように異世界を跳ね回れた。

 そう、ダーケスト・レルムにログインできた時は、まだ自分は絶望していなかったのだ。

 なのに三ヶ月前。

 楽園は唐突に消えた。不正アクセスだか、正体不明のウィルスだか、よく分からない理由で一方的に奪われた。

(せめてもう一度)

 あと一回だけプレイできれば、生きる気力が湧いてくるかもしれなくて。

 震える手でVR端末をつかむ。精一杯の力でヘッドバンドを広げて装着。バイザー位置を調整して、イヤホン兼神経インタフェースを耳にねじこむ。

 接続フツクアツプ

 視界が広がり、音が遠くなる。

 無重力のドームに漂っている感じだ。周囲にメニューが浮かんでいる。ゲームポータルだ。タイトル選択、キャラクターデータ選択、ログイン。

 ──。


『エラー:ゲームサーバが応答しません。通信環境を確認して再接続してください』


 どっと力が抜ける。なけなしの希望が砕ける。

 いや、分かっていたことだ。どこにも逃げ場はない。リアルだろうが仮想空間だろうが、もう二度と身体からだの自由はかないのだと。

(ああ)

 全身の毛穴から気力が漏れ出していく。溶けた氷菓子のように、ぐしゃぐしゃになって床に広がっていく。

 もう何をする気も起きない。いっそこのまま呼吸が止まればいいのに。知らぬ間に意識が途絶えて、どこまでも、どこまでも落ちていければ。そう自暴自棄に思った時だった。

 視界の端で何かが光った。

 バイザーはつけたままだ。ゲームポータルの画面に変化があるのか。

 エラーウィンドウを閉じて見渡す。居並ぶメニューは[ブラウザ]、[ストア]、[ライブラリ]、[サポート]……[メッセージ]。

(メッセージ)

 新着表示がある。

 誰からだ。運営から、払い戻しの連絡でも来ていたのか。

 無感情に受信箱を開いて凍りつく。身体からだが動かないことも忘れて起き上がりかけた。

(は……?)

 二度見しても、三度見しても表示は変わらない。未読メッセージの件名には、予想外の文字が並んでいた。


『【DR】もう一度、プレイしたくありませんか?』