手厳しい意見に反論するでもなく、アナライは自分で作り上げた四体の試作品をじっと眺める。老賢者の思うところは測りかねたが、今のバジンにはのん気にそれを想像している暇はない。
ずっと片手に握り締めていた便箋を、何も言わず、バジンはアナライに向かって突きつけた。
「……なんじゃこれは?」
「薄々はお気付きでしょう、アルデラ教団からの最後通告です! 時間が惜しいので内容をかいつまんで読み上げますよ……『瀆神者アナライ・カーンへ。再三の忠告にも拘らず、今もって其の方の研究は神の御心に沿わぬこと甚だしく、その行いは主神の寛容を大いに逸脱したるものなり。三日後の正午までに悪行の産物悉く伴って神殿まで出頭せよ。しからざれば今度こそ異端としての厳罰を免れえぬものと知るべし』……」
バジンがそこまで言ったところで、アナライは喉を鳴らして苦笑した。
「瀆神者とはまた、わしも随分と教団の連中から嫌われたものじゃな。……要するに、今ここにある研究成果を全て背負って、三日以内に神殿まで許しを乞いに行けというわけか?」
「そういうことです。似たような警告は今まで何度もありましたが、今回は明らかに温度が違う。三日後と言わず明日にも、鉄杖を携えた異端審問官が、ここのドアを叩くかもしれません」
「本気とあらば、そうなるじゃろうな。軍の後ろ盾を失ったわしらは極刑を免れまいて」
「他人事じゃありませんよ。……これでも私も『アナライの弟子』の端くれ、もとより地獄までお供する覚悟ではありますが……博士、これからどうなされるつもりですか?」
助手に真剣そのものの口調で尋ねられて、アナライは溜め息をついて部屋の中を見渡した。
「……この世界には、至る所に神の目が光っておる。地上の全てばかりでは飽き足らず、書の中身や言葉の一つ一つ。果ては人の心に至るまで、かの神は天から我らを見張っておる……」
「…………」
「それが窮屈じゃと、せめて研究の間だけは神を忘れたいと願って、この研究室を立ち上げたものじゃが……かび臭く薄暗い、我らの愛すべき聖域も、いまや神の怒りを前にして風前の灯火というわけか」
「……胸中、お察しします。教団の神学者どもは、どう説明しても先生の『科学』を理解しません。『全ての論理の根底には神がいなければならない』……そんなアルデラ神学の戒律を盲信するばかりで、純粋な真理の探究を断固として認めないのです」
「そう、『科学』……神の導なき人の学問。それこそが、我らがここで学んだことの全てじゃ」
アナライが感慨を込めてそう呟いた瞬間、天井から釣り下がっていた鈴が甲高い警戒音を奏でた。それに続いて、この空間と地上を隔てる鉄製のドアが、荒々しいノックに軋みを上げる。ふたりは全身で身構えて互いを見た。
「……警告した期日を待たずに来よったか。予想の内とはいえ、まったく短気な連中じゃな」
呆れ声でぼやくと、アナライは身をひるがえして自分の机まで歩み寄った。そこで一呼吸を置いて気持ちを切り替えるや、猛然と片付けを始める。
「──バジン、ここは店仕舞いじゃ。よほど残しておきたい資料以外は諦めろ。なに、成果は全てわしとお前の頭に入っておるし、そもそも学問は場所を選ばぬ。次はせいぜい、もっと上手く神の目から逃れてみせようぞ」
「は、はい! ……しかし、博士、当てはあるのですか? この国の──カトヴァーナ帝国のどこに逃げても、教団はしつこく我々を追ってくるのではないかと……」
「学問は場所を選ばぬと言ったばかりじゃ、当てが帝国である必要もあるまい? 隣のキオカ共和国は技術立国を標榜するだけあって、わしらのような人種を受け容れるだけの度量がある」
「キオカ……!? 戦争中の隣国ですよ! 亡命のツテはあるんですか!?」
「あちらにも少なからず『アナライの弟子』はおるよ。これまでの文通で話は付けておいた。転ばぬ先の杖じゃな。……さて、バジン。お前の火精霊殿はどこにおる?」
「は、はい。ラガは今、裏手の焼却炉でゴミを燃やしていますが……」
「ならば炉に火は入っているな。ちょうどいい、教団の石頭どもに押収されるのが業腹なものもある。お前は先に行って火を強めてもらえ。こればかりは嫌われ者のわしからは頼めん」
指示を受けたバジンは裏口から部屋を飛び出し、地上への階段を大急ぎで駆け上っていく。その背中を見送ったアナライは、自分の机の上に目をやって、紐で大切にまとめられた大量の便箋を両腕で抱きすくめるように持ち上げた。
「世界中に散った、我が弟子たちとの語らいの記録……叶うことならばキオカまで持っていきたかったが。この分量では、それも難しいであろうな」
慈しむ瞳で便箋を眺め、差出人の名前を一つ一つ呟きながら、アナライはゆっくりと階段を上っていく。すぐそこに迫っている追っ手のことも今だけは構わない。老賢人にとって、それらは遠く離れた息子や孫から送られてくる手紙も同然だった。
「ヨルガは算術にめっぽう強かったな。ミルバキエは極論好きじゃった。ナズナは難しい話を嚙み砕いて説明できる子で、助手として手元に置きたいくらいじゃった。イクタは……」
その名前を口にした瞬間、思い出を語る声がわずかに鈍った。懐かしさよりも、愛おしさよりも──その名前の主について、アナライの中では痛ましさの記憶が先に立った。
「……イクタ・ソロークは、わしの唱えた『科学』という方法を踏襲するのみでなく、独特の哲学に昇華して実践しておった。……お前に似て聡い子じゃったよ、バダ。草葉の陰で誇るとよい」
階段を上がりきったところで、煉瓦壁に取り付けられた鉄窓を開くと、その向こうの焼却炉ではすでにごうごうと炎が燃え盛っていた。少しのためらいを乗り越えて、そこへ便箋の束を投げ込んだアナライは──灰に帰っていく無数の記憶を前に、おごそかな表情で立ち尽くす。
「こちらの身辺が落ち着くまで、しばしの別れじゃ、『アナライの弟子』たちよ。近く、必ずやまた会おうぞ。──願わくば、次もまた、神の目届かぬ理性の荒野の真っ只中でな」
別れが済むと、アナライは焼却炉の窓を閉めて踵を返し、もう二度と振り返らなかった。
帝歴904年 史上初の『科学者』アナライ・カーン、助手一名と共にカトヴァーナ帝国より脱出。以後は亡命先のキオカ共和国にて研究を続ける。