カトヴァーナ帝国の領土には、基本的に四季というものが存在しない。熱帯なのだ。
春も、秋も、もちろん冬もない。夏将軍が本気で攻め込んでくる時期と、ちょっと手を緩める時期があるだけだ。帝国の歴史の半分は、この猛暑との戦いの歴史と言って差し支えない。
なので、すらりと背の高いフタバガキの木の間──吊り下がったハンモックに身体を預けて、ぐぅぐぅ熟睡している誰かの姿は、夏将軍に対する人類の勝利の形と言えなくもなかった。
「イクタ。起きてください、イクタ」
寝息に合わせて上下する誰かの胸に、小さく愛らしい人型をした「何か」が乗っかって、懸命に身体を揺さぶっている。大きな頭と短い手足、丸っこいフォルム、胴体に備わった『光洞』。その姿は人類の善きパートナーたる四大精霊の一柱、光精霊のものに間違いない。
「……んうぅ……なにさ、クス……。卒業式は寝飛ばすって言ったじゃないか……」
日よけに顔を覆っていた帽子を取り払い、誰かはクスと呼んだ光精霊を両手に抱き上げる。眠たげな目をした黒髪の少年だ。身にまとったシャツと紺色のズボンは、見る影もなく着崩れてはいるが、帽子と合わせて何らかの制服のように思われる。
「ですから、終わりました」
「……ん?」
抱き上げた精霊と上下で見つめ合いながら、寝ぼけ眼の少年──イクタは首をかしげる。
「進行が予定通りなら、つい先ほど帝立シガル高等学校の第131期卒業式は終了し、今は卒業生と保護者を交えた会食に移っているはずです。ここで食事を摂っておかないとまずいのでは?」
言われたイクタが何気なく視線を上空に向けると、なるほど寝る前に見た時と比べて、日はずいぶん高々と昇っていた。この様子だと、ちょうど正午を過ぎた辺りだろうか。
「確かに、こりゃ大変だ。せっかくのご馳走を食べ逃してしまう」
ハンモックからのそのそと体を下ろし、地上に立ったイクタは大きく伸びをした。ぼきぼきと背骨が鳴り、眠っていた意識が目覚めた途端、空腹と喉の渇きがいっぺんに襲ってくる。
「うっ、頭痛がする……。軽い脱水症状かな」
「この暑さの中で、長い時間寝ているからです。まずは井戸に寄って水を補給しましょう」
そう忠告したクスの身体を、イクタは自分の腰に備え付けられた専用のポーチへ両手で持っていき、そこにすっぽり収めてやった。足が遅い精霊にとって、それが移動時の定位置なのだ。
「いや、少しだけ我慢しようか。今日ばかりは、ぬるい水で喉を潤すのはもったいないからね」
手早く木の幹からハンモックを回収すると、頭痛に顔をしかめながらも、イクタは意気揚々と林の中を走り出した。
「体育教諭のヤーグだ、卒業おめでとうミス・イグセム。高等士官試験も目の前に近付いて来たな。君ならば合格間違いないとは思うが、ゆめゆめ油断はしてくれるなよ?」
「ご忠告ありがたく承ります、ヤーグ教諭。ここで学んだことを本番に活かそうと思います」
卒業式の終了後、猛暑とがっちり手を組んだ学校長の長口上が、実に八人もの生徒を医務室に送り出していた。ようやくスケジュールは大天幕の下での会食に移ったものの、未だに彼女──ヤトリシノ・イグセムはろくに食事も取れず、優等生ならではの煩わしさを味わっている。
「おお、ヤトリシノくん、卒業おめでとう。生活指導のコバックだ。主席とはさすがだな。高等士官試験でも同じ結果を期待しても?」
「ありがとうございます、コバック教諭。期待に沿えるよう全力を尽くしたいと思います」
──あんたらに言われなくても主席は獲るっていうの。だからもう私を解放しなさい!
スキのない応対を続けながら、実のところ、彼女は心の中でそればかり繰り返していた。
卒業を祝いに来るだけならまだいい。教師たちが祝いの言葉の後、いちいち自分の名前を付け加えるのが、彼女には不愉快で仕方がない。しかもその手の輩は大抵、今までの学校生活でヤトリとの関わりが薄かった連中なのだ。
忘れられるのが怖いから、最後に少しでも印象に残ろうとする。馬鹿馬鹿しいことだ。それでも知勇に品性を兼ね備えた主席卒業生として、彼女は礼を尽くした態度を取らねばならない。
「おっ、よっしゃあ! 氷菓のお代わりが来たぞ!」
すぐ近くで他の生徒が叫んだ内容に、ヤトリの耳がピクリと動いた。……氷菓!
帝立高等学校の卒業祝いだけあって、会場のテーブルにはそれなりに見栄えのする料理が並んでいる。たっぷり香辛料をまぶした魚の丸揚げ、山ほどの香辛料で煮込んだ肉のスープ、死ぬほどの香辛料と一緒に炊き上げた混ぜご飯。消毒、味付け、代謝の促進を目的とした香辛料での味付けはカトヴァーナのお国柄だ。それ自体はヤトリも慣れているし、構わない。
しかし、今は校長の長口上を乗り越えたばかりだ。汗なんてとっくに出尽くして、唇はカラッカラのカサッカサ、体温だって平熱を軽く二度は越えている。こんな時までスパイスたっぷりの料理を食べて代謝を促進<外字>汗をかいて涼を得る、なんてまだるっこしい行程は踏んでいられない。もっとダイレクトな「冷たさ」を、ヤトリの身体は欲しているのだ。
どうにかキリのいいところで教師たちとの会話を打ち切ると、彼女はさっきの声の方向に向かって早足に歩き出した。氷菓──それはこの国の誰にとっても最高に魅力的な響きに違いない。雪どころか霜さえ降りることのないカトヴァーナにあって、氷という名の宝石を作り出すことが出来るのは水精霊たちだけ。それも一度にたくさんは作れず、大半は冷却材に回されてしまう。「氷を食べる」贅沢は、特別めでたいことがあった日だけのお楽しみなのだ。
案の定、大皿に山ほど盛り付けられていたのだろう氷菓は、ものすごいスピードで人々の手に行き渡って、もはや残る分量は風前の灯火のようだった。走り出したい衝動を辛うじて堪えながら、自分の分が残っていることだけを祈りつつ、ヤトリは皿の前に辿り着く。
彼女は思わず安堵の息をついてしまった。大皿の上に残っていた氷菓は本当にわずかで、かき集めて小皿に盛り付けてようやく一人分といったところだ。間一髪で間に合った……喉を滑り落ちる氷の冷たさを想像しつつ、彼女は盛り付け用の大スプーンに手をかけて、
「「あ」」
スプーンの柄にかかった指が、同じタイミングでそれを取ろうとした少年の指と重なった。