第一章 無題 ~イエロー・エンデミック~ ①
月も眠る深い夜。
古い紙の匂いが漂う書斎。高級そうな
書庫の奥には一人の少女が立っていた。
震える手に持つは一本の包丁。
刃が返す薄い月光が、少女の顔を照らしている。ウェーブのかかったアッシュブラウンの髪が震える肩から流れ落ちる。
息荒く顔を
恐怖、怒り、戸惑い、それらは全て絶望が見せる一側面。
(返して……! ナオやお母さんを……! 返して!)
揺れる心は湖面のように。
少女の前には机に置かれた一冊の本。
タイトルもない古めかしい装丁の本は、ただじっと夜の空気に
『この本は君のものだ。好きに使いなさい。……ただし、この本を決して書斎の外に出してはいけないよ』
約束を破った自分が悪いとも思う。しかし、だからといって、その報いとしては酷すぎる仕打ちではないか。
(返してよ!)
本に向かって包丁が振り下ろされた。
ガキッ! と金属音とはまた違う不思議な固い音が書斎に響いた。
衝撃に
古めかしい本に傷はない。
不気味なほどになんの変化もなく、ただ夜の一部と化している。
「なんで……なんでよ……」
少女はその場に崩れ落ちて、ただひたすらに泣きじゃくることしかできなかった。
◆◆◆
「文字を食べる本?」
滋賀県某所。閑静な住宅街を一風変わった二人組が歩いていた。
「また哲学的な
そう言ったのは、高校生程度の年齢の青年、
ややくせ毛ながらも爽やかに整えた短めの黒髪と若干口角が上がった顔立ち。見る人の多くが初対面でも好印象を抱くような顔つきだった。
青年は、剣道部が使う長い竹刀袋をその背に
「哲学的というよりは、風刺じみた存在ではありますね」
対して言葉を返すのは、背筋を伸ばして隣を歩く金髪の少女。
彼女はアーカイブという名前を持っていた。肩口に触れるミドルヘアとやや釣り目なところがいかにも気難しそうである。長身なおかげか、体のラインが出る黒いカットソーがよく似合っている。
少女は赤色の細い麻
浮世離れした少女と、長物を背負った青年は明らかに平凡な街景色から浮いていたが、周囲には全く人の気配はない。すでに彼らの仲間が避難させているからだ。とはいえ、避難させる前からすでに相当数の住民は消えてしまっていたのだが。
「先遣調査員の情報によると、対象は一冊の古い装丁の本。推定半径五〇〇メートル以内に存在するあらゆる文字を
「……みたいだな」
二人は無人の商店街に差し掛かっていたが、青年の視線の先にはなんの文字も書かれていない商店街のアーチ看板があった。あちこちに上がっているのぼりや、落ちている雑誌に至るまで、どれも全て初めから無かったかのように文字が書かれていない。
「その本を所有していた一家の一人娘が、その本を書斎の外に出したことがことの始まりらしいです。父の遺産として受け継いだそれを友人に見せるつもりだったそうで。だがその結果、本を外に出した瞬間、周囲一帯から文字が消えさり、そして大量のものと人が消えた」
すらすらと
「被害人数はそのとき範囲にいた三〇〇名程度。友人の三人のうち二人は消滅しています。そのほか範囲内にあるかなりの物質が大小問わず消滅しています。……このように」
商店街から一つ横の通りに入った二人は、道脇に大量のガラクタが積み上げられている土地を目にする。破壊されてはいるものの、そのガラクタは目新しいものばかりだ。まさにここがアパートが消滅してしまった場所なのだろう。
「その後に範囲内に入った人間も消えています。先遣調査員の一人も消失していますね」
「そりゃあ、破壊任務になるわな。消えるものと消えないものの違いは?」
「不明。と報告書には書かれていますが、消えたもののリストからおよそ推察はできますね。……消えたものは全て、固有名詞を持っています」
「なるほどな……」
人の名前、アパートの名前、商品名。そのすべてが固有名詞だ。消えた人は範囲内に自分の名前が書かれた何かを置いてしまっていたのだろう。
「文字を食う本。その本が固有名詞を食ったとき、その範囲内の固有名詞が指すものを消滅させるってことか」
「そういうことかと。おそらくあの本が食べているのは、文字ではなく、文字が示す概念そのものなのでしょうね」
「まったく、毎度のことだけど常識外れすぎるな……」
「ええ。だからこそ
「で、俺らが呼ばれたってことは、その
「はい。
「ま、そうだよな」
青年は自分の竹刀袋に視線を送る。
「本自体は動かせるようですが開くことはできないそうで、中に何が書かれているかは不明。その力の性質上タイトルも存在しないので、
言葉をつづけながら、アーカイブはスタスタとかなり足早に道を進んでいく。
「おい、ちょっと待てよ」
「待ちません。一六時七分一二秒に目的地に着くことが確定していますので」
「……そうかい」
決められた運命。
風に揺れる黒髪。僅かな仕草にもつられて揺れるサイドテール。記憶の中で一層
それを甘い記憶とするのはあまりに都合がよすぎる。そう思ったから。
目的の家は商店街から少し離れた通りの途中にあった。
住宅街の中でも目立つ豪邸だ。庭こそ手狭に見えるが、三階建ての家は高級感あふれる白いタイルで囲まれており、品のある装飾も壁に施されている。よほど裕福な家庭であることが見てとれた。
「こんなところにあるのに、やけに豪華な家だな」
「
二人が家に近づくと、家の中から女性の先遣調査員と制服の女子が出てきた。
女の子のほうは、この家の住人だろう。見る限りは
「お疲れ様です。お待ちしておりました」



