「やっちゃったなあ……まさかあんな可愛い子が重鎮だなんて思うはずないじゃないですか。着物に名札でも縫い付けておいてくださいよ『ひっとうかろうちゃん』って」
ため息交じりにお鶴への恨み言をぼやく。
「まっ、あまり気にするほどのことじゃないですよね。どうせ、向こうは私を先生だと勘違いしているみたいですし。最悪、先生の名声が少し傷つくだけで済む────」
「聞き捨てならないことが聞こえてきたぞ」
背後から静かながらもピリピリとした声がした。一瞬、驚いたブリュンヒルドだったが聞き慣れた声だ、と安堵して振り返る。
「おどかさないでくださいよぉ……先生ぇ、えぇえええええええええええっっっ!? ふえええええええええええっっっっ!?」
喉がひっくり返りそうなほど大きな悲鳴が発された。
「うるさいな。何事かと思われるだろ」
「紛れもなくナニゴトですよ!! どうしたんですか!? その格好!?」
夜半は艶やかな女物の小袖を纏い、髪を下ろし、口に紅を引いていた。その姿はどこに出しても恥ずかしくない美女。声を聞かなければ本物の女と見分けがつかないほどである。
「日吉の二の舞は御免だからな。護身の一種だ」
「護身って……フヒッ! ウククククッッッ!」
ひとしきり驚いた後に押し寄せてくるのは真面目な夜半が女装なんてぶっ飛んだことをしている滑稽さ。しかも無駄にクオリティが高いことがブリュンヒルドのツボに刺さった。
「アハハハハハハハハハハハ! ダメっ! もうムリっ! しんどいですよ! どうしたらそんなに完璧な女装できるんですか!? 頻繁にやってらっしゃるんですか!?」
「女の格好をした方が何かと便利な時があるんだよ。教える相手の身分によっては男に指南されたという噂を立てられることさえまずいこともあるからな」
「あー、そう言われると納得です。これならどこからどう見ても綺麗なお姉さまですからね。私もこっちの先生の方が仲良くなれそうな気がします」
「どういう理屈だ?」
「だってお姉さまなら着替えやお洗濯も遠慮なく頼めますから」
「完全に侍女扱いじゃないか……」
「もちろんしてもらうだけじゃなくて歌と踊り、あと楽器の演奏も仕込んであげます。ひと月もあれば舞台に立てるよう指南しますね。死ぬ気でついてきてください」
「男に生まれて良かった」
と言ったものの日吉みたいに魂まで捧げた奴もいるので、老若男女関係なくブリュンヒルドに関わると苦労するんだろうな、という身も蓋もない結論に行き着いた。
「ずいぶん楽しそうだな、ブリュンヒルド」
にぎやかな二人のかけ合いを聞きつけて直虎が現れた。彼女は夜半が扮する美女を目の当たりにすると「ほう」と息を漏らした。
「これはまた美しい……連れの者か?」
「えっ、その……」
「(お前の助手と言っておけ。そうすれば指南中に一緒にいて助けてやれる)」
夜半が小声で指示をすると、すぐにブリュンヒルドは調子に乗って笑みを浮かべた。
「こちらは、え───と……『まひる』! 私の助手兼世話係なのです! 所用があって遅れていたのですが追いついてくれました! これで魔法指南も万全で行えますよ!」
「そうか。それは何よりだ。よろしく頼むぞ、まひる殿」
「…………」
夜半は無言で、こくり、と頭を下げた。完璧に女、いや女以上にしとやかで艶っぽい所作である。直虎は息を吞み、ブリュンヒルドは声を殺して爆笑した。
「(ウヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!! なんで無言! 無口キャラ設定ですか!? 儚げで良いと思いますけど難役に挑戦されていますね! 今のお気持ちは? どんなお気持ち?)」
「(お前に蹴りを入れてやりたい一心だよ……)」
「は───っ。笑った笑った。それでは直虎さま、私たちはこの辺で」
「ああ、いや。用があって声をかけたのだ。助手も揃ったのであればちょうどいい。これから少し付き合ってくれないか」
直虎の誘いにブリュンヒルドは夜半に伺うように目を向ける。夜半は小さく首を横に振った。断れというサインである。
「え───っと、生憎ですが旅の疲れを取りたいところでして」
体よく断ろうとするブリュンヒルドに夜半は満足げに頷く。しかし、
「疲れを取るなら尚更だ。我が家の風呂にお誘いしようと思ったのだ」
「えっ……お風呂!? お風呂があるんですかぁ────!?」
この時代、まだまだお風呂は贅沢なもので庶民の家には滅多になく、行水等で清潔さを保っていた。ブリュンヒルドの感動を現代的に表すのならば、友達の家に泊まりに行ったら家の中に業務用のマッサージチェアが置かれていて使い放題させてもらえるようなものである。真っ青な顔をした夜半に着物の袖を引っ張られても聞く耳を持つはずがなかった。
「…………で、どうして先生も入ろうとしているんですか? 女装したのは堂々と私と混浴するためですか? ダメですよ。私は健全系ヒロインですので」
「自惚れるな。お前が健全系かどうかは置いといて、直虎殿と密室で二人きりなんて危険すぎるからだよ」
「えっ……直虎さまそっちの趣味が……ムリムリ! 女同士なんてありえないでしょ!」
「自惚れるなパート2。もっと単純な危険の話だ。あの直虎殿が女だてらに当主になれたのは何故か知っているか?」
「井伊谷の男性が直虎さまを恐れて逃げ出したからでしょう。軟弱者ばかりですね」
「まあ、外れてもいないが、どうして恐れられているかは聞いていないんだな?」
夜半の問いにブリュンヒルドは口ごもり何やら考え始めた。当てようとしているのではなく、夜半がツッコむことを期待して考えている。
「整いました! 直虎さまが家臣の不倫や酔った時の乱行を記事にして」
「井伊谷を乗っ取ろうとした魔姫那を暗殺したからだ」
「もう。ちょっとは乗ってくださいよ……って!? 暗殺ですか!?」
「ああ。出家させられ、家督を継ぐこともできなかった直虎殿だったが、井伊谷の危機を救い、女たちに祭り上げられて当主となった、と依頼の文に誇らしげに書かれていたよ」
「は〜〜、波瀾万丈な人生ですね。でも見るからに強そうな方ですし、そんな武勇伝の一つや二つあってもおかしくないと」
「おかしいのさ。井伊谷の男たちが束になっても手に負えないほどの魔姫那をただの男勝り程度の女が倒せるわけがない……彼女自身も魔姫那であると見てもいい」
「ええっ!? そうなんですか!?」
「おそらくは。とはいえ、魔姫那だと知られるのは良し悪しだからな。特に大名なんて身分のある方にとっては。だから彩髪を隠すため頭巾を被っているんだろう。虹眼は暗めの色ならば頭巾の陰で誤魔化せるし。風呂で頭巾を巻いたままということはないだろうから、この誘いは正体を明かすためと見ていい。一応、第一関門は突破してくれたな。褒めてやろう」
「えへへへ……とはいえ、噓をついて騙してしまったことは心苦しいんですけど」
「噓も方便というやつだ。気にするな。むしろここまで井伊家の中枢に食い込んでしまったんだから絶対にバレないように立ち回れよ。失敗したらお前の首が物理的に飛ぶぞ」
「は? どうして」
「さっき言ったとおりだ。強力な魔姫那を葬るような魔法の使い手と密室に二人きり。噓がバレたとしたらお咎めなしなんてあり得るわけもなく」
「ちょっとぉ───────っ! どうしてそんな危険だとわかっていながらお風呂入ることになったんですか!? イヤアアアアアアアアアアアアッッッ!!」
「一から一〇〇までお前のせいだよ……急展開すぎて俺の準備も追いついてないってのに」
体中の息を吐き出すかのような大きなため息をつき、夜半は小袖を脱ぎ始めた。
現代日本において風呂といえば浴槽にお湯が張ってあるものだが、当時の風呂は蒸し風呂、つまりサウナのようなものであった。蒸気で満ちた高温の部屋に入り、体の垢や汚れを擦り落とす。清潔になることと快感を得ることが一体になった贅沢な空間である。
夜半とブリュンヒルドは先に風呂に入り腰掛けに座る……なお、二人は湯帷子を着ている。この時代の風呂は素っ裸で入るものではなかったのだ。入浴シーンの挿絵に期待していた読者諸兄はいま、どんな気持ちだろうか?
「あっついですねえ〜〜! でもこれは気持ちイイ……」
汗の垂れる白い首を伸ばし天井を仰ぐブリュンヒルド。つい先程まで大声で嘆き散らかしていたとは思えないほどリラックスして入浴していた。