日吉がそう言うと娘はムッと頰を膨らませた。
「ひどい人。どれだけ私がお慕いしても別の方を想っているのだから」
「はは、確かに拙者の姫さまへの想いは男女の情より遥か高いところに居座っている。されど日輪の輝きがなくてはこの世に光も熱もないように、拙者が生きていくのに姫さまは何よりも必要なのでござるよ」
日吉はいつものように忠心を語る。正気の人間が聞けば「お……おう」と引いてしまうところであるがあばたもえくぼとはよく言ったもので、娘は自分の惚れた男の魂が高尚なものであることを誇らしく思う。同時に自分の手元に置いておける男でないことを察し、涙を隠すため俯いてしまう。すると、日吉は彼女を背後から抱きすくめ耳元で囁く。
「だが、お主のことは好きでござったよ」
「……日吉さま!」
と、日吉はウブな娘を転がし井伊谷を抜け出した。娘は隠蔽工作にせっせと取り組み、日吉が井伊谷を離れていることに気づく者は誰もいなかった。娘のやったことは村八分にされてもやむなしの裏切り行為だったが、この行動が井伊谷の運命を大きく変えることとなる。
翌朝、井伊谷城に登城した二人の様子を見て直虎は顔を引き攣らせた。
夜半は目の下にくっきりとクマができており、ブリュンヒルドは頰が赤く、泣き腫らしたような目をしている。
「ゆ……ゆうべはおたのしみだったようだな」
「おかげさまで」
「……先生が一方的に私をおもちゃにしていただけですけどね」
ブリュンヒルドのぼやきに家臣団が色めき立ち、直虎も頰を赤らめた。
「さ、さて……では魔擬合の種目について発表させてもらう。お鶴」
直虎の傍にいたお鶴が前に出ると、巻物を広げて種目を開示する。
『鬼遊戯』
と力強く書かれていた。そのルールをまとめると、
① 二対二のタッグマッチ。
② ペアの中で一人は『鬼』、一人は『主人』、と役を決める。『鬼』は『主人』を捕まえることができる。先に相手の『主人』を捕まえたペアが勝者となる。
③ なお、相手を負傷させるような攻撃は禁じ手とする。
④ 競技を行うのは井伊谷城内とし、外への移動は禁じ手とする。
⑤ 禁じ手を使ったペアは敗北とする。
というものである。夜半にとっては概ね予想通りの内容であった。また、ブリュンヒルドが魔法を使えないことがバレるような内容でないことに胸を撫で下ろした。
直虎と家臣団が立ち去り、取り残されたブリュンヒルドと夜半は大きく息を吐いた。
「たっ、助かりましたね! ただの鬼ごっこならば私の魔法のことはバレないはず。それに、鬼ごっこは逃げるのも捕まえるのも得意ですからね。腕が鳴ります」
「……とりあえずはお前が『鬼』だな。秒殺だけは避けたい」
「ちょっと私のことを侮りすぎじゃありませんか? これでも昔は逃げ上手の姫君と」
『鬼』の角が付いたかつらをブリュンヒルドにかぶせ、夜半は『主人』の兜をかぶる。
「お前の言うとおり、これはただの鬼ごっこだ。直虎の魔法がなければな」
「……あっ、そうか! 直虎さまが鬼ならば見つかった瞬間にやられちゃいます!」
「【一寸発心】を最大限に使うとなればこの手の種目だと思っていた。直虎が『鬼』ならば見つかった瞬間に捕まり、『主人』ならば追い詰めても瞬時に逃げられる。実に厄介だ」
「ちょっ! なに冷静ぶっているんですか!? そこまでわかっていて不利な種目を受け入れるなんて……もしかして井伊家の慰み者になるのを期待して」
「そんなわけあるか! やられっぱなしでは魔法指南役の名折れだからな。この魔擬合を通して奴らに正しい魔法の使い方を指南する。お前はとにかく俺のそばにいろ」
「……わかりました! 先生を信じます!」
「よし。じゃあこれから俺が予想するこの魔擬合の展開を伝える。耳を貸せ」
夜半がそう言うとブリュンヒルドはそっと耳を両手で隠す。
「昨晩されたことを考えると先生に耳をお貸しするのはちょっと……」
「言ってる場合か!」
夜半は無理やりブリュンヒルドに耳打ちをする。その様子を忍び聴いていた者たちは「耳を使ってどんなことをっ!?」と生唾を飲みながら妄想を働かせた。
魔擬合の開始を告げる法螺貝が吹き鳴らされ、夜半とブリュンヒルドは城中を走り回った。井伊谷城は決して広い城ではない。走り回れば当然、敵とぶつかる。走る廊下の奥の角を曲がって直虎が姿を見せた。
「先生! 前方!」
「早速か!」
ブリュンヒルドたちが声を掛け合った直後────
「【一寸発心】」
直虎は魔法を使って夜半の眼前に現れた。勝利を確信して手を伸ばす直虎。しかし、その手は夜半には届かず、手首を摑まれていた。
「『鬼』を摑んではならない、なんて決まりはなかったよな」
「クソっ!」
直虎はもう片方の手を伸ばすがそちらも同様に摑まれる。
「目のやり場に困るから服を着たまま跳んでほしいんだが、これは俺の不行き届きだな」
「ちょこざいなっ! 【一寸発心】!」
羞恥と怒りで顔が真っ赤になった直虎は、夜半の後ろに瞬間移動した。しかし、
「『鬼』同士の取っ組み合いも禁止されてませんよね!」
「ブリュンヒルド!? 貴様っ!」
ブリュンヒルドが横入りして直虎に抱きついた。夜半は直虎の頭部を見て唸る。彼女の頭には鬼を示すかつらがかぶられたままだったからだ。
(服はともかく、頭につけるものは運べるようになったか。末恐ろしい成長速度だな)
夜半は素直に感心したのだが、男に裸を見られた恥ずかしさで直虎は咄嗟に【一寸発心】を発動させて二人の視界から外れるとバタバタと足音を立てて一旦逃亡した。
「上手くいきましたね! 先生!」
「とりあえずは、だけどな」
夜半の考えた作戦は至ってシンプル。直虎の【一寸発心】には一日に使える回数に限りがある。自身を囮にして無駄撃ちさせて弾切れを狙うというものだ。最も危険な背後からの奇襲はブリュンヒルドが注意することで防ぐ。歪ながらも最適な連携である。
その後、三度同様のやりとりを繰り返し、直虎を追い払った二人は息を整えるため見晴らしが良く背後からの奇襲を防げる広間の隅に身を置いた。
「ど、どうですかね? そろそろ魔力切れになりそうですか?」
「どうだろうな。魔法指南の中でも徐々に使用回数を増やしていた。それに魔法が使えなくなってようやく五分。こちらは『主人』であるお鶴の影も踏めていないんだ」
「五分ではないんじゃないですかね? 直虎さまじゃ先生を捕まえるなんて無理でしょう」
「やれやれ、楽観的なことだ。魔擬合というのはそんなに甘く────」
ぎしりぎしりと廊下の床鳴りに気づいた夜半とブリュンヒルドは身構える。しかし、姿を現したのは下働きの女だった。直虎でなかったことに安堵する二人。
「紛らわしいですねえ……危ないですから下がってください」
ブリュンヒルドが警告した。すると、女はサッと姿を消す。
「で、先生。魔擬合はどう甘くないんですか?」
「俺たちがやったのと同じことさ。禁止されていないことはやっていい。本格的な魔擬合であれば切れ者の文官が事細かに決まりを作ったりするんだが、今回はザルすぎてなんでもありになっている。どんなえげつないことをしてくるつもりなんだか」
ドタバタドタバタ! と騒がしい足音とともに井伊家の家臣団総勢二〇名が現れ、広間を埋め尽くし夜半とブリュンヒルドに対峙した。
「……えーと、これは直虎さまとお鶴ちゃんの魔擬合で」
「第三者が足止めしてはならない、とは決められていない! 夜半殿! 覚悟!」
家臣団は一斉に二人に襲いかかった。
一方、その頃、お鶴は城内の隠し蔵の中に隠れていた。扉は内側からも錠前がかけられており、中のお鶴が開けない限り決して開くことはない。
「お鶴……聞こえるか?」
扉の向こうから直虎が声をかける。
「お館さま、どうなさいました?」
「今、みんなが魔擬合に横槍を入れている。これはお前の策か?」