「……すでに半刻。お館さまが捕まえられていないということは奴らに魔法が通用しないということでしょう。単純な格闘になれば我々が不利です」
「ま、まだ【一寸発心】が破られたわけではない! なりふり構わず出る段階では」
「甘いことをおっしゃいますな! 相手は名指南役と名高い夜半とその弟子! このように籠城していても破られない保証はない! これは井伊家の命運を懸けた魔擬合だぞ!」
お鶴の怒鳴り声に萎縮するように直虎は肩を竦める。
「なあ、本当に奴らが今川の密偵を手引きしたのか? 今川との連絡役は今もお前が担っているはずだが」
「心配ご無用。今川の抑えはボクに任せてくれ。お館さまは勝負にご専念を」
「……お前が言うのだから、そうなのだろうな」
直虎の足音が遠ざかっていくのを確認してお鶴はため息を吐き、蔵に隠し持っていた煙管を吸い始めた。
「……やれやれ。世話の焼ける女だ」
意地の悪そうな笑みを浮かべながら煙管を口にして独り言ちる。魔擬合の種目や決まりごとの設定、謀略についてもお鶴が一人で考え出した。今回に限っての話ではない。今の井伊家が保っているのはお鶴のおかげであると直虎もお鶴自身も思っている。それはあまりに脆弱で吹けば飛ぶような統治体制である。だからこそ、魔法の力に縋るしかなかった。
「今川の手の者を殺したのだ。猶予はもうないというのに魔擬合なんて開く羽目になるとはな。ブリュンヒルドめ……邪魔ばかりして、あやつはいったい何者なのだ」
苛立ちながら吹かす煙には煽るようなブリュンヒルドの表情が浮かぶようだった。
井伊家は井伊谷二五〇〇〇石を所有する大名であるが、同時に今川家の傘下にある。三河、遠江、駿河の三国を支配し、全国の大名家の中でも最強格にある今川家。その当主、今川義元は魔姫那を親衛隊のように侍らせるだけでなく、妾としても寵愛しているという。直虎が魔姫那と知られれば差し出すように迫られるのは必定。お鶴は内通に応じるフリをして、時間稼ぎを続けていた。
「もはや井伊谷がどうとか言っている場合ではない。この魔擬合に勝ち、一刻も早く【一寸発心】を完成させなければ……あれが完成さえすれば、たとえ今川だろうと」
ガタン! とお鶴の背後で物音がした。慌てて振り向くとそこにいたのは小さく痩せたネズミだった。「ふぅ」と安堵のため息を漏らす。しかし、
「『幕は降りて私は闇の中へ』────【化粧落とし】」
ネズミは艶のある女の声で呟くと、体が光に包まれて大きくなり、人間の女の姿へと変化した。その光景を目の当たりにしたお鶴は思わず腰を抜かしそうになった。
「な、なんだ!? なんだ貴様は!?」
「何かって? フフ、こんなことできる者が魔姫那以外のなんだっていうんだい?」
そう言って女は肩に垂らした自分の髪を持ち上げた。柊の葉のような濃い緑の光沢を放つ彩髪である。
「それにしても、こんな田舎で魔擬合だなんて。勿体無いね。今川の大殿にお知らせすれば大層お喜びになってご覧いただけたろうに」
「まさか……貴様は三遠駿の!? バカな! 伝わるのが早過ぎる!」
お鶴は狼狽する。目の前の女が今川の手の者であり、最も恐るべき相手だと知っていた。
「そりゃあ送り込んだ手先が帰ってこないようなら様子を見に来るわよ。私の独断だけどね。もしかして、おイタしちゃったのかしら」
お鶴は青ざめた顔で口ごもる。その表情だけで魔姫那は理解した。
「ウフフフフフフフ……大変なことしちゃったね。あなたほどの切れ者が、らしくないわよ。やっぱり、男は女が絡むと本当にダメになる」
「ボクは……別に直虎のことなど」
「わざわざそんな可愛らしい格好をしてでもそばに居たいってくらい、あの女坊主のことを好いているのよね……小野但馬守政次殿」
小野政次────それはかつて井伊家を専横した奸臣小野和泉守の嫡男の名前であり、お鶴が捨てた名前であった。
再び夜半たちに視点を戻そう。
井伊家臣団に襲われていたが、女人相手に後れを取る夜半ではない。迫り来る女たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げ、と動きを止められるようなことはなかった。しかし……
ガシッ! サワサワサワサワ……
「トウッ!」
「キャアっ!」
バタン!
「私が相手だ!」
ガシッ! モミモミモミモミ……
「せいやっ!」
「やられたー!」
バタン!
「おのれ! 夜半!」
ガシッ! ベタベタベタベタ……
「う……うおおっ!」
「あれ───!」
バタン!
「ああああああ────っ!! 組みついた時にイチイチおさわりするのやめろ──っ!」
そう。家臣団の女たちは投げ飛ばされる直前まで彼の身体の至る所をまさぐっていた。並の兵士よりもよっぽど戦いにくい相手に夜半は疲弊していた。
ブリュンヒルドも取っ組み合いの喧嘩をしている。女人にしては体格も大きく、運動神経に長けた彼女は互角以上に戦いを進めていたが、
「くそぅっ! 昨日は散々楽しみおって! そんなに夜半殿は凄かったのか!?」
「たしかに(手が)大きくて力強いし、(ほっぺたや耳が)伸び切って元に戻らないかもと思うくらい凄かったですけど! なんだかんだで先生は優しいので……フフッ」
「キィいいいいいい! うらやましいいい!」
「うわっ! すごい力!?」
嫉妬の力に身を委ねた相手の得体の知れない気迫に圧倒されていた。
大混戦のなか、家臣団の背後に直虎が現れるが苦戦中の夜半に気づく余裕はない。「好機だ」と直虎は魔法を発動するべく意識を集中させた────その時だった。
「火事じゃあ─────っ!!」
日吉の叫び声が響いた。直虎を含め井伊家の者はブリュンヒルドたちの策略かと思った。しかし、焦げ臭さと慌ただしい声に只事ではないと気づき始める。
「おい! ブリュンヒルド! 貴様の魔法か!?」
「わっ、私じゃないですよ! 日吉……まさか思い余って……」
そこに転がるようにして日吉が現れると、大声で訴える。
「大変でござる! 城に火の手が上がっているでござるよ! しかも何ヶ所も!」
「日吉! いくら私のためだからとはいえ火付けなんて!」
「おろろ……潔白でござる! 拙者なら皆が寝静まった頃に松明をくくりつけた牛をけしかけ、逃げ道に毒まきびしを撒き、草むらにマムシを放って一人でも多く殺せるよう工夫を」
「聞いてるだけで怖いです! 絶対にやっちゃダメですからね!」
「じゃれ合っている場合か! 一時休戦だ! 魔擬合の最中の火事騒ぎなど偶然で片付けるには無理があるぞ!」
「おい! お前たちのせいでないというのは本当か!?」
「昨日からずっと監視されていたんだ! そんな仕掛けできるわけないだろ!」
納得すると同時に警備の大半を夜半たちに使っていたことに気づく。もし、その隙を突いたのであれば狡猾で容赦が無い敵が井伊家を狙っているということになる。
「鶴……鶴は────」
「お館さま! ご指示を! 私たちは何をすべきですか!?」
狼狽える直虎に家臣たちは指示を仰ぐ。城に火を付けられたというのに、迅速な判断と対応ができる者がいない。鉄火場の経験がない女たちしかいない弱みが浮き彫りとなった。
「老人や子供の避難! 貴重品を持ち出せ! 急げっ! 休むなっ! 一秒休めば人が一人死に、一〇〇人死ねば井伊家は終わる! 命懸けで守れ!」
棒立ちになっている直虎の代わりに夜半が声を張り上げる。ようやく井伊家の者たちは自分たちがすべきことを考え、各々走り出した。
「姫さまは早くお逃げください! 万一のことがあれば天下の損失!」
「嫌です! 私も力になりますよ! 先生! 何をすればいいですか!?」