「よし! お前は城から出て民に城から火が出たことを知らせるんだ!」
「おまかせください!」
ブリュンヒルドは元気よく駆け出して行った。後ろ姿を見つめ日吉はニンマリと笑う。
「流石は夜半殿。真っ先に姫様を安全なところに逃がすとは」
「アイツがいると余計に事態が悪化するからな。遠ざけるに限る」
「おろろ、ツンデレでござるなあ」
夜半としては偽らざる本音のつもりだったのだが、日吉には伝わらないが諦めて、二手に分かれて駆け出した。取り残された直虎は足が震えていた。
「我の失策だ……こんなこと……父上に合わせる顔が……」
井伊谷城の奪還以降、直虎の神経はずっと張り詰めていた。当主になるための教育を受けたわけでもなく、寺で俗世に交じわらず修行していた娘に大名の座は針のむしろのようなもの。それでもなんとか耐えてこられたのは、比較的井伊谷が平穏であったことと、全幅の信頼を置く鶴が側にいてくれたからだ。
「……鶴……鶴よ!」
助けを求めるように鶴のいる隠し蔵へと駆け出した。
小野家は井伊谷の嫌われ者だった。
ボクの父、小野和泉守は野心家で、井伊家中で謀略と専横の限りを尽くしていた。おかげで物心ついた頃には周囲の人間が小野家を嫌っていることに気づいていた。それで構わなかった。愚鈍な田舎侍たちを束ねるのも不穏分子を粛清するのも優秀な人間のやるべきことであると思っていたから。もし、父の謀略がすべて罷り通っていたのなら、ボクは井伊家を手に入れ、男のままでいられただろう。
ボクの人生が変わったのは井伊宗家の娘『とら』との縁談の話が舞い込んできた時だ。顔合わせの場で恨めしく父を睨みつける彼女に不愉快な気分にさせられたが、後から聞けば、婚約者の父親が謀反騒ぎを起こして殺され、婚約者自身も失踪したばかりだったとのこと。しかもその陰に我が父の暗躍があったというからボクも頭を抱えた。怨み骨髄の相手を義父に持ちたい娘などいるはずもない。容赦も分別もない父のやり口に初めて疑問を覚えた。
結局、先代の意向でとらは寺に入れられ、姫ではなく坊主として育てられることとなり父の思惑は水の泡と消えた。ただ、父も先代も予想していなかっただろう。ボクが人の目を盗んで彼女の元に通うようになっていたとは。
「……ざまあないな、小野但馬守。散々策を弄しておきながら女ひとりモノにできぬとは」
自虐めいた独り言を漏らしながらお鶴は意識を取り戻した。蔵は既に火の手に囲まれており、中にも迫る勢いである。もう助からないことを悟り、落胆した。
非常事態である。三遠駿四八姫に名を連ねた者を殺害したことに対する報復か、直虎が魔姫那であることを知って献上を求めているのか、井伊谷の統治がまずいことに対する処罰か。だが、理由など今はどうでもいいことだった。
「誰か! 開けてくれ! 頼む! お館さまに! とらに伝えねばならんのだ!!」
何度も何度も声を上げる。だが、火が回り切った蔵には誰も近づかず、蔵の分厚い壁は女のように細いお鶴の声をろくに通しはしなかった。
井伊谷城の城門近くで緑髪の魔姫那はネズミの姿から人の姿に戻った。
彼女の魔名はクララ。今川家に所属する姫武将である。
魔姫那の身の振り方として最も成功者とされるのが大名家に武将として仕えることである。絢爛豪華な衣を纏い、城を我が物顔で歩く彼女たちはまるで姫のようで、からかい半分、畏れ半分で『姫武将』と呼ばれるようになっていた。
クララは気位が高く、魔姫那でもない普通の女たちを侮っている。ネズミの姿に化けている間は着物を身に着けられず、人間の姿に戻った時にはあられもない姿を晒すことになるが、「虫に裸を見られて恥ずかしがる者はいない」と気にも留めなかった。
「フフフ。切れ者の小野政次さえいなくなれば井伊家など恐るるに足りないねえ。井伊の魔姫那がどれほどのものかは知らないけど、邪魔者はキチンと間引いて……うっ!?」
「あっ……」
誰もいないところで魔法を解除したつもりだったが、偶然にもブリュンヒルドにかち合った。彼女の見事なまでに美しい金髪を見てクララは最大限に警戒した。
(魔姫那!? ならばあれが井伊直虎……いや、田舎領主にしては華がありすぎるわねえ。魔擬合の対戦相手かしら?)
ブリュンヒルドも突然現れた全裸の女に戸惑ったようだったが、察したようにフッ、と微笑んだ。その笑みが余計にクララの警戒心を搔き立てた。
(初対面の魔姫那相手に余裕ぶった表情……腕に自信あり? マズいわねえ。再び魔法を使えるようになるのに、あと一分はかかる。その前に攻められたら……)
「焼け出されちゃったんですね! かわいそうに! もう大丈夫ですよ。避難しましょう。とりあえず私の上着を着てください」
(……なんだ。世間知らずのお人よしね。警戒して損したわ。隙を見て殺すか)
見掛け倒しの取るに足らない獲物だと見下されていることも知らず、ブリュンヒルドは上衣を脱ぎ、包み込むような笑みでクララに近づく。
「さあ、どうぞ」
「ええ。ありがと……え────────グエッ!!」
ブリュンヒルドがクララの首に上衣を回しかけた次の瞬間、一本背負いの要領で締め上げた!
「彩髪虹眼の裸の女が危険だってことは学習済みなんですよ!」
ブリュンヒルドは命令のナナメ上を征く。
伝令をほっぽり出して不審人物に奇襲をかけるなど言語道断なのだが、大事なところで正解を引き当てるのが彼女の恐ろしさである。
喉を絞め上げられ魔法の詠唱はできず、窒息寸前になりながらクララは歯嚙みした。
「ガ……ヒッ!(とんでもない女! 私が完全に手玉に取られてるじゃない!)」
「誰か! 見るからに怪しい魔姫那がいます! 曲者です! 引っ捕まえてくださ〜い!」
「お……ま……舐めるなああっ!」
クララはブリュンヒルドの背中を蹴って宙返りし、拘束から逃れた。
「ゲホッ! ゲホ! よくも……やってくれたわねえ!」
「く、来るんですか! だったら私の必殺魔法をお見舞いしますよ!」
「おうさ! 魔姫那同士、魔法による真剣勝負と洒落込もうじゃない!」
「えっ……いや、ちょっと落ち着いてください。順序踏みましょう、順序」
必殺魔法どころかスプーン曲げすらできないブリュンヒルドは真顔で拒否するが、先ほど痛い目に遭ったクララは相手のペースに巻き込まれることを恐れ、聞く耳を捨てた。
「『幕が上がる。幕が上がる。今宵の舞台に上がるため』」
朗々と歌うように詠唱文を読み上げられ、ブリュンヒルドは「あわわ、あわわ……」と狼狽えることしかできなかったのだが、
「誰かある! 誰かある!」
井伊谷城の外から城門に向かって一頭の馬が駆けてきた。馬に乗っている鎧武者は対峙しているブリュンヒルドとクララを見下ろして睨みつける。
「これはどういうことか!?」
「そこの全裸女が城に火をつけました」
「だっ……誰が全裸女だ!?」
間髪を容れずにブリュンヒルドが告げ口すると鎧武者は見る見るうちに顔を怒りに染めた。
「不逞な魔姫那めぇっ! またしても井伊谷の地を踏み荒らしおって! 許すまじ!」
「ぐっ……運のいい奴だねえ!」
鎧武者の後ろからも馬の蹄が地面を叩く音が聞こえている。自身の魔法の威力を熟知しているクララは躊躇わず撤退した。
「追え! 今度こそ井伊谷は我々の手で守るんだ!」
家来の足軽たちが逃げたクララを追いかけていった。鎧武者は馬を降り、ブリュンヒルドと向き合う。
「あ、あの私は井伊家の敵では」
「存じ上げております」
と言って、兜を外すと綺麗に剃り上げられた坊主頭が現れた。
「天下に名高い魔法指南役の夜半殿の愛弟子ブリュンヒルド殿。この度の仲裁感謝いたします。拙者、井伊直盛。井伊直虎の父にございます」
慇懃な態度で名乗られて、ブリュンヒルドは目をパチクリとさせた。