井伊谷城にやってきた直盛配下二〇〇名は直ちに火消しと避難誘導に取り掛かった。
火災の拡大を止めるために火に近い建物を壊し、中から財に当たるものを取り出して逃がす。彼らの指示を受けて女家臣団も統制の取れた動きを見せ始めた。
何故、直盛が井伊谷城に駆けつけたかというと、昨晩、日吉が直盛の元を訪れ、
「井伊谷で魔擬合が開かれる。相手は高名な魔法指南役と天下一の魔姫那。井伊谷の支配権を賭けて争っているが、夜半は権力や地位に固執しない。これを機に井伊家の在り方を糺すのであれば喜んでそれを譲り渡す」
と告げ、井伊谷への帰還を要求したからである。
「勝てばよし、負けた場合は事を有耶無耶にするために呼んだ援軍であったが、目論見のナナメ上に刺さったでござるな」
火消しに協力しながら日吉はポツリと呟いた。
井伊谷城で起こった火災は少しずつ縮小していった。しかし、火元であるお鶴が閉じ込められた蔵の周りは近づけないほどの火が立っている。ポンプも消火剤も発明されていない時代、水を操る魔姫那もいない状況では燃え尽きるのを待つしかない。
「ろくでもない……死に方だな」
既に火は蔵の中に入り込み、黒煙に包まれていた。
少し前までは煙管を吸って気を紛らわせていたが、もはや煙が吸い放題の状況に嫌気がさし煙管を火の中に投げ入れた。意識を失うまで数分もないことを悟ると、目を閉じ、死を受け入れることに思考は移っていた。
「こうなってみれば、井伊家も井伊谷も、どうでもよいことだ……乱世であることにかこつけて己が欲のために他者を踏みつけ、自分より強いものに踏みつけられ……どうせ人などいつか死ぬ。それが早いか遅いか、死に顔が笑っているか、悔しがっているかだけの違いよ」
冷笑的に自分の人生の総括を行うお鶴だったが、その両手は敬虔に合わせられていた。
「だとしてもだ……とら。どうか、生き延びておくれ。お前ならばどこにだって逃げられる。井伊家なんて、背負わなくていい。自由に生きられるのなら……ボクは……」
「今度は自由という衣を着せるのか? 我は着せ替え人形ではないぞ」
「!? な……」
瞼を上げると、目の前には直虎が立っていた。当然のように全裸である。
「ど、どうやってここに!?」
「お前がここにいると思うと、炎が遮ろうが分厚い壁があろうが、行けると思ったのだ」
啞然としていたお鶴だったが、直虎の出鱈目さがおかしくて笑いが込み上げてきた。
「あっはっはっは! ここに来て段違いの力を手に入れるとは! さすがはお館さまだ!」
「お館さまだなんて呼ばないでくれ。さっきみたいに、とらと呼んでおくれ」
目に涙を浮かべる直虎。「最期まで、手のかかるお方だ」とお鶴は嘯く。
「とら。よくやったな。その魔法があれば怖いものなどない。最強の魔姫那の誕生だ。日の本のすべての武将がお前を恐れる。井伊も今川も必要ない。好きに生きられるんだ」
井伊直虎の側近お鶴ではなく、井伊家の不和の種であった小野和泉守の息子でもなく、不憫な井伊家の娘とらという少女が信頼を置いた鶴という幼馴染の声で語り聞かせた。
「さあ。出ていけ。外から入れたなら内から出ることもできるだろう」
「魔力を使い果たしてしもうたわ。残念だったな」
勝ち誇った顔の直虎を見て、鶴はそれがウソだと悟った。
「わざわざ魔法を使ってまで……心中など、愚行の極みだ」
「愚かかもな。だが、お前の望みどおり、我は好きなように生きる。だからここに来た。行きたい場所など、お前の隣以外にない」
直虎はお鶴の隣に膝を抱えて座り、肩にもたれた。
「……お前は本当に男を見る目がない。井伊家も終わりだ」
「見る目がないのはお互い様だ。こんな女を担ぎ上げるなどな」
「井伊家を乗っ取るためだ。無理そうなら今川に高値で売りつけてやろうと思っていた」
「わざわざ女の格好をして、小野の名を隠してまで尽くしてくれたな」
「お前に言えないような悪どいこともたくさんしている」
「我に代わって手を汚してくれたのだろう」
「……幼き頃、寺に通ったのだって、負け犬の小娘の惨めな顔を楽しむためだった」
「知ってた。でも、良き話し相手、心の支えになってくれた。どれだけ運命に翻弄されようといつだって我のそばに鶴はいてくれた……だから、」
直虎は腕を広げ、お鶴を抱きしめて、
「置いていくなんて酷いことしないでくれ。地獄だろうとついて行かせておくれ。我は……お前なしには生きていけないのだ」
直虎に抱かれながら、お鶴は後悔した。自分に依存させすぎたことを。なぜ、今更そんな言葉を聞かせるのだ、と怒鳴りつけたくもなった。だが、直虎の体の柔らかさと温度が心の棘をすっと抜き去って安らぎを与える。すると頑固な涙腺が緩み、頰が濡れた。
「ボクにはもったいない言葉だ……こんなに報われていいわけがない」
「ハハッ、我のような出来損ないに好かれることがそんなに大層なことか?」
「大層なことに決まっているだろう。ずっと、ずっと焦がれていたんだ。とらさえいれば、何もいらない……!」
お鶴は直虎の頰を両手で優しく持ち上げて口付けを交わした。炎に囲まれて迫る今際の際に一秒を惜しむかのような長い口付けを────
「本当にどっちもイケるんだな。お熱いことだ」
掛けられた声に驚いて二人揃って振り返ると、そこには夜半が立っていた。なお、着衣。
「夜半っ────! どうやってここに入った!? 抜け穴でもあったのか!?」
「貴殿らが知らんのなら俺が知る由もないでしょう。それはさておき、直虎殿。あなたは弟子失格だ。貴重な魔法を自害のために使おうだなんて」
「お前が教えたのだろう! 燃える蔵の前で立ち尽くしていた我に、壁を越えるコツを」
「教えましたとも。あなたならもっと上手くやれたのに、雰囲気に流されてイチャついて……宝の持ち腐れとはこのことだ。教え甲斐もない」
と、言って夜半はお鶴の襟首を摑む。
「本来、魔法はか弱くも心優しい少女たちが理不尽な運命に抗うため授けられた力。ならば、この状況で使わずとしてどうする?」
「我一人しか救えない魔法に何の意味がある! 鶴を置いてなど行かんぞ!」
直虎はさらに力を込めてお鶴を抱きしめた。加減なしの力に小柄なお鶴は圧殺されそうになっているが、夜半は「ちょうどいい」と嘯いた。
「最後の指南だ。二人とも目を閉じろ」
意図がわからず、二人は戸惑ったが、言われるがまま目を閉じた。
「では、行くぞ────────。────────」
火の爆ぜる音に消え入りそうなくらい小さな声で夜半は呟いた。
バタバタバタッ! と騒がしく音を立てて、お鶴と直虎は地面に転がった。
それまで肌を焼き尽くすように猛威を振るっていた熱が消え、涼しい風が撫でるようにそよいだ。不思議に思いながら二人が目を開けると、頭上に青い空が広がっている。稽古に使われていた井伊谷城の庭に移動していたのだ。
「い……いったい貴様何をした!?」
「私の胸ぐらを摑むより、御自身の胸を隠す方に腕は使うべきです」
夜半は直虎の裸体から目を背けている。鉄火場を抜け出して頭が冷えた直虎は猛烈に恥ずかしくなりうずくまって体を隠した。
「くっ……これだから男というものは! いやらしい!」
「禁欲させられると女もそうなる、ってこの地で思い知らされましたけどね」
皮肉めいた口調でそう呟く夜半を尻目にお鶴は自分の着物を直虎に羽織らせた。
「【一寸発心】の正しい使い方とは刃を以て敵を暗殺するだなんてセコイ魔法じゃありません。あなたの魔法はどんな窮地からでも大切な人を抱えて逃げることができる、必殺ならぬ必救の魔法たり得るんです」
「人を……救う魔法……」
「立派な魔法です。それを授かったあなたは特別恵まれた魔姫那です。失敗や不幸を嘆く暇があったら精進なさってください」