摩芙は肩掛け鞄を渡すと、気遣いの言葉を矢継ぎ早にかける。
「カナちゃん、前はここで猫とか助けてた」
「そうだっけ」
「その前はお婆さんの籠だった。危ないよ」
「ごめん、つい」
とぼけた返事しか寄越さない少年に、なおも切々と訴え続けた。
手梓も睨む少年・直会カナエに、今二つ三つ堪えた様子がないのは、悪いことをした自覚がないためである。結果だけを見れば、良かった、と言える──のだが、同様の突発事態に度々直面させられる側としては、正直たまったものではない──の、だが、
(実際、直会には『なんとかできる』って雰囲気があるからな……って、いかんいかん)
危うく納得しかけた手梓は首を振って、その結果オーライな考えを振り落とした。
逆に、彼の無鉄砲に長年付き合ってなお、あるいは長年付き合ったからこそ、その程度しか求められない、と承知しながら訴える摩芙に、心の底から同情する。
(一番身近な一条が、一番の被害者、か)
思って、せめての助けと建設的な方向へ、彼らを動かす。
「もういいから行くぞ、遅刻する」
「はいー」
「はい……」
明暗分かれた返答とともに、三人はようやく登校の途についた。手梓が先に立ち、カナエが後に続き、摩芙がその袖を摑む形で──と、その一歩目を大きく出したカナエが、先頭に並んで再び、掌中に残されていた物を差し出す。
「先輩。これ、本当に──」
「……」
手梓は、躊躇いを面に表して、差し出されたものを見た。
持っていても仕様がない、もう捨てよう、と思いつつも踏ん切れず、ポケットに入れっぱなしにして、いつしか指先に遊ばせるのが癖になっていた──落とし物を。
それを道路に落とした、と気付いた瞬間、自分でも意外なほど激しく波立った気持ちに、まるで応えたかのように飛び出し、拾い上げてくれた──直会カナエにも。
(思いもよらないことをしでかす、なんとかできる雰囲気のある奴、か……)
流した諸々の思いが結びつき、とある感覚で胸の内を押し始める。
その心の力を先触れるように、お礼の言葉が、自然と漏れていた。
「……ありがとう」
ようやくそれを受け取った彼女の、胸の内を押す心の力。
(もしかして、こいつなら)
それは、淡い期待。
授業を受けつつ、カナエは朝の出来事を薄ぼんやりと反芻していた。
危ないから止めろ、という周りの言い分は、たぶん正しいのだろう。
(でも、やらないではいられなかったんだよ)
居眠りをするまで、いつもと同じ答えを、自分自身へと返していた。
そして恐らく、次に同じことがあっても、やっぱり同じように──。
多柏学院は、明治初期に開かれた官制伝習所を前身とする、県内屈指の名門校である。その学制は一貫のエスカレーター式で、高校・中学校・小学校・幼稚園に当たる、高等部・中等部・初等部・幼年部の全てを合わせて『学院』と称されている。
浅い擂り鉢のような盆地の底へと降りる坂道沿いに、上から高・中・初・幼、それぞれが校門を連ねており、直会カナエや一条摩芙、山辺手梓らの住まう学生寮[黄葉館]は坂道の一番底、T字路として左右に分かれる突き当たりの正面に居を構えていた。つまり、彼ら寮生は各々の学校に文字通り登下校する、というわけである。
カナエの通う中等部は、坂の中腹にある。
校舎は、古い木造に多少の改装を行った三階建て。二年生は二階という安直な振り分けで、上下に三年生と一年生の動きが音が容易に届く、あまり良質とは言えない環境だった。もっとも、彼ら中等生にとっては自分の騒ぎこそが世界の主役である。余所を気にするほど神経は細くない。時が放課後となれば、なおさらだった。
この今も、二年二組の生徒たちは各々、下校という最高の娯楽に興じるため、計画を話し合い、鞄に教科書を詰め込み、あるいはさっさと教室を飛び出している。
そんな浮き立ったざわめきの中、
「今日は寄り道なしか?」
いち早く声変わりした低さで、桧原里久が隣席の友人に尋ねた。
頰杖を突いてぼうっとしていたカナエが、首を横向きに傾げる。
「そだな。そろそろ溜まってる罰点を消化しないと、休みが寮の掃除だけで一日潰れる」
「男子寮は女子寮より清潔、という評判の立役者らしくもない物言いだ」
里久は、カナエと寮で同室にして級友の、少年である。小柄なカナエとは逆に、平均身長をかなり超えた長身だが、スマートと言うよりも年経た針葉樹のようにどっしりした高さを感じさせる。容姿も粗削りの木像然としており、これもカナエとは対照的だった。
入寮以来数年、過度に臆さず接し続けてくれる数少ない友人に、カナエは横倒しの顔で嘆息して見せる。
「別に好きでやってるわけじゃない」
騒動を起こす度に寮の掃除を罰として科されている彼の──鼻歌を歌いながら営々と作業に勤しむ──姿を思い出して、今度は里久が、心持ち程度に首を傾げた。
「そうか?」
「そだよ」
やる気なさげに返してから、ようやくカナエは帰り支度を始める。
と、そこに、
「直会」
ついさっき教室を出て行ったばかりの級友が、やや浮ついた様子で戻ってきた。頼りない足取りに蹴飛ばされた手前の椅子を、事もなく掌で受け止めたカナエが尋ねても、
「どしたの」
「そ、外に」
答えは要領を得ない。
「外?」
カナエが窓から外を見やると、
「違う違う、廊下だよ」
なぜか赤くなった顔で言う。
その間に、別の級友が二人、また引き返してきた。
「いいなあ、おまえら」
「寮だと毎日一緒なんだろ?」
なにを言われているのか分からず、顔を見合わせるカナエと里久に、先に来た級友が、まるで後の二人に先を越されまいとするかのように、息急き切って言う。
「先輩だよ、山辺先輩が──」
「入るぞ」
言い切る前に、山辺手梓が入ってきた。
「なんだ、いるじゃないか」
「「「はいっ」」」
と級友三人が揃って返事をする。
中等部の教室に高等部の生徒がいる、という違和感が、見慣れているはずの彼女を常より大人っぽく見せる。全校集会等で遠目に見るだけという有名人の登場に、憧れの先輩の光を撒くような歩みに、堪らず女生徒らも黄色い悲鳴を上げた。
そんな周りを気にも留めず、カナエは向き直って尋ねる。
「なにか御用ですか」
「ん、ああ」
今朝の件をスッカリ忘れた風な少年に、手梓は今さら、大きな呆れと小さな気後れを抱かされた。それでも、なんとか気を取り直して、できるだけ簡潔に用件を切り出す。
「私と付き合ってくれないか」
声の後、数秒の静けさがあり、
「ええーっ!?」
「付き合って、っててて、つつ、つまりそれは」
「山辺先輩が、なんでこんなのと!?」
「直会、おまえ、なんで、許せねえええ!!」
深刻な嫉妬からなる男子の驚愕と、
「キャーッ!!」
「大胆! 大胆だよ!」
「へー、二人って、そうだったんだ!」
「こんなとこで堂々と、先輩ってば素敵!!」
無責任な好奇心からなる女子の嬌声が、一斉に噴出する。
勝手に盛り上がるそれらに手を挙げ、
「い、いや、付き合えってのはそういうことじゃ」
慌てて周りを制する手梓に、言われた当のカナエはなんということもなく尋ねる。
「えーと、つまり、どういうことなんでしょう?」
「それは、つまり、だな」