色々と分かってなさ気な彼への答えは、歯切れが悪い。注視する周りへの体面を守りつつ、手短に済ませたかったため省略していた目的、あるいは建前を口にする。
「放課後、旧校舎の点検だ」
ただ単に、下校前に直会カナエと話せれば、と思っただけだった。
なのに、どうしてこう、無駄に注目されたり騒がれたりするのか。
(まあ、中等部の校門前で待っていたら、もっと面倒なことになってたはずだから)
そう考えることで、自分の選択を納得の方向へと引きずってゆく。
いつもいつも周りは騒ぎ過ぎると思う。こんなことでは全く……。
多柏学院の持つ大きな特徴の一つは、盆地の北側斜面を占める(生徒らは『無駄に』と付ける)広大な敷地に点在する校舎群である。斜面を下る坂道を挟んで鬱蒼と広がる森の合間合間に、その古びた木造屋根を数多、海に浮かぶ島嶼のように覗かせている。
かつて、生徒や学科の増加に応じて無計画に拡張増築されたせいで、不規則に折れ曲がる渡り廊下、今や用途も不明となった詰め所等で結ばれた全体は、殆ど迷路と化していた。中には文化財指定を受けてもおかしくない洋館も混じっており、そちらは適切な管理の下、学院の権威を内外に示す舞台装置として利用されているが、大半は生徒の減少する毎、奥から順繰りに閉鎖されている。より身も蓋もなく表現すると、ほぼ放置されている。
一纏めに『旧校舎群』と呼ばれる、これら閉鎖・放置区域の全容を把握している者は、学生はおろか古株の教師にすら皆無。近年ややの改装を受けた現用校舎周辺区域の外は、新緑の底に長大な身を蹲らせる、通る者とてない近代の遺跡だった。
今、
その現用校舎と旧校舎群の境界に当たる渡り廊下に、のんびり歩く四つの人影があった。夕暮れまで些かの時を余した、明るい春の放課後は、長閑さに一抹の陰を過ぎらせている。古びた木造通路の眺めにも、それらはうら寂しさと薄気味悪さの色味で表れていた。
「ふうん、山辺さんのお手伝い、か」
先頭、訝しげに言う二十代半ばの美人は、橘樹逢。
中等部の社会科教師で、直会カナエの担任である。学校に数人いる寮住まい教員で、寮監も務めている。この接点の多さは偶然ではなく、同じ寮住まいという関係から、非公式に危険人物のお目付役に任じられている……と専らの噂だった。本人は真偽を質される度に引き攣った笑いで誤魔化しているが、仮にそれが事実だったとして、果たせているかは甚だ怪しい。
「よりにもよって直会君を、点検作業に、ねえ」
後ろに続く三人、よく知る寮住まいの生徒たちに、彼女は視線をやる。
「山辺さんの仕切りなら問題は起きないと思うけど、なんだか怖ぃわぁっ!?」
「っと!」
古い床板に上履きを引っかけつんのめった逢の腕を、カナエが素早く摑んで引き留めた。
「あ、ありがとう」
「いいってことです」
このように、お目付役の方が助けられる場面ばかりなのである。事実がどうであれ、逢の役目は仕出かす前か後の世話をすること、と周りから受け取られていた。
「カナちゃん」
腕を引いて助け起こす、それ以上に触れ合わせないタイミングで、なぜか付いてきている摩芙が小さく、自分の方に引き寄せるように、カナエの袖を摑む。
「はいはい」
甘えん坊の少女に笑って答え、カナエも手を離した。逢の肩越しに、行く先を見て言う。
「摩芙は先に帰っててもよかったんだぞ。『廊下向こうの噂』は、初等部にもあるんだろ?」
「うん……」
摩芙は小さく頷きつつも、袖を握る手に力を入れた。
渡り廊下の奥に広がる学院の旧校舎は、人が寄りつかない寂れた木造の建物、という絶好の条件から、生徒らによって数多くの噂の題材となっている。怪談から不思議話、ミステリに歴史SFまで、誰もが息を吞む真に迫ったものから、失笑される程度に陳腐なものまで、その種類や出来栄えは様々。全体の傾向としては無論、怖い方向に偏っている。
摩芙のように気の弱い少女には、かなり酷な同行のはずだったが、常の如く初等部の校門前で待ち合わせていた彼女に携帯で連絡した結果、こういうことになっている。
「……でも、行く」
その懸命な様子に、ごく当たり前に付いてきている里久が、
「やることが雨漏りと窓ガラスの点検程度なら、一条でも大丈夫だろう」
これも常の如く平静な声でフォローした。ついでと疑問を付け足す。
「それで、当の先輩はどうしたんだ」
「点検に要る書類を、庶務課に取りに行ってる。入り口の鍵を開けて待っててくれ、ってさ」
袖を摑んだままの摩芙を振り払わないよう気を付けながら、カナエは答えた。
逢は床に注意しながら、模範的な寮長を褒める。
「山辺さん、去年から点検と簡単な見取り図作りを自主的にやってくれてるの。今向かってる所は初めてだけど、全体だと結構な面積になってるんじゃないかしら。業者に頼んだら費用もかかるし、こう見えて先生たちも忙しいから助かってるのよね」
「ははあ、廃墟マニアって奴ですか」
カナエが適当なことを言って担任を嘆息させる間に、渡り廊下が終点になった。
ごつい南京錠で施錠された引き戸が、前に立ちはだかっている。地面を蛇行する渡り廊下を横腹に突き刺す、ロビーすらない三階建て木造校舎の入り口だった。校舎の全体は、装飾性に乏しく外壁も色褪せた、古風・質実剛健の様式である。
「んー、9の125の……2、と」
逢は、寮監の習慣として腰のカラビナに結わえていた鍵束を外すと、南京錠に刻まれたものと同じ番号の鍵で開錠した。
「なにもなければいいけどな」
「おまえが言うと、そうなりそうにないから止めろ」
ぬけぬけと言うカナエと窘める里久、二人を余所に、逢はあっさり引き戸を開けて、埃も立たない空虚な廊下(入り口は廊下の壁に無造作に設けられていた)の左右を見渡す。
「はい、確認と。鍵閉めも私が立ち会わなきゃいけないから、帰るときは携帯で連絡してね。まあ、山辺さんがいるから、わざわざ言うまでもないと思うけど」
「りょーかいです」
カナエの緩い返答にも、
「ちゃんと周りに気を付けて、危ないことはしないようにね」
まるで初等部に言い聞かせるように念押ししつつ、渡り廊下を引き返していった。
その背中を見送る間も僅か、
「じゃ、行こうか」
「うん」
カナエは摩芙が握る袖を、軽く引く。
三人は古い建物独特の、どこか人を寛がせる木香の中へ、ずいと乗り込んだ。
左右、夕方前の白っぽい光に照らされた廊下は、時代がかった簡素な様式も手伝って、注目に値するような物は見当たらない。せいぜいが、彼らには読めない英語以外の、字体まで雑多な表札らしき木札が、そこここに打ち付けてある程度。興味のない人間にとっては、古びた校舎、という風景を形作る部品でしかなかった。
そんな、特段の刺激もないことに拍子抜けする、あるいは安堵する背中に、
「ん? 直会だけじゃないのか」
入り口、遅れてやってきた手梓が声をかけた。
カナエと里久が軽く会釈する。
「どうも」
「人手が多い方が捗るかと思ったので」