(学校の不思議話程度のソースを頼りに、あの先輩が何ヶ月も旧校舎を巡るだろうか?)
彼女は『扉』についての情報を伝聞っぽく誤魔化していたが、言動には「あやふやな物を探している」というブレが感じられない。まるで情報は正確と分かっている……もっと言えば、本物の『扉』を知っている、といった風情だった。全く以て、馬鹿げた推測だが。
そもそも、転校した友人と連絡を取りたいのなら、もっと他にやりようがあるだろう。なにもこんな不思議話に頼る必要などない。理由がある、と彼女は言っていたが……。
(直会の奴は、いったいどこまで分かって付き合っているのやら)
数年来の友人という里久にも、直会カナエという少年の思考の底は計り難い。吞気者に見えながら異常に鋭いところもあるし、逆に理解していて当然と思っていたところが抜けていたりする。しかも、その何れなのかは、行動に出て初めて判明する仕様である。
(まったく『点火済みの爆弾』とはよく言ったものだ)
浮かべた微苦笑を機に、答えの出ない思案を打ち切って、作業に戻る。
「ん……?」
と、その一歩目で気付いて、里久は立ち止まった。
長々思案していたというのに、摩芙が廊下に出てこない。教室の点検は、さほど時間のかかる作業ではない。真剣に励んでいるとしても、既に姿を現して然るべき頃合いだった。
(おかしいな)
思ってから、
(というより、変だ)
胸の中に嫌な予感が膨れあがった。思わず駆け出す。
「一条!」
廊下を遡って隣の教室の中、開いたままの扉の奥に、見つけた。
床に倒れ伏している、摩芙の姿を。
走り寄った里久は、抱き起こそうとして、危うく思いとどまった。
その幼い白皙の麗容は、今にも消え果てそうなほどに生気を失っている。
火が点いたように動くカナエと対照的に、里久は努めて自分を冷たく静め、倒れる少女をゆっくりと、仰向けに転がした。体を揺すらず、ただ声だけをかける。
「一条、聞こえるか」
返事はない。顔色が、尋常でなく悪かった。
(低血圧気味なくらいで、特段の病気は患っていなかったはずだが)
ここまで摩芙の調子が悪くなったところを、里久は初めて見る。どうすればいいのか、と考えてようやく、平凡ながら最善の方法──誰よりも彼女を気遣う直会カナエに急報する──に思い至った。ポケットから携帯を取り出す。
と、そのときようやく、
「大、丈夫だよ、里久ちゃん」
唇が微かに動いて、途切れそうな吐息に声を混ぜた。
しかし、と言いかけた里久に、
「違うの」
摩芙はか細くも鋭い声を被せる。
「病気とかじゃ、ない」
心配を打ち消すように、微笑すらして見せた。その言う通り、汗こそかいているものの、見つけたときより幾分か、顔色を取り戻している。未だ戸惑う里久に、
「ただ、ビックリしただけ」
言って、胸の前で小さな手を握り締めた。
少女にできる限りの強さで、懸命に。
手を強く握ることで、少女は懸命に、追い払おうとする。
唐突な呼びかけ、知らされた事実、二つの衝撃の余韻を。
(ああ──今日、ここで、だったんだ)
遂に来てしまったことに、諦めたような悲しみがあって、
やっとこうなったことに、嬉しいような切なさがあった。
ふと、それがカナエの目に入った。
何気なく視線を振り向けた、すぐ傍らに。
今まで見えていなかった物が、忽然と現れていた。
(──)
手梓と並んで渡り廊下を帰る、途中。
行きに降りてきた短い階段。
その、板張りの壁。
(──あれっ?)
陽光に白く焼けた外壁とは逆に、物陰で黒ずみ乾いた内壁の、ど真ん中。
最初は大窓が開いているのかと錯覚したが、そんなものは記憶にない。
そもそも、心持ち傾いた長方形の大窓など、あるわけがなかった。
(窓じゃなくて)
異様に真っ白な、板張り。
それが真横に、現れていた。
気付けば、ノブも付いている。
(扉、だな)
唐突なそれの正体に納得した。
納得して、視線を前に戻そうとした。
戻そうとして、ギョッとなり、見返した。
(扉!?)
手梓の言葉が鮮明に蘇る。
(──「階段脇の壁に傾いた形で現れる、真っ白い木の扉」──)
一つ一つ、確認した。
ここは階段脇の壁である。
傾いた形で、現れた。
真っ白い、木の扉である。
(見つ、けた)
機械的に認識してから、
(見つけた!!)
感情が追いついてきた。
(これ、が──『言づて妖精の扉』だ!!)
カナエの身が激発し、
いつものように、既の道を辿って、
手梓に呼びかけ、見つけた物を指差そうとして、
「先ぱ──」
失敗した。
というより、邪魔された。
制服の袖が、なにかに引っかかっていた。
(釘!?)
今までない経験に泡を食うカナエが、手元のそれを目に留めた。
なんということのない、頭を少し出した一本の釘だった。
他ならぬ『言づて妖精の扉』から出ていた、それ。
(う、わ)
引っかかりを支点に、想定外の形で、体が振り回される。
手梓に教えようとした勢いはそのままに、異なった方向へと。
叩き付けるような勢いで体が向かったのは、手梓ではなく、『扉』。
(──)
そして、また突然、それがカナエの目に入る。
真っ白いそれの上部、覗き穴の場所に輝いている、紋章。
鈍角を下に向けた平べったい二等辺三角形と、中心にある多重の半円。
(── ──)
カナエはそれを、こう、感じた。
(──半開きの、目──?)
感じた瞬間、扉に激突した。
が、衝撃はなく、痛みもない……と把握した途端、
視界の全てが消え去って、まっしぐらに、落ちた。
「 ──っぁぁああああああああああああああああああああああああああ !?」
堪らず、カナエは大きく開けた口から、恐怖の絶叫を溢れさせていた。初めて感じる猛烈な落下と加速の感覚、全身を叩く壮絶な空気の圧力が、叫ぶ声すらぶち切ろうとする。それでもカナエは、絶叫という自分に残された最後の行為を、息が切れるまで続けた。
その何十秒、あるいは何秒かを突き抜けて、
「あ」
終着点が呆気なく、眩しさとともに訪れた。
ぼいん、という間抜けな感触が、ほんの半秒前までの落下を打ち消す。
緩く低く跳ねて、カナエは大の字に放り出された。幾らかの余韻が、その体を中心とした波紋になって、どこまでもどこまでも、際限なくそこの表面を広がっていく。
絶叫の名残として、ぽかん、と大口を開けたまま、カナエは視界を埋め尽くす一つ色を眺めていた。正確には、眺められるものはなにもない。さっきまで夕暮れ前だったはずの空が、澄み切った青となって、どこまでも果てしなく続いていた。荒い息遣いを自覚していなければ、これこそ死の静寂だと思ったに違いない。
やがて、たっぷり時間をかけて息を整えたカナエは、思考する余裕を得る。
「どう、なったんだ?」
その曖昧な、吐息のように漏れた問いに、
「この星に、降って来たんだよ」
可笑しげな声で、曖昧な答えが返ってきた。
「っ!?」
急激に意識が覚めて、勢いよく半身を起こす。起こして、その姿勢のまま固まった。せっかく取り戻した思考が、また飛びそうになる。ならざるを得なかった。
カナエの眼前に、星が広がっている。
夜空に輝く光としての、星ではない。足を着けて立つ大地としての星が、見渡す一面に地平線を緩やかに描いて、広がっていた。その全ては、土ではない。無垢の雫のような薄い白と、冴えた湖のように淡い青で、奥底の彼方を神秘に隠す、巨大な塊だった。
それら空と星、
在り得ない光景の中間に、
辛うじて理解可能な形のものが一つ、
というより一人、頰杖突いて、宙に座っていた。
薄いワンピースを着た、カナエよりやや年上と見える、髪の長い少女だった。可憐といっていい容貌に、悪戯っぽい笑みが不可分の力として宿っている。その笑みが、
「やーっと、見つけてくれたんだね」
まるで欠片を振り撒くように、明るい声として零れた。
そうして少女は、スッキリと短く、
「こんにちは。私の名前は『星平線のそよぎ』──」
愛称を付けて、自分の名を告げる。
「そよぎ、でいいよ」