「なるほど、さすがはアッティール公家のご子息。……といいたいが、おれの見立てでは、ちがうな。空を仰いで微笑んでいたそなたは、まるで殉教の旅においてようやく聖地を見つけた僧侶のようであったよ。そなた、死ぬつもりであったか」
レオは黙りこくった。ややあってから、山賊めいた男は質問を変えた。
「おれなど、どれほど歳を喰おうと、いかなる戦地を経験しようと、死ぬのが怖くなるばかりだよ。そなたはどうだ、死が恐ろしくはないのか」
「恐ろしくなどありません」
周囲が翳った。辺りは木々が密集しているため、夕暮れの光も届かない。右手側から聞こえる川の音が大きくなってきた。男は軽く鼻を鳴らした。
「戦場においてならその言葉も頼もしく聞こえようが。しかしここは異国の山中。アトールの公子ともあろうお方が、山の獣に喰われる、もしくは置き去りにされたまま凍え死にしたのでは、さぞ大勢の者どもが嘆き悲しもう」
「ぼくが死んで、誰が悲しむというのです」レオは馬上で小さく笑った。「ぼくには兄がおります。そして──弟も」
レオは『弟』と口にするときいったん笑うのをやめたが、またすぐに忍び笑いをして、
「両親も、公王家の存続を願う人たちも、だからぼく一人が死んだところで悲しみはしないでしょう。ぼくにはアッティールの姓さえ意味をなさない。それは、ぼく個人の死など、その他の人々にとってなんの意味もないのと同じことです」
瞬間、馬が棹立ちになった。男が突然手綱を引き絞ったのだ。さらには男が腰をひねったために、摑んでいたレオの手がするりと抜けて、背中から落馬してしまった。激痛に声もない。今度こそ山賊の類があらわれて、それで男が臨戦態勢を取ったのかとも思ったが、
「ならば死ね」
と彼は呻いているレオめがけていった。
「おれがわざわざ山にわけ入って来たのは、アッティール家の公子をお救いするためだ。姓もなく、命さえ捨てた小僧のためなどではないわ。そんな小僧のために、誰が危険をおかしてまで捜索しようなどとするものか。死にたいのならどこへなりといって死ぬがいい」
「なん、だと」
レオの頭に火の塊が落ちたようだった。いくら人質の身とはいえ、このような扱いを受けるいわれなどない。レオは背中の痛みも忘れて、涙がうっすらにじんだ目で男をにらみあげた。と、男は馬の脇腹に蹴りをくれた。走り出す。
「ま、待てっ」
レオは遠ざかる馬の尻を追いかけた。頭に宿った火のごとき熱が、本人にも理解できないほどに激しい感情を次から次へ生み落としつづけている。
「死ね、だと。ぼくはアトール公子だぞ。おまえに命じられる覚えなんてない。戻ってこい!」
「その名に意味などない、とそなた自身がいったのだ。おれも、命を捨てた死人に命令される立場ではないわい」
待て、と何度も繰りかえしてレオがあとを追う。男は時折馬を止めては、「おれを追いかけてどうなさる? 無礼討ちされるおつもりか」だの、「愉快愉快。死人が大口を開けて追ってくるわ」だのといいながら笑う。その都度、レオは顔を真っ赤にして、息を喘がせながらも速度をあげて、なんとか馬の尻に喰らいついた。
「おや」と、またも馬の足を止めさせて男が笑う。「動かぬほうがいい。いま左の茂みが動いたぞ。血肉に飢えた獣が、牙と爪を光らせてそなたの命を狙っておる」
レオもはっと息を吞んで、身動きを止めた。男が口にしたとおり、左手の茂みがかさかさと音を立てて蠢いた。
風のせいだ、とは思うものの確証がない。男は馬上で剣を引き抜いて、
「名もなき小僧。このおれがご助勢つかまつろうか」
「必要ない」レオは左手に注意を払いながらもそろそろと進む。「け、剣を貸せ。ぼくがこの手でやっつけてやる」
「命など惜しくないといったばかりだというのに、おかしな小僧だ。どのみちおれの武器はおまえには扱えないよ。雄々しく死んでみせるがいい」
男は剣を腰に戻すと、ふたたび馬を駆けさせた。レオはあわてた。走って獣の気を引くのも怖いが、この場に留まっているのはもっと恐ろしい。だから駆け出した。つまるところ、この時点でレオも悟っていた。
「待て、待て待てっ」
などと叫んで、いかにも怒りに燃えて男を追いかけているように見せかけながら、実際のレオはこの闇のなか、一人ぼっちになることをこの上もなく恐れていた。
陽が沈む直前、空を仰いで、「死のうか」などと思っていたのは、結局のところ、いつかは陽だまりのなかにぬくぬくとあたたまっている自分を想定した上での戯言に過ぎない。
レオはひた走った。いつしか涙がこぼれていた。もはや「待て」ともいわない。息をするのに必死で、声も発せられないのだ。男の背中が次第次第に遠ざかっていく。かろうじて人の形に見えていた影がやがては闇に吞まれる。耳に届く馬の足音も遠い。レオは手足を力いっぱい動かした。すると闇の向こうから赤々とした光の列が見えてきた。その光に照らされるようにして人馬の影がふたたび浮きあがってくる。レオは最後の力を振り絞って駆けた。
そこは、山の麓だった。男はすでに馬足を止めている。レオはその尻にすがりつくような格好で膝をついた。
赤々とした光の正体もわかった。火を掲げた人々の群れである。アングラット家に仕えている兵やら下男下女、さらには城下の人々や近隣の百姓まで駆り出されてか、大勢の男女が火を掲げて山の裾野をうろついていた。
するとそのなかの一人が、騎馬に気づいて、大急ぎで駆け寄ってきた。
「クロードさま!」
「おうさ」
馬上の男がその呼びかけに応じて手を振った。息も絶え絶えだったレオがはっとなるのをよそに、
「アトールの公子はここにおられる」
と、レオを指して高らかにいう。おお、と地鳴りのような声を発して、人々が集まってきた。
「将軍、お戻りになられたばかりだというのに、お手をわずらわせましたな」
「なんの、そのほうらもご苦労。あとで家の者にいって酒樽を出させよう。昼間、息子たちが狩りにいって獲物をしとめてきたようなのでな。それを火であぶって皆で頂くとするか。なあ、ウォルター、ジャック?」
突然男が大声をあげると、寄り集まっていた火の一角がびくりと揺れ動いた。人々にまぎれて潜んでいたウォルターが一歩進み出てきて、
「も、申しわけありません、父上」早口でいった。「その、狩りにいきはしたのですが……獲物は一匹もしとめられず」
「その割に、意気揚々と引きあげてきたと下の者がいっていたがな」
「いえ、それは……あの、面目次第も……」
「よい。城を引っ搔きまわせば適当なつまみがあろう。なにもないとあってはアングラット家の名折れなのでな。とはいえ人数が多いなあ」
男はそういって人々を笑わせた。
レオは、呆然とその笑顔を見あげている。一時は山賊にすら見えた男が、「クロードさま」と呼ばれた。いうまでもない、クロード・アングラットのことであろう。すなわち、レオの身柄を預かったこの地の領主であり、いわずもがな、ウォルターやジャック、フロリーの父親である。
そのクロード、ひらりと身軽な様子で馬から飛び降りた。
大きな手をレオの肩にまわしてくる。抗えずにいるうち、クロードは身を屈めると、
「そなた、姓は捨てたといったな」ブーツの紐を結びなおす振りをしながら囁きかけてくる。
「どうせ人間、生まれついての名も姓も他人からの授かりものだ。生かすも捨てるも人の自由であろうが、そなたにはまだまだ早い。アッティールの姓に匹敵する以上の力がまだ備わっていないからだ」
早口でつづける。
「おれにはもともと名がなかった。いや、あるにはあったが誰も知らぬのでは名なしも同然だ。だからこの手で名をあげ、存在を証明してきた。それに比べれば、アッティールの姓、捨てるにも朽ちさせておくにもいささかもったいない。しばし、それに匹敵するほどの力を蓄えるまでのあいだ、そなたの心の棚に預けてみんか」
それだけをいうと、あとはすっくと背を伸ばし、下人が馬の轡を取ろうとするのを断って、手ずから馬を引いて歩いていった。
レオのほうにもすぐさま人が寄ってきて、毛布で身体をくるんでくれた。涙が出るほどにあたたかい。
人々が掲げる火の列に先導されて、レオも歩いた。あの、草っぱらで見あげた宵の空から一歩ごとに遠ざかる思いがした。身も心も溶けるようだったあの一瞬からも。しかしだからこそレオ・アッティールはいま野の風にも凍えず、火に守られているのだった。