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年月が経った。
レオは十七歳になった。
アトール公国から人質として預けられること、実に六年。時折、様子を見るためにアトールから使者が訪ねてくることはあったが、帰国の許しは出なかった。
ここ数年で、武力をもって領土を急速に拡張したアリオンだった。レオが人質となるきっかけとなった争いも、現アリオン王がにわかに見せた覇権への野心にもとづくものだ。しかしそのため、支配地域においてもたびたび騒乱が起こった。ただちに軍勢を派遣して火消しをしても、すぐにまた残党勢力が結びつきあって小さな火種をあちこちにまき散らす。
たとえば年始の祝賀の際や、いっとき父の公王が病気に臥せっていると知らされたときなど、一時的にでもレオが帰国を許されなかったのは、アトールのような小勢力であっても警戒せざるを得なかったアリオンの現状がある。
さらには、ここへ来て新たな火種が生じつつあった。
レオたちとも無関係ではない。長いことアングラット家の子息らの教育係をつとめていたコンスコン寺院の僧侶が、突如として館に訪れなくなった。
(アリオンと寺院との関係が悪化しているらしい)
ということは、人々の交わす噂でレオも聞き知っていた。
しかしそれが、運命の大きな変容をわが身にもたらすことになろうとは、思いもよらぬレオである。
アングラット家の兄弟は昨夜から浮ついていた。
都から『船』がやってくるというので、その見物にいく予定なのだ。兄のウォルターは二十二、弟のジャックも二十歳になっている。見た目ばかりはぐんと大人びたが、気性からは子供っぽさが抜け切らない。翌日、
「お兄さまたちったら、夜も明けきらないうちから滝に出かけたみたいです」フロリーがあきれ返った様子でレオにそう告げた。「どうせ見物人がわんさか押し寄せてくるから、いい場所を早いうちに取っておくんですって。先生がいらっしゃらなくなられたからといって、羽目を外しすぎだと思いません?」
そうはいうものの、フロリーも気をそそられていたらしい、朝食後、
「レオ兄さまもいっしょに参りませんか」
と、『船』見物に誘ってきた。
先日来訪したアトールの使者がレオのために書物を何冊か持ってきてくれていたので、それを一気に読んでしまいたかったのだが、息を弾ませるフロリーの様子を見ては断りきれなかった。
十日ほど前、フロリーの可愛がっていた馬が足を折ってしまい、殺処分されたばかりだった。フロリー自身に乗馬の習慣はないが、もともと動物の世話をするのが大変好きであり、特にその牝馬のことをフロリーは『姫』と呼んで、生まれたときからずっと世話を引き受けていたのだ。フロリーは決して人前では泣こうとしなかった。しかし朝を迎えるたび大きな目が赤く腫れていた。そんな目をしながらも、家族の前では元気をよそおって微笑むフロリーを見てきたレオだ。少しでも彼女の気が晴れるなら、とつきあう気になった。
「見て、レオ兄さま。凄い人!」
滝を正面から見ることのできる丘には、フロリーのいうとおり人だかりができていた。城下町だけでなく、近隣の村々からも集まっているのだろう。
かつては国境線ともいわれたバーレー川が勢いよく流れくだり、その周辺に小さな湖が形成されている。滝の音もあって、辺りはすでに相当騒がしい。兄弟もこの人だかりのなかにまぎれているのだろう。
レオとフロリーはその最後尾からもやや距離を置いて、滝を見おろせる坂道の上に並んで立っていた。
湖に即製の桟橋がかけてあるのが見える。大勢の人がごったがえすなかにあって、そこばかりはぽっかりと人が絶えていた。その代わり、槍や銃を手にした兵たちが桟橋の左右を固めている。城主のクロード・アングラットが直接『船』からの使者を出迎えるためである。
「ほら、あそこにお父上がいらっしゃる」
「どこ? レオ兄さま」
フロリーが背伸びしたり、ぴょんと飛びあがったりしているが、人があまりに多いので目にすることができないらしい。レオは薄く笑った。
「おんぶしてあげようか」
「知らないっ」
フロリーは膨れっ面になった。
十七歳になったレオは背丈がずいぶんと伸びて、アングラット家次兄のジャックをすでに追い抜いている。ただし横幅の成長が追いついていないため、見た目にはひょろりとして、弱々しい印象を与えた。滝のほうから吹きつけてくる風に飛ばされてしまうのではないかというほどだが、連日激しい鍛錬を課している身であるから、見かけよりも足腰はずっとしっかりしていた。
とはいっても、幼年時代から女の子にまちがえられるほどだった繊細な顔のつくりはそのままであり、たとえ腰に護身用の剣を差したところで、とても武人らしい姿には見えない。
風になぶられて揺れる栗色の髪が長かった。アリオンの都周辺はともかく、この地方にも、そしてアトールの男性社会にも髪を長くする習慣はないから、これまではますます女性めいて見えてしまう、と何度か切ろうとしたのだが、
「まあ、もったいない」とフロリーに必ず止められた。「この柔らかで繊細な髪質、都の女性たちとて羨ましがるでしょう。毎朝の手入れが億劫なようなら、このフロリーが兄さまに代わっていたしますゆえ」
その宣言どおり、フロリーは毎朝張りきった。逃げ隠れする『レオ兄さま』を引きずってでも鏡台の前に連れていき、丹念にくしけずる。必要なようなら時折ハサミも入れて、そしてその時々の気分次第でいろいろな形に編み込んだ。
クロード・アングラットはその出自が狩人であったという話だが、妻のエレンはそれなりに由緒ある商家の出である。また、家族のなかでは唯一バーダイン教徒であった。娘のそんな姿を見とがめて、
「フロリー、輿入れ前の女性が、みだりに男性の身体に触れるものではありませんよ」
注意の声をあげるものの、普段、年ごろの娘にしては珍しいほど父母に従順なフロリーが、ことレオのこととなると意固地になる。滝からの風に揺れるレオの長い三つ編みも、今朝、出かけるまで時間がないというのにフロリーがてきぱきと編み込んだものだ。
レオがこのアリオンへやってきたとき十を数えるばかりだった女の子は、いまや十六になる日も近い。「新しいお兄さま」とはじめて会ったときからレオをそう呼び、にこにこと無邪気に迎え入れていた子も、こうして外へ出かけるたび、すれちがう老若男女が思わず足を止めて、
(やあ、お館さまのご息女だ)
微笑みとともに見入ってしまうほど、美しい娘へと成長していた。
こうしているいまも、ちらちらと人目が送られている。生来、人の目にさらされることが苦手なレオにしても、なんとはなしに誇らしい気分になった。
「フロリー、寒くはないか」
「いいえ、平気です。レオ兄さま……あっ」
フロリーが高く声をあげて、空の一点を指した。集まった人々も揃って同じ位置を見あげ、同じく指差しながら大声をあげている。目当ての『船』がついにあらわれたのだ。この『船』、川を下ってきたのではない。レオやフロリーをはじめ、人々がてのひらで庇をつくって見あげているように、それは空から舞い降りてきた。
竜石船──俗に、飛空船などと呼ばれる。